光と闇の竜

 ワタシはひと晩かけてその場所にたどり着いた。

 夜の闇にまぎれて大地に忍び寄り、すべてを覆いはじめた雲海。ゆっくりと羽ばたき、月明かりに照らされぼんやりと光るそのすぐ上を滑るように飛び続けていると、やがて水平線から昇ってきた朝日が世界をピンク色に染め、竜の影絵シルエットただひとつだけが映し出された。

 ふいにたくさんの竜と人の気配を感じたワタシは、しばらくその場に留まり、雲に落とされた自分の影を見ながら上空をぐるりと旋回していた。


 やがて雲海はいくつもの大きな渦を巻いて流れるように消えていくと、ピンク色だった世界には徐々に青と緑の色が塗られていき、見渡すかぎりの広い大地に無数の竜と数え切れない人々が対峙していた。

 まるで世界中の竜と人が一堂に介したような、これまでに見たことのない、壮観といってもよい光景だった。

 けれども、これほどまでの数の“命”にあふれていながら、時が止まったように、不気味なほどの静寂があたりを包んでいた。

 小鳥が鳴き、風がそよぐと葉ずれの音が聞こえるほどの静けさ。まるで竜と人の形をした精巧な石像がずらりと並べられているだけのようだった。

 けれども彼らそれぞれの瞳の奥にはほむらが立ち、これから行われる争いで命をすべて使い果たせるよう、ともすると体からあふれ出てしまうその命の輝きを自身の中に抑え込み、力を極限にまで高めているのだった。

 彼らはすでに一触即発の状態にあった。

 これから始まる争いは、かつてないほどの大規模なものになり、竜と人、そのどちらにも想像を絶するほどの犠牲が出ることは間違いない。

 ……けれども、なぜか自分自身でも不思議なほどに、ワタシの心はおどっていた。

 それは、この争いを最後に竜と人との歴史が変わる、そんな漠然とした予感を感じ取っていたからだった。

 かつてのように、竜も人も穏やかに過ごせる日々が訪れるに違いないという期待、無益でしかない争いが今日をかぎりに終わる、そんな希望がみえるようだった。


 しかしどんなに時が経とうと、竜にも人にもなれないことを悟ったワタシは、このまま傍観者を決め込み、遠くからこの争いを見届けるつもりだったが、人々の中にあの少女の面影を見た気がして、思わず地上へと降り立った。

 そこには、金色に輝く長い髪をなびかせたひとりの剣士がすっくと立っていた。彼女は体の大事な部分のみ甲冑をまとい、けっして恵まれてはいないその体型にまったく不釣り合いなまでに大きな剣を携えていた。その姿は見るからに凛々しく、圧倒的な数の竜を前にしていながら、それに対する恐れを微塵も感じさせないばかりか、口元には笑みさえ浮かべていた。

 彼女や居並ぶ兵士たちは空から降りたワタシを一瞥いちべつしたが、こちらに敵意がないとわかったのか、まったく意に介さない様子でふたたび竜の群れへと向き直った。


 突然、竜の群れの中からひときわ大きなものが翼をはためかせて飛んできた。全身は太陽の光を反射して金色ににぶく光っている。

 あれは…。あれはまごうことなき、あの金色の竜アイツだった。ワタシが生み出してしまった“ワタシ”であり、心の闇の権現。一瞬にして全身を冷たい血が駆け巡るのを感じた。

 アイツは竜と人とのちょうど真ん中に降り立つと、どっしりと地面に足を着け、憎々しく凶悪な目つきで人々に睨みをきかせた。

 全身からにじみ出るあらゆる負の感情のために、金色の体は闇を背負うように暗く沈み、その背後には暗黒の空間が渦巻いているようだった。他の竜とは明らかに違う存在感。普通の人間なら、アイツを前にして感じる圧倒的な絶望感だけで命を落としてしまうかもしれない。

 しかしこんな竜を目の前にしてさえ、彼女をはじめとした兵士たちは、誰ひとりとして恐怖に支配されるものはいなかった。

 人々のそんな様子が気に食わなかったのか、アイツは落ち着きなく大きな声を上げると、地面を踏みしめ迷うことなく歩み寄ってきた。

 彼女もまた意を決したように、腰に差した大きな剣の柄に手をかけ、一歩進み出た。

 その長い髪は風をはらんでふわりと舞い、太陽の光を受けて輝くと、まるで光をまとっているようだった。

 かすかに金属のこすれる音を立て、鞘からすーっと引き抜かれた剣。そのわずかに金色を帯びた刃は太陽の光を反射し、まるでそれ自体が光っているように、あたり一面にまばゆい光を放った。

 癇癪かんしゃくを起こしたようにアイツは突如舞い上がり、彼女の正面に降り立つや、おもむろに炎を吐き出した。彼女は一瞬のうちに炎に包まれ、あっけなくやられてしまったかに見えたが、驚いたことに、その炎を剣で受け止め、なおかつアイツへ向かって弾き返したのだった。

 アイツは地面を蹴って炎をよけながら飛び上がると、今度は彼女に向かって一直線に舞い降りてきた。

 大きく振り下ろした彼女の剣とアイツの足の爪が触れた瞬間、キーン!という大きな音が響き、鋭い光が飛び散った。


 それを合図に、竜と人とが大声を上げながらいっせいに大地を揺らした。

 世界は一気に張り裂けんばかりの“命”であふれた。そこには憎き敵への憎悪やたいせつなものへの愛情、怒り、慈しみ、悲しみ、執着、悔恨、心の中に押さえつけていたあらゆる感情があふれ出し、混沌と入り混じっていった。

 地面を蹴って脇目もふらずに土煙を上げ突進していく竜と人々。空は舞い上がった竜で黒く覆われ、それをめがけて無数の矢が止めどなく飛んでいく。

 またたく間に緑の大地は鮮やかな紅い炎の海と化し、一瞬で焼け焦げた地面のあちこちには、竜と人とが流すどす黒い血の沼が広がり、死体の山がいくつも積み上がっていった。

 大地に吸い込まれ、やがて空に還っていくように、“命”は次々に消えていった。


 竜たちは狂っていた。

 ワタシの前を通り過ぎていく何匹もの竜。そのうつろな目は何ものをも見てはおらず、まるで魂を奪われたしかばねのようだった。

 アイツの闇に毒され、己の中で無限に増え続ける憎悪の感情に支配されるがまま、自身を顧みず、ただ殺すためだけに人に向かっていくのだった。

嗚呼あぁ、何ということだ。

 彼らをこんな姿にしてしまったのは、すべてワタシのせいだ。

 そして、この争いを招いてしまったのもワタシなのだ。

 アイツがいるかぎり、ふたたび平安など訪れるはずがない。

 ましてや希望などあるはずがない…。

 本当は分かっていたのだ…。

 最初から分かっていた……。

 けれど認めることができなかった………。

 アイツはワタシが生み出してしまったワタシ自身なのだから、どういう結末になるにしろ、この争いは自分の手で終わらせるしかない。

 これまでずっと逃げ続けていたが、今は違う。もう逃げるのは終わりだ。

…しかし、ワタシでもあるアイツを殺すということは、自分を殺すことになるのだろうか…?

 そんな疑問が頭をかすめた。

……だが、それもいいだろう。

 もう十分長く生きた。

 そろそろ潮時しおどきか…。


 ワタシは羽を広げ、重い体を宙へと持ち上げると、争いの真っただなかへと降り立った。

 煙のくすぶる赤黒く灰色の地面には、そこかしこにおびただしい数の竜と人とのしかばねが折り重なっていた。

 やはり今回もこんな結末を迎えるしかないのか…。

 気が付くとワタシは泣いていた。

 竜と人の愚かしさに、そして繰り返すこの世のことわりむなしさに。

 そしてなにより、竜と人との争いに自分は無関係だと思い込ませ、過去の幸せな記憶に囚われるばかりで現実から逃げ続けてきた、おのれおろかさに。


 ワタシは魂のかぎり叫んだ。

 その大音響は視界を歪ませるほどに空気を震わせ、全身からはまぶしい光がほとばしり、周囲にあったものはすべて吹き飛んだ。地面は大きくえぐれ、何本もの広く深い亀裂が走り、その中に落ちていく竜と人の姿もあった。

 年老いてきたワタシの体はこの自らの衝撃に耐えきれず、いくつかの鱗が剥がれ落ち、それはキラキラと輝きながら足元に散らばった。

 一瞬、世界に静寂が戻ってきたが、それも束の間、あらゆる方向から竜がいっせいに襲いかかってきた。

 ワタシは見境なく炎を吐いた。竜はたちまち炎に巻かれ地面に倒れていったが、背後からすぐに別の竜が現れ、その竜がまた炎に倒れても、次から次へと竜が止めどなく襲いかかってくるのだった。

 こんなことをいつまで続けていてもらちが明かない…。

 そう思いはじめたとき、頭上にアイツの姿を見付けた。それは悠然と羽ばたき、こちらの様子を伺っているようだった。

 ワタシ自身でありながら、この悪災の元凶であるアイツ。アイツをどうにかしないと、この繰り返す悪業を終わらせることはできない。

 ワタシはふたたび力のかぎり叫ぶと、竜たちの動きが止まったその一瞬の隙を突いて、アイツの懐めざし飛び上がった。


 アイツはワタシの行動を読んでいたとばかりに不敵に笑い、すでに口いっぱいに溜め込んでいた炎の塊を投げかけてきた。ワタシもありったけの力を込めた炎で喉まで燃えてしまいそうな威力に耐えながら応じると、その炎と炎が触れた瞬間、空気は激しく震え、すさまじい衝撃の波が襲い、お互いの体は弾け飛び地面へ叩きつけられた。

 空から舞い落ちる鱗のきらめきのなか、ワタシはすぐさま体勢を整え、吸い寄せられるようにアイツに襲いかかった。

 渾身の力を込めて振り下ろした足をアイツは羽で防いだ。ついでお互いに吐き出す火炎、そして咆哮。

 あまりの衝撃の激しさに、地上だけでなく天上のすべての音をも含んだような、まるでこの世のものとは思えない不思議な音を立てて空間に亀裂が入り、縦に裂けたあなから深い闇が舌を出した。

 それは剥がれ落ちた鱗の山と地面に積み重なった竜と人の死体を次々に吸い込むと、すぐに満足したように閉じていった。


 ワタシたちはなおも激しく体をぶつけ合った。衝撃が襲うたび、お互いの体からは鱗が剥がれ落ちていき、肉体は飛び散り、ワタシの傷口からは金色の淡い光が漏れ出すようになり、アイツの体にはそれを打ち消すような闇が広がっていった。

 アイツの攻撃の間隙を縫うようにして他の竜もワタシに襲いかかってきたが、体から漏れた金色の光に触れるや、全身をその光が取り巻くように包み、体の中へじわりと浸透していった。彼らは苦悶の表情で苦しそうにもがくが、やがて黄色く光る石を口から吐き出し、その石がごとりと地面に落ちると同時に、その場に倒れ込んだ。彼らの顔はとても安らかに見えた。


 ワタシとアイツは何度もぶつかり合い、そして最後に渾身の力を込めて叫び合うと、かろうじて残っていたわずかな鱗はすべて吹き飛び、体の輪郭は完全に消えてなくなり、光と闇だけの存在となった。

 ワタシはもはや痛みを感じることはなく、地面に足をつけながら同時に飛んでいるような奇妙な感覚に包まれていたが、そんなことには構うことなく、なお目の前のアイツに向かっていった。

 光と闇はいつしか混ざりあい回転を始め、それが徐々に速くなっていくと、周囲の空気は猛烈に波打ちはじめ、その衝撃でふたたび空間が裂けた。その裂け目は空を覆うようにどんどん大きくなっていき、ものすごい勢いで空気が吸い込まれていく。生きている竜や人ですらなすすべもなく次々に吸い込まれ、彼らの叫び声もそこから抜け出すことはできず、荒れ狂う風の音だけがあたりを取り巻いた。


 気がつくと、ワタシは閉じかけた孔をふさぐように覆いかぶさり、ひと握りの黒い塊となったアイツはもがきながら吸い込まれていくところだった。

 深い闇だと思っていたその先では、無限の光のグラデーションが波のように揺れ動き、世界が引き伸ばされたかと思うそばから急激に縮められ、何度も伸縮と膨張を繰り返していた。落ちていくアイツに向かって光が矢のように流れ込み、そして訪れた絶対的な暗黒と静寂のなかから、透明な光の球が生まれるのを見た。


 そこにはなだらかに折り重なる丘と、どこまでも広がる青空があった。

 黄色い花が絨毯のように咲き乱れる丘の上、人の姿をしたワタシとあの少女が手をつなぎ、縛るもののない大空のもと、自由に駆け回っていた。

 やがて走り疲れたふたりは手を取り、お互いの瞳の中にあるどこまでも深い愛情の海の色を確かめ合い、ワタシはふいにころころと屈託なく笑い出した彼女を両手でしっかりと抱きしめたのだった。


……嗚呼あぁ………これでやっと平安が訪れる。


 光の球がはじけたのを見届け、ワタシはそう確信した。


 孔が閉じる瞬間、ワタシの体はひときわ強く輝き、こちらの世界もあちらの世界もすべてが光に包まれた。


 そこで金色の竜の視界と記憶はぷつりと途切れた。


 あとには真っ白な世界が広がっていた。

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