その一

 ◎君は僕より年上と、周りの人は言うけれど、何てったって構わない。僕は君に首ったけ・・・・ポール・アンカ”ダイアナ”より◎

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 梅雨に入ったばかりの蒸し暑いある日、俺はデスクに足を投げ出し、クーラーを最強にして、涼んでいた。


 何しろこのご時世だろ?


 仕事なんかそう滅多にあるもんじゃない。


 ここ二週間ほど、また例の”新型ナントカウィルス”の、一日の感染者数が増えたとかで、都が緊急事態宣言とやらを再開するかどうか検討に入ったらしいと、ラジオが憂鬱そうな声で伝えている。


 そんな時に新宿くんだりまで足を運んでくる酔狂な依頼人などいる筈はない。

 俺はそう勝手に判断し、シャツを襟を大きくはだけ、事務所オフィスでだらけていると、こういう訳だ。


 本当ならビールでもりたいところだが、流石に俺だって辛うじて”自分の中にある最低限の掟”を崩すのを押しとどめていた。

『アルコールは日が落ちてから』がそれだ。

 

 然しながら、呑兵衛のおっさんが立てた掟などというものはあまり厳格に守れる筋のものじゃない。


 少しばかり怪しくなりかけ、冷蔵庫にあった缶ビールを思い、喉を鳴らした時、 デスクの上の固定電話が鳴りだした。

(ああ、俺は携帯電話が嫌いである。持ってはいるが、余程必要な時以外は滅多に出ないし掛けたこともない)


”ああ、乾先生ですか?私です。平賀ですよ”

”救いの神現れり、だな”

”え?”

”いや、こっちのことだ。で、何だね?”

”実は仕事を頼みたいんですが、今開いてますか?”

”困ったなぁ。実は手一杯でね”

 何もこんな時に見栄をはることはなかろうに、と思うだろうが、俺だって男だ。このくらい言いたくなる時もある。


”そんなこと言わずにお願いしますよ。私の高校時代の後輩でしてね。先生以外頼む人間がいないんですよ”


”分かったよ。だがいい加減その先生ってのは止めてくれんか?尻がこそばゆくて仕方がない。俺は単に君が学生時代に、一時的にバイトとして雇っただけなんだから”

 受話器の向こうで苦笑いしているのがはっきり分かった。

”じゃ、引き受けてくれるんですね?では彼にはそう伝えておきますから、おっつけ事務所に行くかと思います。”

 彼はそういうと、これから法廷があるからと、大急ぎで電話を切った。

 平賀市郎君は、若いが優秀な弁護士だ。

 早くに両親に死なれ、今時珍しい苦学をしながら某私立大学法科の二部を卒業し、司法試験に一発で合格したのち、イソ弁を経て、今ではおおよそ金にならない刑事弁護ばかりを引き受けているという変わり者だ。


俺とは一本独鈷になってからの付き合いで、まだ学生時代にほんのわずかの間だけ、書類整理のバイトとして働いてもらっていた。


 その縁で今でも時折仕事を回してくれている。


 まあ、彼の回してくれる客だからな。

 そう悪い筋でもあるまい。


 きっちり一時間後、事務所オフィスの呼び鈴が音を立てた。

 久しぶりに聞いた。いい音だ。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 その青年(いや、30歳の男性をそう呼ぶのは適当ではないだろう。しかし本当にそうとしか見えないんだから仕方がない)は、俺のおんぼろの事務所に入ってくると、馬鹿丁寧に深々と二度頭を下げて、勧めたソファに腰を下ろした。

 コーヒーでいいか?

 俺が訊ねると、彼は、

”出来れば冷たいものを”という。

 まあ、俺もその方がいいと思っていた。

 冷蔵庫を開け、コーラのボトルを取り出し、

(ビールの缶がちらりと目に入った)

 棚からグラスを二つ持ってきて、卓子テーブルに並べ、コーラを注いだ。


 泡の弾ける響きが耳に心地よい。

 甘いものはそんなに好きじゃないが、ソフト・ドリンクならこいつに限る。


 そうしてから、俺は改めて彼を見た。


 色白で細面の、いたって真面目そうな青年だ。

 名前は佐藤弘、年齢は満で29歳、来月誕生日が来て丁度30歳になる。

 都内にある中流の食品メーカーに勤めるサラリーマン。

 給料は多くもなく、少なくもなく。

 社内での評判も平凡すぎるほど平凡な男。

”真面目”って言葉を漫画にしたら、恐らくこんな顔にしかならないだろう。そんな人物である。

『平賀弁護士から話は聞いていますが、ご依頼の趣は何です?私は結構へそ曲がりな男でね。法律で規制されている他には、個人的信条として結婚と離婚に関する調査依頼は引き受けないことにしています。その点はご存じですね?』


『ええ、知っています。その点はちゃんと先輩から伺っていますから』


 相変わらず真面目くさった声でそういい、スマートホンを取り出してあるサイトを見せた。


”大人同士の出会いの場、カトレアクラブ”

 何だか如何にもという名前だが、何ということはない。ただの出会い系サイトというやつだ。

 それからまた指でスクロールさせ、

『メールボックス』という欄をクリックすると、そこにはメールの返事と共に、添付された写真があった。

『率直に申し上げます。彼女について調べて欲しいんです』




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