1-2 火焔の中で
町にたどり着き、ほっと息をつく。宿を探し、宿の主に宿賃代わりに金の輪を渡すと、驚いた顔をされた。イヴュージオがリノヴェルカを止めて輪を取り返し、懐から数枚の硬貨を取り出して渡した。案内された部屋で、イヴュージオに呆れた顔をされた。
「あのさ、純金は高価だってわかってる? リノ」
リノヴェルカはしゅんとなる。
「だって……私、お金それしか持ってないんだ」
「僕が払うから、ね? 下手に目立つことはしない方がいい。悪い奴らに目をつけられたら大変だろう」
リノヴェルカの身につけた金の飾り、そしてイヴュージオの額の銀の輪。それだけでも、狙われる理由には十分だ。それ以上の金品を持っているなどと悟られるわけにはいかない。戦乱で貧しくなった人が多い中、リノヴェルカたちのきらびやかさは人の目を引いてしまう。
イヴュージオの銀の輪は、少ない彼の魔力を増幅させる魔道具としての役割がある。そう簡単に外すわけにはいかない品だ。リノヴェルカの金の装身具は彼女の母の遺品らしい。金の輪は気軽に渡していたが、他の品は断じて渡そうとはしない。そういった理由はあるのだが。
「……傍から見れば、歩く宝物庫みたいなのはわかるけど、さ」
イヴュージオが溜め息をついた。
「今夜は念のため、海の結界を張っておくよ。襲われたら面倒だろう」
「そ、それなら私が風の結界を張るぞ。イヴは怪我人なんだから、しっかり休んでおけばいい!」
自信に満ちたその表情、絶対に魔法を間違えない、という確信。
それがイヴュージオの劣等感を掻き立てているとは、彼女は知るまい。
そうだね、とイヴュージオは笑みを返した。心を、殺して。
「じゃあおまえに任せるよ。僕はちょっと休む……」
「怪我したまま、イヴは結構歩いたよな。ゆっくり休むといいぞ」
ベッドに横になる兄にリノヴェルカは声を掛けた。
そして静かに唱える魔法。それは風の結界の魔法。
「さやかに揺れそよぐ風、我らへの害意にその耳澄ませ!」
リノヴェルカの起こした風が、宿の廊下を渡っていく。
リノヴェルカは兄の横たわるベッドに背中を預けていたが、しばらくして、眠ってしまった。
気が付いたら、夜だった。
風の結界がうるさいくらいに唸りを上げている。
リノヴェルカは飛び起きて、兄を起こした。
「イヴ、イヴ! 大変だ、何かが起こっているみたいだぞ! 起きろ!」
「……何」
目を覚ましたイヴュージオの動きは迅速だった。怪我をした脇腹に負担を掛けないように動きつつ、悲鳴の聞こえた宿のロビーへ慎重に向かう。
そこは炎に包まれていた。
声がする。
「大変だ大変だ! 誰かが町に火を放ちやがった!」
ロビーの炎は、リノヴェルカたちのやってきた階段をも燃やしていた。このまま突破したら大火傷を負ってしまう。リノヴェルカたちの後ろで、他の宿泊客が騒いでいる。
リノヴェルカの風で吹き飛ばせる炎は小規模なものだけだ。今のように勢いの強い炎に浴びせたら逆効果になってしまう。こんな時は。
リノヴェルカは縋る瞳で兄を見た。ああ、とイヴュージオは頷き、虚空に向かって手を伸ばす。
「優しき母なる大海よ、溢れる慈悲で我らを包め!」
弱い力、海の力。それでも、事態を打開するにはこの力を使うしかない。
瞬間、溢れだした水によって炎が割れた。リノヴェルカは死に物狂いでその刹那に出来た道を走った。身体が焼ける。激しい痛み。しかし確かに、生きている。
刹那の道を走り切り、リノヴェルカは背後を振り返る。しかしそこに、一緒にいたはずの兄の姿はなかった。
まさか、とその顔が青ざめる。
リノヴェルカは、見た。
閉じてしまった道の向こう、諦めたように笑う兄がいるのを。
炎の向こうに、兄がいるのを。
リノヴェルカは叫んでいた。
「イヴ――! どうして!」
「僕には無理さ」
悲しげにイヴュージオが笑った。
「そもそも怪我もしているし……僕の体力では、この距離を一気に走りぬけるのなんて、無理なのさ」
「最初からそれをわかって、イヴは――?」
「リノだけでもさ、生きていて欲しいんだよ」
イヴュージオの顔には、静かな決意があった。
彼は凛とした声で言う。
「生きなさい、リノ」
兄を見るリノヴェルカの目に、涙があふれ出た。
「おまえは強い、そう簡単には死なない。僕がいなくたって、やっていけるだろう」
「でも、イヴ!」
「生きろ!」
それでも、炎の壁を突っ切ってそちらへ向かおうとするリノヴェルカに、鋭い一喝が飛んだ。
さようなら、と声を出さず、唇だけが動いた。その瞬間、瓦礫が崩れ落ちてきて二人の間を分かった。燃え盛る瓦礫の向こう、愛した兄は見えなくなった。リノヴェルカは慟哭した。
「イヴ――!」
燃え盛る炎はそんなリノヴェルカのすぐ傍まで迫っている。死ぬわけにはいかない、と本能が叫び、たまらず外へと飛び出した。
飛び出した先に見たのは、地獄だった。
燃え盛る建物、焼け焦げた人々。普通の町だったはずの場所が、あっという間に阿鼻叫喚の地獄へと変わる。
崩れ落ちた幸せに、何をどうすればいいのかわからず途方に暮れる。
いくら力があったって、亜神として生まれたって。
今の自分は、あまりにも無力だった。
それでも。
「……イヴ」
『生きろ』その言葉が、くずおれそうになるリノヴェルカに活力を与える。兄の決意と覚悟、無駄にするわけにはいかなかった。
「ありがとう、兄さん」
小さく呟いて。
リノヴェルカは阿鼻叫喚の町から逃げ出した。
火傷を負った全身が痛い。それよりも、心の方が痛かった。
ずっと一緒にいた大切な兄。唐突な別れが来るなんて、考えたこともなかった。
泣いて泣いて泣き疲れて、傷の手当てもしないまま、リノヴェルカの意識は闇に落ちていった。
◇
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