第561話  現実が見えない青年

「あ…アレは一体何なのだ…おい、誰か答えよ!」

 暗黒教ダークランド皇国軍の奥深く、多くの兵達に囲まれた場所に、その大きく豪奢な造りの天幕は建っていた。

 その天幕から飛び出した青年は、空を指さし叫ぶように大声で周囲の兵達へと答えを求める声は、辺りに響き渡った。

 だが、誰もがただ空を、そこ映る美しい女神と、それに従う一風変わった異国風の白と赤を基調とした衣装に身を包んだ、神と思しき獣人の幼女から目を離せなかった。

「誰か、アレが何なのか、早く答えんか!」

 青年は、心の奥底では気がついていた…いや、知っていた。

 あの空に浮かび上がる神を名乗る女性たちが、本当の神である事を。

 そして自分が創りあげた暗黒教の主神である暗黒神など、本当はこの世のどこにも存在しないという事を。

「ああ…女神様…」

 それは誰かの呟きだったのだろうか? それとも慟哭だったのだろうか?

 青年の怒鳴り声が辺り一帯に響く事からも分かる様に、あの女神が空に現れた時から、周囲はしんと静まり返っていた。

 やがて先程の声が切っ掛けの様に、多くの兵達が跪き空へと祈りを奉げ始めた。

「お前達、何をしているのだ! あの様なまやかしを、紛い物の神など祈るな! あれは化け物だ! あんな奴の言葉に耳を傾けるな! おい、何をしている! 早く立て! 立たぬか!」

 半ば自らの言葉こそが嘘であり、暗黒神こそが紛い物だと知っている青年は、唾を飛ばしながら半狂乱で叫びながら自陣を駆け周った。

 その間にも、青年の行動などまるで気にも留めず、女神達の会話は続く。


『大地神を捨て、暗黒神などという在りもしない創り物を崇めた民よ。我は1度は過ちを許そう。我、大地神への信仰心を取り戻したる者には救いを。暗黒神などという偽神を使い、多くの民を欺こうとした企みに乗せられただけである事は、我には分かっておる。清き心を取り戻さんとする者には救いを。そうで無い者には、神罰を与えよう』

 丸い耳を頭に付けて、変な棒切れを持った幼子が空で何かを語っていた。

 青年がいくら否定しようが、空の上から大音声で流れる彼の者の声には叶うはずもなく、その声はかき消された。

『聖なる女神ネス様と、太陽神様、月神様、そして我、大地神の言葉に従う物は、全ての武器と防具を捨てて、南北の山へと進め。それ以外の者は、前に進み、我が騎士達を打ち倒すが良い』


 青年からは見る事も敵わないが、目の前の遥か彼方には、女神の騎士とやらが居るという。

 それを倒せば、まだこの兵達は自分に従うはずだ。

 これだけの兵が居るのだから、負けるはずが無い。

 青年は、目の前の現実が見えていなかった。

 自分の欲に塗れた目に映るのは、自らが思い描いた理想の未来なのか。

 なればこそ、負けるはずが無いと思い込み、それを盲目的に信じた。

「剣を取って立ち上がれ! 我らの敵は目の前ぞ!」

 青年には自軍の兵達が、屈強な男だとでも思っていたのか、それともそう見えていたのか。

 時として現実は非情にして残酷なのもだと、青年は知らなかった。

 皇族として生まれて、そんな物は誰も教えてくれなかったのだから。

 望めば何でも手に入る立場であり、皇族以外はすべての民が等しく自らの下僕であると教えられてきたのだから。

「行け! 行くのだ!」

 その叫び声に反して、周囲の兵達の視線は冷ややかであった。

 

 青年により国の名も変えられ、信じた神も貶められ、今まで聞いた事も無いような神を無理やり信仰させられたのだ。

 そして無理やり周辺国家を戦乱の渦に巻き込み、あまつさえ遥か遠き国々にまで喧嘩を売っていたのは誰か。

 日々の食料を手に入れる事さえできず、病に倒れようとも気にも留めず、ただ只管戦を続けたのは誰か。

 最も罪深き者がいったい誰なのか、兵達は知っていたのである。

 だからだろうか、騒ぎ立てる青年のすぐ傍にいた兵達が、力なく真っ先に剣を投げ捨てた。

 水すらまともに口にしていない兵の唇は、かさかさに乾ききっていた。

 手を振り上げる事すら満足に出来ないほどに、彼等は衰弱していた。

 そんな兵達に戦えと言うあの男。

 血色も良く、大声で駆けまわる力すらある、あの男。

 そんなに戦いたければ、お前ひとりで勝手に戦えとばかりに、次々と兵達は剣を捨て鎧を脱ぎ捨てた。

 1人ではもうまともに動く事も出来ない兵達ではあったが、皆で手を貸しあい助け合って、ゆっくりとだが女神の示した一方、北の山裾へと向かった。

 この長く伸びきった自軍のすぐ左右に連なる山の麓が、女神の指示した場所だというのは、彼等にはすぐにわかった。

 何せ、彼等から見て右手、つまりは北側の山裾と、左手つまりは南側の山裾は、ぼんやりと光り輝いていたからだ。

 彼等は這うようにゆっくりとだが、そこを目指していた。


 青年はそれでも半狂乱で叫び走り回った。

 時には、殺すぞと脅しもかけた。

 だが、ほとんどの者は聞く耳を持たなかった。

 幾人かの、青年に重用されていた者達は、見せしめとばかりに山裾に向かう兵を剣で切りつけたりもした。  

 だが、誰も歩みを止めなかった。

 無駄と知ったか、それら剣を持つ者は、青年の元へと集まり、こう告げた。

「陛下! この兵達は洗脳されたのやも知れませぬ。こうなったら我々だけで、彼奴等めを討ち取りましょうぞ! さすれば、洗脳から解放されるかと愚考します!」

「おお! 確かに、其方の言う通りじゃ! 剣を持つ者よ、我に続くが良い!」

 

 こうして現実が見えない青年と、現実を見ようともしない皇国の一部の兵は、山裾へと歩む兵を掻き分けて、女神の騎士が待つ最前線へと進みだしたのだった。  

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