街
@a123456789
匿名のありふれた言葉
高校三年生の夏も終わるというのに、何か将来のことを考えているふりもせず、日々変わらずに私と接している友人たちを、私は理解できなかった。変わらぬ日々をいつまでも家族や友達と?故郷での根を張った暮らし?くだらない。きっかけなんてそこら中にばら撒かれてるのに。
「お前、東京の大学行くんだってな」
田中良太もまた、周りの夢を持たない友人たちと同じ顔をしていた。彼と知り合ったのは、高校二年の夏だった。
雲一つない青空の下、明るい色の田んぼに囲まれながら自転車を押す女子高生。そんな「健気」な一枚絵の一部になるのはごめんだ。こんなことしてる場合じゃないのに。はあ、とため息をつきながら自転車のハンドルを押していると、「なに、パンク?」と声がした。はあ。暑い。早く終わらせてよ。
「まあそうだけど。なにか用」
田んぼのあぜ道にぽつんと孤独に立っている電柱を見ながら、だるそうに答えた。
「俺んちすぐ近くだから、直してやるよ、それ。父さんがそういうの詳しいんだ」
黙ってついていく。どうも。
私の通う高校は、中高一貫で、全校生徒が百人足らず、一つのクラスで学年は形成されており、その数は二十人にも満たない、とかなり小規模な学校だった。そのため生徒たちのコミュニティは全員が顔見知りで、よく話す誰かと、その他たまに顔を合わせる誰か、といったところだった。良太とは同学年で、それまでは特に興味も無い「その他誰か」だったが、この件で「自転車を直してくれた人」へとグレードが上がった。お礼を言って、立ち去る。目も一度も合わせなかった。別にこれ以降話すこともないだろう。ただのお人よし。ああ、優しいんですね。さようなら。
しかし学校の廊下で、「自転車を直してくれた人」が教師と口論しているのがたまたま目に入った。なんでですか、あなたが言っていることはここがおかしい、といったようなことを言っていた。職員室で延長戦をするようで、むっとした表情で歩いていく良太に「ねえ」と自然に話しかけていた。君、おかしいね。
彼と教師とのほとぼりが冷めるころには、「自転車を直してくれた人」は「良く話す誰か」へと変わっていた。
「お前、東京の大学行くんだってな」
「うん」
「すげえな、お前」
すごい?こんなことがすごいの?
「まあ、寂しいだろ。会いたかったらいつでも連絡しろよ」
軽口を言うように、良太は笑いながら言った。
「良太はどうするの?卒業したら」
「俺は一応、父さんの仕事手伝うってことになってる。ずっとそれってのは無理だろうけど、そのあとのことはまあ、どうにかなるだろ」
ことになってる、どうにかなる?
あなただけは、周りとは違うと思っていた。一気に良太の顔がぼやけて見えた。
まもなく私たちは高校を卒業し、良太は父親の手伝い、私は東京の私立大学へと居場所を移した。卒業まで、良太とはあまり口をきかなかった。
*
背の高い雑居ビルに囲まれた狭い路地を通り抜ける。若い男女が喧嘩でもしているのか、怒鳴り声が聞こえた。目もくれない。肩が何かにぶつかった。「あっ、すません」と声がした。目もくれない。駅の階段を上がる。目もくれない?
かざしたカードの残高が残っていないことに気づき、「すみません、すみません」とやつれた列の間を通り抜ける。券売機の汚れた液晶画面に映った私の顔は、かつて「その他誰か」とバカにしていた人間たちと同じぼやけ方をしていた。
「あれ」と思い始めたのは、大学に通い始めて間もないころだった。疲れたので帰る、と言い残しこれから始まる三限の講義に背を向け去っていった友人を、私は「別にいいんじゃない、あなたがそれでいいなら」と心の中で嘲笑していた。講義を休めば多かれ少なかれ、それと同じだけの反動が帰ってくる。
しかし、どういう手を使ったのか、「疲れたので帰った」筈の友人が欠席扱いにはなっていなかった。ふと周りを見回してみると、いつもいたはずのあの子やこの子、といった顔ぶれもちらほらといないことに気づいた。例のごとく、欠席扱いにもされていない。
退屈な抗議が終わるころには、私のノートは訳の分からない暗号で埋め尽くされていた。なんだか無性に悔しかった。これじゃ私がバカを見ているようだ。
その日の講義をすべて終え、暗号で埋め尽くされたノートをかばんにしまいながらふと気づく。悔しさで溢れていた私の頭の中はすべて、形を変えてある疑念に置き換わっていた。
「わたしがおかしいのだろうか?」
いや、違う。
「わたしは、おかしくないのだろうか?」
中学、高校のころから、私はいい意味(と信じていた)で特異な人間だった。授業では真っ先に手をあげて、問題に答えた。「麻衣さんは、賢いねえ」
体育で使っていたボールが川に落ちてしまったとき。同級生は「うーん、あれは仕方ないね」と諦めて引き返そうとしていたが、私はすでに靴を脱ぎ、ジャージの裾をたくし上げていた。いや、あれぐらいなんとかなるでしょ。「やっぱりすごいね、麻衣は」
あれ。
その日は何も考えずに家に帰り、すぐに寝床に入った。カーテンの隙間から一本の電柱が見えた。なぜか私は、田中良太の、いつからかぼやけてしまったあの顔を思い出していた。いつでも連絡どうのこうの、と言っていたっけ。
それから何日か後、バイト先の飲食店でのことだった。休憩中の更衣室ではバイトの大学生によって何でもない会話が交わされていたが、彼らとは特別仲が良いというわけでもなかったので、私は所在なく携帯をいじっていた。「てか、山内さんまじでウザくねえ?それが違うあれが違うだのうるせえわ。お前と違って俺らは将来バラ色なんだから、少しは委縮しろっての」「それな。てかあいつ、何年ここでバイトしてんだよ。マジでウケるわ、終わっとる」
くすくす、といった笑い声によってふと携帯から意識が引き戻されたとき、ここにはいない人間の悪口が交わされていることに気づく。
山内さんというのはこの飲食店に長く勤めている、年齢は三十後半といった女性のことだった。新しく入った私にも、親切に、ていねいに仕事内容を教えてくれた人だった。指導に熱が入りすぎることもあったが、それは彼女の仕事熱心さゆえのものであるし、もっともその指導に理不尽なところは見受けられなかった。
携帯の画面をじっと見つめていた。「やっぱりすごいね、麻衣は」脳の内側に匿名のありふれた言葉が、呪いの杭となって突き刺さっている。私は、わたしは―――
「遠藤さんも結構食らってたよね。今度ぶっ飛ばさねえ?あいつ」と先ほどの男の声がした。彼に向けられた視線によって、遠藤さんというのが自分のことを指していることに数秒遅れて気が付く。「ぶっ飛ばすってなんだよ」と誰かがふざけた調子で言う。みんなが私を見た。体育でのことを思い出した。今の私が履いているこぎれいな一対の靴は、その場で簡単に脱ぎ捨てられるものではなくなっていた。
「わかる、ほんとうざいよね」
私の声だった。とても大事な位置にあった足場が一つ、崩れていく感覚があった。
チャージしたばかりのカードをかざし、駅の改札を通り抜けると、良太が手を振っていた。
「麻衣!おーいこっちこっち!」
ひさしぶりだな、と良太は笑う。
「あんまりおっきい声で呼ばないでよ、名前。恥ずかしいなあ」
「まあ、とりあえず昼どっかで食おうぜ。腹減ったわ」
昔と変わらぬ彼の振る舞いに、なんだか安心した。
「つうか、ずっと怒ってたのかと思ってたよ。卒業の前とか全然口きいてくれなかっただろ。だからなんか、安心したよ。連絡してくれて。正直、思い当たること何もなかったし」
「あの頃は受験で忙しかったんだよ、私も。まあ、なんていうか、ごめん。ちょっとおかしかったかも」
それは本心だった。
「あ、そういえばさ、近くにずっと欲しかった服が売ってんだよね。ここの地下にあるお店でさー」
「お前、服とか興味あったっけ。まあいいや、後で行こうぜ」
「やった。あ、そこレジの場所が分かりにくいんだけど」
「いや、俺が買う前提かよ」
つまらない会話を交わした後、私たちはその服屋に向かった。試着室の鏡に映った自分の顔を、一度も見なかった。
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