さくらさんはいつかスライムになるかもしれない

千鈴

プロローグ

00-001 プロローグ 2023年

 昨夜から降り始めた雨は明け方には止み、少しだけ肌寒さを感じる春の陽気。


 アスファルトには大きな水たまりがまだ残っている。そこに映るのは輝く太陽。


 今日は温かくなりそうだ。


 カーテンを通してうっすらと陽の光が入ってくる。さくらの部屋にも朝が訪れた。朝の六時だ。窓の外には隣の公園の桜並木。ソメイヨシノはピンクから緑に変わりつつある。


 さくらは一瞬だけ鳴った目覚まし時計のアラームを止めて、一人では少しばかり広すぎるベッドから元気よくとび降りて、寝室の窓を開けた。心地よい風が入ってくる。


「『おはよー、パパ。今日も一日がんばろーねっ!』、っと」


 夫にメッセージを送る。夫の孝利は、北海道に向かって移動中のはずだ。


 洗面所に行く。

 鏡に映るのは控えめに言っても整った容姿だ。くすみのない肌は透明感を感じさせる。すっと通った鼻梁は、そのままでは硬質な印象を与えるが、少しだけまなじりの下がった大きな目がそれを和らげ、全体としては愛らしい印象をかもし出している。長い栗毛色の髪は、寝起きのためか少しばかり乱れている。

 さくらは顔を洗うため、口を開いた。


「《水》」


 水盆の上、宙空に現れた魔法陣から水球が浮かび上がってくる。洗顔用の魔法だ。息を止め、顔をつっこんむと、水は回転し、水流が顔をなでる。

 顔を洗い終わると、水球は崩れ落ちる。さくらは次の魔法を発動する。


「《風》」


 顔を洗って濡れた顔に新たな魔法陣から強めの風が吹きつけた。乾燥させる魔法も使えるが、さくらは風を浴びるほうが好みだ。乾燥の魔法だと、なんとなく肌の水分まで持っていかれそうな気がするためだ。もちろん、さくらは試してみたことはない。


 ブラシをかける。にっこりと鏡に映る自分に微笑みかける。アラフォーには全く見えない。

 半年前、とある件により、さくらは魔法使いになった。それが影響したのか、本当の理由はさくらにはわからないが、検査機関によると、さくらの身体は一〇代とも二〇代とも言えるほどに活性化、若返りをしているそうだ。お肌もピチピチになった。小柄な身体と相まって、成人には見てもらえることは少なくなった。大人びた高校生、というところだろうか。


 さくらは朝食の準備を始める。といっても凝った料理は子どもたちから禁止されている。


 冷蔵庫から食材を取り出す。卵はこれで最後だ。さくらは頭の中の採取リストに卵を付け加えた。


 フライパンを温めたら、ベーコンを並べる。少し時間をおいて、卵を三つ割り落とす、ふたをする。

 トースターにパンを放り込む。結婚して二〇年、このくらいはできる。


 ベーコンエッグができあがる頃には、トーストもちょうどいい色合いだ。最後にトーストにベーコンエッグを挟んだらできあがり。


 できあがるのを待ち受けていたかのように子どもたちがリビングに現れる。娘の杏奈は専門学校、息子の悠人は高校生だ。


 おはようといただきますを一遍にしたら、朝食の時間だ。


「パパ、今どのへんだって?」


「ん〜、それがね、メッセージは送ったんだけど既読がつかねーのよ、東北のどっかのはずだけどね……」


 さくらは携帯端末を確認するが、既読はついていない。


「飛行機乗ればいいのにねぇ……ってか、母さん、気軽に『いくら食べたい』とか言うなよ、父さん、すぐ本気にして採りに行っちゃうんだから」


「いやぁ、ごめんごめん、まさか北海道まで行ってくれるなんて……。

 飛行機は魔物に襲われたら落ちるしかないからね、ハンター的にありえないんだって」


「ほんとよ、ママ。ママがダンジョンから帰ってきてから、パパはラブラブ全開だから……。ふふ」


 BGM代わりに流しているラジオからは今日のニュースが流れている。


『本日の各ダンジョンの情報です。

 ……巣鴨ダンジョンのダンジョンメーターは七十八パーセント、付近のマナ濃度が前日よりも上昇しています。

 巣鴨ダンジョン前ハンター協会では、本日の魔石買取価格を二パーセント増額を発表しました……続きまして、今日の天気です……』


「お、ちょうどいいねぇ! 今日は巣鴨ダンジョンに卵を採りに行ってこよっかな。さっき使い切っちゃったから」


 ニヨニヨと笑う娘を見て、話の雲行きにちょっと照れくさくなってきたさくらは、話題を変えた。


「いいじゃん、ついでに薬草も一通りお願いしていい? 来週、学校で使うんだよ。週末、ダンジョンに連れてってもらおうと思ってたけど、ちょうどよかった!」


 六層の草原エリアで、ワイルドチキンの卵と、薬草はどちらも手に入れられる。


「え? うん、いいけど、ダンジョンは行こうよ、悠人も一緒に。三人で行こう、あたしみたいにダンジョンに突然深層に入ることになるかもしれないし」


 ダンジョンは命の危険があるが、さくらにとっては六層程度なら散歩気分だ、子どもたちもそれをよく知っている。


 子どもたちは目をそらして立ち上がった。さくらは天然にスパルタだ。ふたりとも、必要性は理解できるが、さくらからは習いたくない。


 学校の授業だけでとりあえずは十分だ、もしくは父から習いたい。言ったら泣きながら怒り出すので絶対言わないが。


「ごちそうさま! 学校行かなきゃ!」


 夕飯を楽しみにしている、言いながら、二人は慌てて家を出ていった。


 一足遅れて朝食を終えたさくらは、片付けをしながら、今日の予定を考え始めた。巣鴨ダンジョンはあとなにが採れるんだったか、と。


 夫は仙台を過ぎたところらしい。北海道まではまだかかりそうだ。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 さくらが一六歳のときに世界中にダンジョンが現れた。それからいろいろなことが起こった。当時は大混乱だったが、二〇年もすれば新しい生活様式も定着する。もうすっかりなれた。ただ、発生以前に比べると、不便なことも多少はある。


 特に東京は大規模なスタンピードを経験した。ダンジョンから出ないはずの魔物が外にあふれ出す現象だ。当時は自衛隊が多大な被害を受けながらも、なんとか鎮圧した。だが、討ち漏らしはある。そのため、東京はたまにだが、ダンジョンにしか出ないはずの魔物が出る。どうしても一体残らず討伐することはできないようだ。


 スタンピードがあっても、相変わらず東京は日本の首都だが、スタンピードのときに住民をかなり失った。だが、ダンジョン産の素材は需要が高い。ダンジョン協会の本部もある。ダンジョン関連の企業やダンジョンハンターは集まってきている。


 東京はもともと自給率が低かったため、魔物を恐れた業者に避けられて、モノ不足となり、物価高だ。だが、素材を入手できるダンジョンというものができた以上、自分で採取できるなら、その方が安上がりだ。東京では中学からダンジョン実習がある。三層までなら、若い人たちは経験している。初心者のための研修もある。



 人類はたくましく生きている。

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