マウンドと恋人は譲れない。

西東友一

陸上部 編

出会い

1話 七色ノーサイン

 暗闇は周りは見えない。

 けれど、暗闇の方がはっきりと見えるものがある。


 真田朗さなだあきらは目を閉じて、自身の体へと意識を集中させる。成長期の彼な体は日々成長している。集中し、認識するのはいつもの自分ではない。


 今の自分だ。


 ――セット。


 地面に付くかつかないかぐらいに構えていた右膝を伸ばして、体重の一割程度を両手の指に乗せる。


 重心を自然と前に移り、腰を上げて、いつもの音を待つ。


 パンッ


 ピストルの破裂音が真田の肌に触れた瞬間。

 脳に電気信号が来る前に走り出す。

 

 4月に入り、ようやく暖かくなった風。強い季節風。彼を阻むように空気の壁が立ちはだかるが、真田はその停滞した空気の壁を北風のように鋭く切り裂きながら走る。


 真田、10秒98

 周りからは「おぉ」と少しどよめく中、

 弾んだ呼吸を真田は整える。


「11秒を切るのかよ」

 一緒に走った選手が、真田に話しかける。


「はぁっはぁっ・・・。次、400m走ってきま、す・・・」

「もう、走るのかよ」

 真田は膝の上に手を置いて前屈みになりながら、前を向いていた。


「はい、僕には努力しかないですし」

 一度、呼吸を整える。


「なんでそんなに頑張れんのお前?」

 素朴な質問を一緒に走った選手が真田に尋ねる。


「頑張って報われない、無駄にした時間を取り戻すためかな? だから・・・・・・タイムっていいよね。頑張った分成果が現れるんだから」

 複雑な表情をしながら、真田は人のいない方に走り出す。


 声を掛けて見送った選手に周りの声も聞こえないくらい必死に走ってきた別の選手が声を掛ける。

「よう、タイムいくつだった?」

「12秒35」

「あいつは?」

 真田の背中を指さす。


「10秒98」

「1年で、10秒台って・・・あいつバケモンかよ…陸上界の有名人か?」

「いや…、あいつ野球で結構有名だったらしいぞ」


「へん、野球部かよ。元野球部がなんで陸上やってんだよ」

「じゃあ、元野球部の村上君はなんで陸上やっているんだい?」

「へん」

 村上と呼ばれた陸上選手はそっぽを向いた。


「はぁはぁはぁ、50秒超えてちゃったか。くそ」

 真田はまた、スタート地点に行こうとする。


「悪い!!」

 真田はびっくりしながら、大きな声がしたバッネットの方を見る。

 キャッチャーの防具をしている男がマスクを外してマウンドの方へ行く。

 それを見て、真田は自分に言われたのではないと、少しホッとした。


 謝ったキャッチャーの男は言葉こそ謝っているが、気の強そうな目と凛々しい眉毛、その声は威圧している。


 キャッチャーの男がゆっくりとマウンドに歩いて近づいていくと、その先には長い金髪の少女がいた。


「ん~、捕れそ~ですか?先輩」

 少女はキャッチャーを見ることなく、太陽を眩しそうに見ている。


「おっ、おうよ。だけど、お前もこう、構えたところに、バシッと頼むぜ、バシッと」

 見栄を張っているのか、本当にそうなのか。キャッチャーの男は調子の良いことを抽象的に話していた。


「…は~い」

 ピッチャーの少女は一瞬嫌な顔をしたが、すぐに感情を捨て、気持ちの入っていない返事をする。


(大丈夫なのかな)

 真田は男が怒るのではないかとひやひやしたが、男は口を一文字にして、じっと少女を見つめるが、少女は地面を足でならしている。


「私、肩に疲労が溜まってきたんで、あっちで走り込みしてきまーす」

「おっおう・・・。あんま無理すんなよ」

「はーい」

 金髪の少女は先輩に気づかれないように舌を出して、校舎の方へゆっくりと走りだすが、真田の視線に気付く。

 

 ニコっ。

 

 少女は真田に笑顔を向ける。真田は思わずその笑顔に見とれていたが、そのまま少女は走って行く。

 

「赤坂、次投げてみろ」

 キャッチャーの先輩が凛々しい声で選手を呼ぶ。

 

「真田!!」

「はい!」

 真田は次に呼ばれたピッチャーがどんなピッチャーか気になって、キャッチャーの目線の先を見ようとしたが、後ろの方から陸上部の先輩の声がしたので、そちらの方を振り返る。


 すると、呼んでいたのはそのキャッチャーよりも一回りも、二回りも大きい先輩にだった。

「物置から、滑り止め持ってきてくれ」

「はい」

 真田は二つ返事で、物置の方へと走って行った。


「これ・・・かな」

 真田は砲丸投げの滑り止めを持っていこうとすると、一定のリズムで音がする。


「なんだろう」

 音のする方行ってみると、さっきマウンドにいた少女がいた。

 こっそり覗いてみると、投げ込みをしている。壁にはストライクゾーンを模したようなラインが引いてある。

 (アンダースロー?)


(スライダー、カーブ…、シンカー、シュート…高め、低め…)

 彼女は楽しそうに、ボールに命を吹き込むようにボールを投げる。

 その瞳、その笑顔、その汗、一挙手一投足に魅力がった。


 きれいだ、と真田は思った。

 

 でも―――


「誰?」

(やばい、バレた)

「ごっごめん、音がしてたから。でも・・・よく気づいたね」

 真田は金髪の少女に何歩か歩み寄る。

 

「ピッチャーっていうのは、集中して投げている時でもランナーにも意識を張っているんだよん」

 胸を張って少女は話す。

「あ~、そうなんだ〜、すごいね〜」

(それにしちゃ、結構長い間見てたんだけどな)

 真田は愛想笑いをしながら少女を褒める。


「じゃあ、僕はこれで・・・」

「んー、これがラストだから、見てて」

「ちょっ・・・」

「ねっ? これが本当に・・・・・・最後だから」

 少女は優しい顔でニコッと笑っていたけれど、どこか寂しいそうで、それでいて信念の強さを感じた真田はその場から動けなかった。


 少女は「ありがと」と言って、投球モーションのセットをし、真剣な瞳になる。

 その瞳に自分の心が吸い込まれるような感覚。

 彼女の視線の先には打者とキャッチャー。自分はファーストから、彼女を見つめている感覚に襲われた。


 投げる――

 そう思った瞬間。



 背中を向けていた彼女は体をこちらに向ける。

「痛っ」


 思いっきりボールが真田の足元付近に投げてきたのを、反射的に右手で真田はキャッチする。

「痛ってえええ」

「はい、タッチタッチ」


(いやいや、まずさぁ~・・・取れなかったら・・・足怪我してるでしょこれ。てか、それよりも素手の相手にボールをさぁ~・・・)

 少女を見ると、きらきらした目で真田を見ていて、言っても意味がないと真田は悟った。

 いやいやではあったが、ランナーがいると見立てて下にタッチをする。


「はい、アウト~。ゲームセット」

 そう言って、彼女は近づいてくる。

星川七海ほしかわななみ選手。完全試合目前にエラーで出してしまったランナーを牽制によってアウトにして、準完全試合達成」


 七海は真田にハグをする。

「ありがとう」

 春の匂い。そして、青春の匂い。

 そして・・・

(なみだ・・・?)


「じゃあ、これでおしまい。ナイスキャッチ。そのウイニングボールは君に進呈しよう」

 彼女はボールを真田に渡してくる。



「じゃあ、これで」

 真田がまじまじと受け取ったどこにでもあるボールを見ていると、彼女は走り出してしまう。


「えっ、ちょっと!!そっち、グラウンドじゃないよ!!」

「いいの。最後だったんだから・・・。じゃあ~ね!!」

 七海は泣いていた。

 真田はそんな七海の涙の意味を考えながら、その小さくなっていく背中をただただ見送っていた。

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