3-3 激突する運命
居場所を見つけたと思ったら失って。ネフィルの情報は一向に集まらなくて。リノヴェルカの心はますます擦り減っていく。そのうち全てがどうでもよいと思うようになってきてしまった。ただ、生きている。それだけでいいと。そのためには感情なんて抱いて邪魔なだけだ、捨ててしまえと。
世界は広い。けれどリノヴェルカはその世界の中で、一人ぼっちだった。
そんなある日のこと。
ネフィルを知るという人物の情報を、リノヴェルカは聞いた。
兄と訣別してから半年後のことだった。
◇
「よく来たな、娘よ」
白銀の髪に淡い水色の瞳をしたその男は、そうリノヴェルカに声を掛けた。
「は?」
思わず声がもれてしまう。
掛けられた言葉は、それくらい有り得ないものだったから。
男は優しい笑みを浮かべた。
「私は天空神アズレイン。リーラとセフィアと交わり、リノヴェルカとイヴュージオをこの世に誕生させた神だよ」
リーラ。それは確かにリノヴェルカの母の名前だ。セフィア。それは兄から聞いた、イヴュージオの母の名前だ。だがいきなりそんなことを言われて、信じられるはずがない。
馬鹿を言うな、とリノヴェルカは鋭い瞳で男を睨んだ。
「初対面で『娘よ』だって? ふざけるのも大概にしてくれないか。もしもあなたが父さんならば……どうして私たちをそのままにした! 父親ならば、子を育てるのが父親の役目だろうに!」
「神々の事情があったのだ。そう怒るな」
男は困ったような表情を浮かべた。
どこから話そうか、と呟き顎に手を当てる。
そしてアズレインを名乗った男は語り始める。自分とリーラ、セフィアとの馴れ初めを……。
◇
話を聞き終え、リノヴェルカは難しい顔をする。
男の言ったことは嘘だとは思えなかった。
『おまえの父さんは神様なんだよ』
それは、母が幼いリノヴェルカに聞かせてくれた話と酷似していた。自分と母しか知らないはずの話だった。それを今、目の前の男が語っている。男の言葉を、信じざるを得なかった。
風神ガンダリーゼはリノヴェルカを気紛れで助けた。神が普通に地上に降りてくるのだ、父神がやって来たっておかしくはないのだろう。
「……話はわかった。あなたは私たち兄妹の父さんだ。でも、ならば」
話を聞き終えた後に残ったのは、静かな怒り。
すり減った心に久しぶりに宿った感情は、怒りだった。
「ならば! 何故私たちを捨てた? 何故天界に連れていかなかった? 答えろこの駄神!」
「神でない者を天界に連れていくことは、出来んのだ」
苦い顔でアズレインは言う。
「本当に……済まないと思っている」
「それが今更のこのこと出てきたというのか。何故? あなたに会わなければ、私は心乱されることもなかったのに?」
「謝ろうと思ったのだ、娘よ」
「娘なんて呼ぶな! 捨てたくせに!」
燃え上がる感情。
生まれてこなければよかった、とリノヴェルカは思うようになっていた。こんな、こんな不幸を味わうくらいならば。だから憎い。母と交わり、自分が生まれるきっかけをつくったこの父親が。生まれてしまった以上、生きなければならない。人々から恐れられ、何処にも居場所を見つけられないまま。亜神としての長い一生が終わるまで、ずっと。
「私は! 父さんなんて!」
激情が風を巻き起こす。誰にもぶつけられず、ひたすらに出口を探し求めて荒れ狂っていた感情が、一気に解放される。落ち付け、という声は聞こえない。ただ憎かった、憤ろしかった、恨めしかった。どうしようもない想いが爆発し、烈風を父に叩きつける。
「大嫌いだ! 今更謝るな! お前のせいで、私はッ!」
孤独、寂しさ、虚しさ、諦め。失われた幸せな日々。
父が母と交わりさえしなければ、そういった全てもなかったのに。この地上で、ずたぼろになった心を抱えて生きなくても良かったのに。
風の刃。幾千も。父に襲いかかる。風の盾を生み出せば防げたはずのそれを、アズレインはあえて防がない。それこそが罰だと言わんばかりに全てを受ける。飛び散った赤い血液が、神の血が、その臭いがリノヴェルカを狂わせる。死んでしまえ、壊れてしまえ。全て全ていなくなれ。暴走した感情。そして。
気がついた時、父は、天空神アズレインは、ぴくりとも動かなくなっていた。
はっとなってリノヴェルカは父に駆け寄る。その身体はもう、息をしていなかった。
「は、はは……」
笑みがリノヴェルカの口を彩る。
「は、ははは……」
感じた。自分はもう、どうしようもない領域に踏み込んだのだと。
父を、天空神アズレインを、殺してしまった。激情のあまり、殺してしまった!
その代わりのように湧きあがってきたこの力は。亜神が神へと昇格したことを示すのだろうか。
亜神は神を殺したら神になれる。それがこの世界の法則だった。皮肉にも、リノヴェルカは父を殺すことでようやく、天界へ行く権利を得られたのだ。
「ははははは! はははははは! あっはははははははは!」
狂ったような笑いが、もれる。
嗚咽するように呟いた。
「今、更……」
笑いと涙が同時にこぼれる。
「今更……天界へ行く権利を得たって! 神になったって! 遅いんだ、遅いんだよッ!」
亜神から神になったことで、中途半端な存在ではなくなった。だが、その手はもう神の血に汚れている。今更、天界に行ったって誰も歓迎などしないだろう。
父が自分たちを捨てず、最初から天界で過ごさせてくれていたらどれほど良かったろう。そうしたらこのような悲劇は起きなかったかもしれないのに。
暴走する。風の力。それは建物を吹き飛ばし、町中に解き放たれた。人々は風の刃から逃げ惑い、阿鼻叫喚の地獄が生まれる。亜神から完全な神となった彼女を止められる存在などもういない。壊れ、たがの外れた心を元に戻してくれる存在は変わり果ててしまった。白銀の髪は風にもつれ乱れ、翠の瞳には嵐を宿す。空に浮かびあがった彼女はまるで、世界を滅ぼす神のようだった。そこへ。
「……リノ」
何度も聞いた声が、大切な人の声が、リノヴェルカの耳を打つ。
瞬間、正気に戻った心。しかし風は止まない。もう止め方を知らない。止めてくれ、とリノヴェルカは叫んだ。ああ、とイヴュージオが頷く。
かつて仲良しだった兄妹。しかし残酷な運命は、こうして二人を戦い合わせた。
今はリノヴェルカが悪、イヴュージオが善だ。きっとイヴュージオはリノヴェルカを殺す。そしてイヴュージオが神となり、リノヴェルカは救われる。
「お前の地獄は――この僕が終わらせるッ!」
波濤。噴き上がった鉄砲水が、水の竜となってリノヴェルカを噛み千切らんと襲いかかる。疾風。風が爆発する。風を編んで作られた風の竜が水の竜に噛み付いた。そして両者は同時に消滅、次の手を打たんとそれぞれが思考する。
神となったリノヴェルカの力は強い。しかしイヴュージオだってもう、以前の弱い力しか持っていないわけではない。そして今のリノヴェルカは手加減して倒せるような相手でもない。だからこそ。
「海よ! 弾けて砕けよ! 我引き起こすは世紀の災厄!」
イヴュージオが全力を解き放つ。伸ばされた手の先、みるみるうちに集まっていく水。それは巨大な津波となって、町を押し流していく。巨大な波はリノヴェルカに向かい、彼女を呑みこまんとその顎あぎとを開ける。リノヴェルカは風でこれを押し返そうとしたが、重さが違う。リノヴェルカはそのまま波に呑み込まれた。
しかしこの程度で終わるリノヴェルカではない。目を狂気にぎらつかせた彼女は、呑み込まれる寸前に風を集めて空気の球を作り、その中に閉じこもって溺死を防いだ。やがて空気の球は地上に上がり、彼女は大きく息をつく。間髪を入れずに力を解き放つ。呼び出したのは竜巻だ。町ひとつを滅ぼしそうなほど巨大な竜巻は、海の水を巻き込んでイヴュージオに迫る。すさまじいスピードだ。あれに巻き込まれれば、亜神と言えどもひとたまりもないだろう。それを見、イヴュージオは一切躊躇わずに自身が生んだ津波の中にその身を躍らせた。海の中にいれば地上の影響を受けない。当然のことである。リノヴェルカの竜巻は木々をなぎ倒しながら別の町へと進んでいく。戦いの中、兄妹の力はますます被害を生んでいく。
水が外へ抜けていく。別の町を呑み込まんと移動する津波。水から顔を出したイヴュージオ。狙い打つように風の刃が一閃。頬を切り裂かれるが、致命傷ではない。水に流されるイヴュージオを負い、戦いは次の町へ。
押し寄せてきた大津波と竜巻に、阿鼻叫喚の光景が広がる。ぶつかり合う風の力と海の力。どうしようもない想いが砕けて散る。
イヴュージオは勢いを込めて、水の槍をリノヴェルカに向けて放つ。不意打ちの一撃はリノヴェルカの脇腹をかすり、リノヴェルカはそのまま落下して着水、しかし沈むことはなく水に浮かぶ兄を睨みつける。
水の中ならばイヴュージオの領域だ。突如生まれた渦がリノヴェルカの足元を掬い、リノヴェルカはそのまま渦に呑み込まれる。だが、風の魔法で空気の泡を作ることは忘れない。呑み込まれる瞬間、出来る限り多くの空気を巻き込んだリノヴェルカ。空気の泡を操って水中を移動、兄の真下に狙いを定める。発射。空気の泡の先端を鋭く光らせて、魚雷の如く兄に打ち込む。勢いで自分も水から飛び出し風の力で飛翔、下を見る。
決着はついていた。
さああ……と水が引いていく。空気の刃に切り裂かれ、兄は致命傷を負っていた。
血まみれの兄。見て、正気が復活する。気がつく。自分はどうしようもないことをしてしまったのだと。
「イヴ……!」
叫んだ瞬間、竜巻は消滅した。
荒れ果てた台地に横たわり、イヴュージオは笑っていた。
「リノ……」
「嘘だ! 私がイヴを殺しただと!? 私は私は私はァッ!」
「ははは、計画通り」
そこへ。
した声。
「ネフィル様……」
イヴュージオの呼んだその名を聞いて、リノヴェルカの中に再び燃え上がる怒り。
漆黒の髪、紫の瞳、褐色の肌。紫のマフラーを巻き付けた少年が、嘲笑うように唇をひん曲げて、そこに立っていた。
確信する。こいつが兄を変えたのだと。
燃え上がった怒り。どうしようもないほどに。
「貴――様ァッ!」
怒りのあまり駆けだした瞬間、「リノ!」声がして。
包まれる。いつも一緒にいた海の香り。大切で、大好きで、しかし変わってしまって。救おうとしたその存在の、声が、腕が、リノヴェルカを包み込む。
リノヴェルカが踏み出した先、本来リノヴェルカの身体があった場所。
イヴュージオの身体に、禍々しい刃が突き立っていた。
「何とも麗しい兄妹愛だな」
ネフィルの声が興味深いものでも見たかのように響く。
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