ヨネジの事情――2話
外は伸ばした手の先がやっと見えるかどうかというほど真っ白だった。ぼやっと光る冷たい霧の中、キビキたちは進む方向を決められずに立ち尽くす。
「こりゃ酷いな」
ゲンが言うと、ヨネジも「さっき歩いて来た時は霧なんてなかったのに」と呟く。
「どんな姿をした魔物かも分からねぇんだよな」
キビキは呟きながら考える。あるいはこの霧そのものが魔物なのではないかと。
すると、霧の中を駆け回る影の塊が見えた。
「何かいたぞ! 追いかけよう!」
キビキがそう叫ぶと、ゲンとヨネジも「あぁ」と答える。
キビキはそれを追いかける。
背丈はキビキより少し高いくらい。
手足はゴツゴツとして歪で、頭からは二本の角が伸びている。
嫌な姿をしているな、とキビキは身震いをする。そして自分の頭に手を伸ばし、角に触れてみた。
「大丈夫。あんなに長い角じゃない。あんなに歪な腕じゃない」
思わず呟くと「何の話じゃ?」とヨネジが聞く。
「あ……いや、あの影の姿がさ、何か未来の自分みたいに見えて……」
キビキがそう答えると、今度はゲンが「待て」と言う。
「俺には人魚に見えるぞ」
「人魚? あれのどこが人魚だよ。人魚ってあれだろ? 上半分が人の姿で、下半分が魚みたいになってる海の魔物」
影を追いかけながらキビキが聞くと、ゲンが「そうだ」と答える。
「それはおかしいのぉ。ワシにはただの人間にしか見えんが」
言いながらヨネジは首を傾げる。
そして、どうやら同じ一つの影を見ていながら見えている形は違っているのだろうという事が分かった。
「霧で互いの姿も見えんし、厄介だな」
ゲンが溜め息交じりに呟く。
すると、その声に別の声が交ざって聞こえてくる。
『行かないで』
『誰も来ない』
『変わってしまった』
『もう戻れない』
それは聞き慣れない、ざらついた声だった。けれどその言葉には覚えがある。キビキが何度も何度も繰り返した言葉だ。
その言葉でキビキは百五十年前を思い出してしまい、胸が痛んで思わず足を止める。
「どうしたのじゃ?」
ヨネジが聞く。
「……声が、聞こえるんだ」
「声とな?」
「あぁ。たいした事じゃねぇ。昔の話だよ。ただ、すげぇ嫌なやり方をする魔物だ」
傷だと認識するのさえ嫌な記憶、キビキはそれを昨日の事のように思い出している。
傭兵か騎士のような数人の男たちに連れられ、六歳のキビキは酔いどれ森に来た。
むせ返る酒のにおいに吐き気がした。
騎士たちは血に汚れていて、キビキは恐ろしくて何も聞けなかった。
やがて葡萄酒の泉のほとりに着くと、キビキだけを置いて帰って行く。
聞いた事もない不気味な鳴き声が聞こえ続けていた。
囲い川の向こうで爆発音が絶え間なく響いていた。
もう二度と、誰にも会えないような気がした。
「なぁ、キビキ」
先の見えない霧の中、すぐ隣からゲンの声がした。
「なんだ?」
「俺には何の声も聞こえないんでな。お前と関わりが深い奴なんじゃないか?」
「俺に? って事は俺の家だったムギか? ラッカの子は元気に育ってるしなぁ」
キビキは思い出してみる。
コドラに天馬たち、ラッカの子供たち。あとはゲン以外に深く関わった相手はいない。
そこまで考えて、いや、とキビキは思う。
家が魔物になって走り出す事もある森なのだ。
「俺が初めてこの森に来た時に、にごり酒の森の端で見つけた苗木があるんだ。なんか愛着が湧いていつも見に行ってたんだけど、その木が大きくなってからはよく根元で寝たり独り言を言ったりしてたよ」
「という事は、もう樹齢百五十年は過ぎている訳か」
ゲンが言う。
キビキは独り言と言ったけれど、それはどちらかと言うと泣き言だった。もしあの木が魔物になっていたとするのなら、キビキのつらい記憶ばかり知っていて当然なのだ。
「あの木かもな」
「なら行くぞ。はぐれないように声を出せ」
ゲンに言われた通り、キビキとヨネジは話しをしながらにごり酒の森と葡萄酒の湖の境目にある木を目指す。
しかしヨネジは今朝と同じような覇気のない声に戻ってしまっており、キビキはそれが気に掛かって仕方がなかった。
「やはり当たっているようだな」
近づくにつれ濃くなっていく霧の中、ゲンが言う。
「そうみたいだな。だとするとそこの右辺りだよ。ちょっと見てくる」
「待て、キビキ」
走り出そうとしたキビキを止め、ゲンが続ける。
「今回の魔物は自分で動けないから妙な霧で弱らせて捕食するつもりなんだろう。どこから襲って来るか分からん。気を付けろよ」
「分かった。でも、じゃあどうする?」
キビキがそう聞くと、ヨネジが「ワシが行こう」と言った。
しかしそれをゲンが「ダメだ」と強い口調で止める。
「それは罪滅ぼしにはならんぞ。逃げているだけだ」
ゲンが言う。その言葉の意味が分からず、キビキは黙って聞いていた。
「知っておったのか?」
「無駄に長生きしてるからな。俺は木材の調達に行って来る。二人でのんびり話でもしながらここで待ってろ」
ゲンはそう言うと、スタスタと行ってしまった。
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