バベルの奴隷商

灰原士紋

バベルの奴隷商

 ナツメという弱冠じゃっかん十五才の少年が、オレの主人だ。


「ちゃんと約束通りの値段で買ってくれた?」

 ソファから立ち上がると、ナツメはそう言いつつオレのところへ小走りにやって来た。

 オレは無事に取り引きを済ませてきたことを伝える。


 オレはナツメに買われた人間。なおかつ棗の友人であり、従者という立場にある。

 

「お前、いつまでこんな商売こと続ける気なんだ」

 ポケットに手を突っ込んだままでオレは言う。

「んー……続けられる限り、かな?」

 そう言って棗は、にへっと笑う。

 オレはため息をつくしかない。

 ――どうしてそんなふうに笑えるんだ、こいつは。

 

 富の格差ってやつは、今や人間すら商品に変えちまった。何かのたとえや皮肉とかじゃない。文字通り、値札の貼られた人間が市場に並べられている。

 

 市場には売り買いする側の人間、そして売られる側の人間、そのニ種類がいる。

 棗は売り買いする側の人間だ。


 早くに亡くなった親の遺産を元手に、この年齢で立派に商売をしている。

 才能なのか努力の賜物たまものなのか、今のところ上手くいっている。


 オレはと言えば元々は売られる側の人間で、運良く処分されずに済んだ人間だ。

 ――いい加減、何とかしないと……こんな商売がいつまでも上手くいくとは思えない。

 

 ***


 二年前。

 その日もオレは、おりの中でひざを抱えていた。

 生まれてこのかた、オレはずっと売れ残っていた。

 十五才になるまでに売れなければ、終わりだ。

 あと何日かして、それでも売れなきゃ処分される。

 売れ残った人間は不用品だ。だから要らないモノとして処分される。

 あと数日。ただそれを待つだけだった。

 

 檻の前を往き来する人々。オレはその靴と地面を眺めていた。一足、檻の前で立ち止まる靴が見えた。

 視線を上げると、か細い脚にロングブーツを履いた子供が立っている。

 年はオレと同じか、少し下という印象だった。

 

 少年なのか少女なのか、見た目からはいまいちわからない。むちむちの太ももまであるオーバーニーソックスが、さらにその判別を難しくした。

 

 着ている服は高価な代物しろものなんだろうなってのは、見てすぐにわかった。

 ブラウンを基調にしたベストとネクタイ、そしてショートパンツの三点揃え。シャツなんて真っ白で、いかにも金持ちの子供らしいって思った。

 

 灰色の瞳がオレのほうを、ずっと見ている。耳にかかる髪を直しながら。売れ残りの商品を、熱心に値踏みするような人間は珍しかった。

 

 ***

 

 棗は人間を商品として売買している。

 買った人間を、オレの場合みたいに棗自身が所有することもある。だが、ほとんどの場合は高値でほかの人間に売る。

 なにも珍しいことじゃない。今では当たり前のビジネスだ。

 ただ、少しほかの商人と違うのは、売れ残ってしまいそうな商品ばかりを扱っているという点だ。


 ***

 

 おかしなやつだと思った。

「そこで何してるの?」

 ――見ればわかるだろ。売られてんだよ。もうすぐ処分されるんだろうけどな。

 オレは返事もせず、目でそう答えた。

 

「怒ってるの? それとも、どこか痛いの?」

 ――何を言ってるんだ、こいつは。モノが怒ったり、痛がったりするわけがないじゃないか。

 オレは理解に苦しんだ。

 

 だけど。なぜだか今でもわからないんだが……。その時のオレは涙を流していたんだな。

 

 そんなオレを見て、その子供がどう思ったのかは知らない。子供は売り手を呼びつけてオレを買った。

 

 その子供こそが棗だった。

 商品の値踏みのために市場へやって来た棗と出会ったのは、本当に偶然だった。

 オレにとっては幸運な出会いだったと言えるんだろう。

 

 ***

 

「あのおじさんなら大丈夫だよね。気に入らないからって処分するような人じゃないよね」

 

 買われた商品がその後、どんな扱いを受けることになるのか。そんなことは本来、売り手の知ったことじゃない。

 だけど棗が値踏みをするのは、買い手のほうだ。

 

「もういいんじゃねえか。そんなこと気にしたって仕方ないだろ」

 

「ダメーーッ!!」

 そう言って棗は頬を膨らませる。

 また怒らせてしまった。

 

「下調べならちゃんと済ませてるって。そんなに心配しなくても大丈夫だって」

 毎度のことながら、今回も下調べと称する偵察業務で死にそうになった。

 

 ***

 

「シンくんにして欲しいことは三つあります」

 オレより二つ年下の少年は、そう言って三本指を開いて見せる。

 棗に市場から連れ帰られて、オレが最初に言い渡された指示だった。

 

 一つ目は自分の友だちになること。二つ目は自分の身のまわりの世話をすること。三つ目は自分の仕事を手伝うこと、というものだった。

 

 オレはただ「小さい手だなぁ」なんて思って、ぼーっとしながら話を聞いていた。

 

 ***

 

 今にして思えばオレも子供だった。世間のことなんて何も知らずに生きてきたわけだ。

 

 身のまわりの世話はまだいいとしよう。

 だけど、友だちに仕事の手伝いを命がけでさせるのはおかしい。オレがそのことに気づいたのは、少しあとのことだ。

 

 商品を売りに出すと、買い手候補が名乗りをあげる。

 もちろんながら、買い手となる人間が善良であるとは限らない。

 

 誰の目から見ても、商品への仕打ちがひどい人間もいる。だからと言って、そのことは別に非難されることじゃない。むしろよくある話だ。

 

 たとえ外聞が良くても、明るみに出せないような趣味や性癖を抱えている人間だっている。人知れずそれを商品にぶつけるような人間。

 むしろそういう人間のほうが、オレには厄介だ。

 

 本当に善良と呼ぶに値する人物なのかどうか下調べをする必要が、つまりオレの仕事が発生するからだ。

 

 買い手の多くは金持ちだ。住居のセキュリティなんかも万全で、ただの泥棒風情ならまず手を出そうとは思わない。

 情報収集のために、そんな死地へ友だちを行かせるとはどういう了見なのかと、小一時間ほど問いつめたくなる。

 

 それでも今は、とにかく棗をなだめないといけない。おやつで機嫌を直してくれればいいんだが。


 

「むぅ~……ほんとに? ほんとのほんとに大丈夫?」

 おやつに紅茶と茶菓子を用意しながら「ああ。大丈夫だって」と、オレは答える。


 ――ああ……もう。面倒くさい。そんなに心配ならこんな商売、いっそのことやめてしまえばいいのに。

 だけど棗はこの商売をやめる気はまったくない。

 

 何も知らない者にとって、棗は人間を商品として売り捌く、ただの商売人でしかない。

 

 昔々の道徳やら人倫やらを振りかざして、非難してくる者もいる。当事者でもなんでもなく、薄っぺらな正義感に駆られた連中だ。

 まぁ、実際にはそういう連中ってのは、棗の商売がたきあたりにき付けられた口なんだが。

 

 彼らは知らない。棗のことを。

 そして棗を傷つけたところで、この世界は何も変わらないってことを。

 


 時間を見計らって、オレは紅茶をカップにそそぐ。

 茶菓子のほうはもうすでに、棗のつまみ食いで残りわずかになっている。

 

「もう十分なんじゃないのか」

 棗の手元にカップを運びながらオレは言う。

「なにが?」

 最後の菓子を口に入れようとしていた棗が、その手を止めて聞き返す。

「お前はもう百人は救ってるよ、オレも含めて」

「なんだ。またその話か」

 そう言って棗は、最後の菓子を口に放り込む。

 オレは棗のこういうところが気に入らない。そんなこと、どうってことないって態度が気に入らない。

 

「古い本で読んだんだけどね。昔は千人を超える人たちを救った人もいたんだよ。ボクなんて、まだ百人かそこらじゃないか」

 その本なら知っていた。棗に教えられて読んだからだ。

「その男はそれで、ほとんど全財産を失ったんだろ」

「うん。そうだね。ボクにはお金しかないからねぇ。そうなると大変かもしれないね」

 ――そんなこと本気で思っていないだろ。それがどうしたのっていう、その顔を見ればわかる。


 言っても無駄だとわかっていても、つい言ってしまう。

「お前は神じゃない」

「そんなの当たり前じゃないの」

 そう言って棗は、はははと笑う。

 その笑う顔を見るのが、日を追うごとにつらくなる。

 


 棗は知っている。

 自分のすることで、世界を変えられるわけじゃないってことを。

 時代や社会とかっていう大きな流れの前じゃ、人間一人の力なんて無いも同然だ。

 何をしたって、その流れが変わることはないんだろう。

 流されまいと一人踏ん張ったところで、この世界がどうにかなるわけじゃない。

 

 それでも棗はいつもニコニコしている。

 幼さの残る顔が笑う。

 何も知らない人間が、いつか棗を傷つけようとする日が来るかもしれない。

 そう思うとオレはまた、ため息が出そうになる。

 そして、その度にいつも強く思うんだ。

 誰にも棗を傷つけさせない、と。


 (了)

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