第四部 体験航海

第五十一話 体験航海 1

「おはようございます!」

「おう、おはよう。今日は早いな」

「そりゃ、お客さんがみえますからね」

「ああ、そうだった」


 いつものように、舷門当番げんもんとうばんをしていた先輩に敬礼をして、桟橋さんばしを渡る。甲板にはなぜか相波あいば大尉が立っていて、その横では大佐がちんまりと香箱座こうばこずわりをしていた。もちろんその姿は、俺にしか見えていない。


―― 俺、とうとう香箱座こうばこずわりって言葉も覚えたぞ ――


 日々、猫用語が豊かになっていく自分に感心しながら、こっそりと大尉に声をかけた。


「おはようございます」

『おはようございます。今日は良い天気で、航海日和びよりですね』

「そのわりには大佐、すごく機嫌が悪そうですが」


 声をひそめたまま質問をする。比良ひらによると、香箱座こうばこずわりをしている時の猫というのは、たいていがリラックスモードらしい。だが今の大佐は鼻と額にシワをよせ、目を細めつつ、乗艦してくる俺達をにらんでいた。これはどう考えても、リラックスモードじゃない。あきらかに機嫌が悪い。下手に手を出したら、猫パンチをくらいそうだ。


『今日の体験航海が、お気に召さないらしいですよ』

「ああ、なるほど」


 今日は体験航海が行われる日。地元地本と隣接した県の地本で集められた希望者を乗せて、みむろが海に出るのだ。もちろん海といっても外洋には出ず、湾内を周回する半日足らずの行程だが、まったくの素人しろうとを乗せての出港とあって、ここしばらくは、念入りなタイムスケジュール調整がねられていた。


 そして大佐が気に入らないのは、自衛官ではない民間人が乗り込んでくることなのだ。


「いい加減にあきらめろよな。これも自衛官募集のための、大事な広報活動なんだからさ」

吾輩わがはいは機嫌が悪いわけではない。吾輩わがはいの仕事をしているだけだ』


 大佐の『仕事』とは、このふねに乗り込む人間達が、余計なモノをつけて乗艦してこないように、監視することらしい。実際、どんなふうに余計なモノを排除するのか、まだ一度も見たことがないので謎だ。やはりそこは、猫パンチなんだろうか?


「やりすぎは禁物なんだぞ? 万が一、今日の見学者の中に、大佐のことが見える人がいたらどうするんだよ」

『やかましい。吾輩わがはいの仕事に口出しをするな』


 やれやれと首を振りながら、自分の部屋に向かった。今日は民間人が乗り込むせいか、普段より早い時間から課業が開始されている。いつもは静かなこの時間も機関が動いており、艦内はあちらこちらでざわついていた。


「おはようございます」

「おう、おはよう」


 同室の紀野三曹もいて、作業服に着替えているところだった。


「そう言えば今日の操艦、先輩じゃないんでしたっけ?」

「今日は先輩の一曹が担当する。俺は、艦橋に来たお客さんへの説明係」

「艦橋だけでいいっすね。俺は今回、ずっと付き添いするみたいで」

「ま、しかたないよな。お前らが一番、お客さん達と世代が近いわけだし」


 もちろん、海士長の俺達より下の人間もいる。だがこれも訓練の一環ということで、あえて俺達なんだそうだ。もちろん年長者も案内役につくが。


「もー、変なところでプレッシャーですよ。お客さんへの説明が訓練だなんて」

「しかたないな。これからも体験航海はあるし、誰かに説明することで、今まで中途半端に頭に入っていることも、自分の中に落としこむこともできるわけだし。がんばれ」

「へーい」


 着替えを終えると、いつものように神棚のある場所へと向かう。そしてかしわ手を打っておがんだ。


「今日も一日、無事に課業が終わりますように! それと、また変なのが乗り込んできませんように!」


 大佐のことを信用していないわけじゃない。だが、こちらの神様にもしっかり頼んでおかないと落ち着かない。あんな怖い目や臭い目に遭うのは二度とごめんだ。


「あ、波多野はたのさん、おはようございます」


 頭をさげたところで、後からやってきた比良ひらに声をかけられた。


「おはよう」


 比良も神妙な顔をして神棚の前で頭を下げると、かしわ手を打った。


「体験航海が無事に終了しますように!」


 そしてもう一度、頭を下げる。


「お待たせです」

「比良も今日は、見学者の説明係なんだよな?」

「そうなんですよ。間違ったことを教えちゃわないか心配で、緊張しすぎて船酔いも吹っ飛びそうです」


 笑いながら廊下を早足で進む。腕時計を見下ろせば、もうすぐ八時だ。


「それはそれでラッキー、なのかな?」

「どうなんでしょう。念のために、酔い止めは飲んでおきますけどね」

「そうなのか」


 俺があいまいな返事をすると、比良が笑う。


「だって万が一、見学者の前で吐くわけにはいかないでしょ?」

「そりゃ言えてる。ガッカリしちゃいそうだもんな」

「ま、船酔いする隊員は、俺だけじゃないんですけどねー」


『十秒前』


 艦内放送が流れたので、話を中断していつもの場所に走っていった。


『時間』


 俺達がいつもの定位置に立ったところで、ラッパの音がなり、自衛艦旗が掲揚けいようされる。相波大尉と大佐も、いつもの場所に立っていた。


「今日の体験航海について、あらためて艦長から話があるので、全員、その場でこちらを注目!」


 普段ならここで解散して、それぞれの科での申し送りが始まるのだが、今日は副長が、その場にいる全員を呼び止めた。姿勢を正し、全員が艦長のほうに視線を向ける。もちろん相波大尉と大佐は、その場を立ち去った。行き先はもちろん、見学者が乗り込んでくる舷門げんもんだ。


「おはよう、諸君。今日は体験航海ということで、一般の学生さん達が乗艦する。時間にしてあと……三十分というところだな」


 艦長は、自分の腕時計を見下ろした。


「見学者はすでに集合している。あらためて内訳を確認したところ、高校生が六名、大学生が五名、社会人が二名ということだ。それなりの人数なので、艦内を移動しているのを見かけたら、担当でなくても安全確保に注意するように。ああ、ちなみに、今回の見学者には女性もふくまれている」


 その場に「おお~」という妙な空気が流れた。それを察したのか、横に立っていた副長や航海長が、ニヤッと笑った。


「昼飯の時間は、見学者も隊員と同じように食堂でとる。みんな、お行儀よくな? 普段が男所帯だからと、広報から懸念の声が出ていることを、ここで申し伝えておく」


「……そこまでひどくないよな、俺達」

「だと思いますけどね……」


 なにをどう心配されているのか。広報の言い分に、いささか憤慨ふんがいしながらつぶやく。


「そんなに心配なら、他の護衛艦に任せれば良かったんだ」

「だよなー。みむろはイージス艦としては新しいほうだし、まだまだ機密事項も多いんだから」


 ただ新しいおかげもあって、乗員の住環境は他の護衛艦と比べて、かなり良好な部類だ。そういうことも、体験航海に選ばれた理由の一つなんだろう。


「あ、風呂やトイレのことを質問されたら、どう答えたら良いんだ?」

「風呂は時間差だろ。トイレは……わからん」


 今は男の乗員ばかりなのだ。そんなこといきなり質問されたら一体、どう答えれば良いんだ?


「女性の見学者がいることは想定してなかったな……」


 その手の質問が自分にこないことを祈っておこう。


「全員、落ち着け! まだ艦長の話は終わってないぞ!」


 副長がざわつき始めた全員の注意を引き戻す。


「まあ男女の関係なく、十名以上の民間人を乗せての航海だ。今日は天気も良く、波も穏やかだが、くれぐれも注意をするように。甲板を移動する時は特に。ロープの張り具合を今一度、確認をしておくように。以上だ」

「ではそれぞれの部署で、本日の予定と申し送りをして出港準備を開始する。見学者のエスコートを担当する者は、申し送り終了後、ここに戻ってくるように。解散!」


 その場にいた全員がばらけた。


「比良は体験航海に参加したんだよな?」

「高校の時に一度。その時に自分が船酔いすることに気づいたんですよ」

「そうだったのかー」

「でも、あきらめきれなくて入隊しました」

「すごいな、海自愛」

「護衛艦愛って言ったほうが正しいかも」


 艦内に戻った俺達は、それぞれの科の集合場所へと向かった。


「さて、今日は色々と忙しい一日だ。特に艦橋は航海中に見学者があがってくる。ちょっとした満員電車なみになるから、それぞれきちんと自分の任務を把握して、ムダに動き回ることがないように」


 航海長の山部やまべ一尉が、集合した航海科の隊員達に申し送りをする。


「今日の天候はどうなっている?」


 一尉は、気象担当の先輩一曹に質問をした。


「はい。明け方の気象予報では、夜まで晴天が続くとのことです。予想気温ですが……」


 質問された先輩一曹は、最新の気象情報が書かれたメモを読みあげていく。


「今現在の気象情報では、風もほとんど吹かないとのことなので、海上の波も穏やかだと予想しています。ただ、昼からは気温が下がりそうですから、見学者は甲板に出ない方が良いのではと判断します」

「了解した。今回の人数だと、出入港時は艦橋が満員御礼状態だな。人が多いと、それだけ注意が散漫になりがちになる。全員、普段以上に集中して出入港にあたってくれ。波多野!」

「はい!」


 いきなり呼ばれて飛びあがる。


「航海科からの説明要員はお前だ。相手は素人しろうとさんだ、分かりやすく説明をするように。ただし、こっちの邪魔になるようなことはするなよ?」


 一尉の言葉に首をかしげた。


「あの、反対にお聞きしますが、出入港作業を邪魔するようなことってなんですか?」


 たまに湾内に現れるジェットスキー集団やクルーザー集団が、航路をさえぎって邪魔することはよくある。だが見学者と俺が邪魔になる行動って、一体なんだ?


「ムダに大声で騒ぐとか、外に出て監視を邪魔するとかだな。艦橋内を移動することは禁止ではないが、監視の邪魔になるような行動は絶対にさせるな」

「そんなことするわけないじゃないですか。見学に来る人達も、幼稚園児や小学生じゃないんですから」


 航海長は心配しすぎでは?と思ったが、その顔を見る限り本気のようだ。


「いや、わからんぞ。今までの経験から、人間、初めてのことを経験する時は、我を忘れてはしゃぐのが多いからな」

「そういう時は航海長が一喝いっかつすれば良いのでは?」


 見学者と年の近い俺が注意するより、年配者の幹部が注意するほうがよっぽど効果があると思う。


「基本的に俺達は口出ししないから」

「えー……そういうことは幹部が注意してくださいよ……」

「いや。俺達は口出ししない。これもお前の訓練だ」

「えー……それ、絶対に口実にしてますよね……」

「訓練だ」


 航海長の発言が、限りなくあやしいと思った瞬間だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る