第四部 体験航海
第五十一話 体験航海 1
「おはようございます!」
「おう、おはよう。今日は早いな」
「そりゃ、お客さんがみえますからね」
「ああ、そうだった」
いつものように、
―― 俺、とうとう
日々、猫用語が豊かになっていく自分に感心しながら、こっそりと大尉に声をかけた。
「おはようございます」
『おはようございます。今日は良い天気で、航海
「そのわりには大佐、すごく機嫌が悪そうですが」
声をひそめたまま質問をする。
『今日の体験航海が、お気に召さないらしいですよ』
「ああ、なるほど」
今日は体験航海が行われる日。地元地本と隣接した県の地本で集められた希望者を乗せて、みむろが海に出るのだ。もちろん海といっても外洋には出ず、湾内を周回する半日足らずの行程だが、まったくの
そして大佐が気に入らないのは、自衛官ではない民間人が乗り込んでくることなのだ。
「いい加減にあきらめろよな。これも自衛官募集のための、大事な広報活動なんだからさ」
『
大佐の『仕事』とは、この
「やりすぎは禁物なんだぞ? 万が一、今日の見学者の中に、大佐のことが見える人がいたらどうするんだよ」
『やかましい。
やれやれと首を振りながら、自分の部屋に向かった。今日は民間人が乗り込むせいか、普段より早い時間から課業が開始されている。いつもは静かなこの時間も機関が動いており、艦内はあちらこちらでざわついていた。
「おはようございます」
「おう、おはよう」
同室の紀野三曹もいて、作業服に着替えているところだった。
「そう言えば今日の操艦、先輩じゃないんでしたっけ?」
「今日は先輩の一曹が担当する。俺は、艦橋に来たお客さんへの説明係」
「艦橋だけでいいっすね。俺は今回、ずっと付き添いするみたいで」
「ま、しかたないよな。お前らが一番、お客さん達と世代が近いわけだし」
もちろん、海士長の俺達より下の人間もいる。だがこれも訓練の一環ということで、あえて俺達なんだそうだ。もちろん年長者も案内役につくが。
「もー、変なところでプレッシャーですよ。お客さんへの説明が訓練だなんて」
「しかたないな。これからも体験航海はあるし、誰かに説明することで、今まで中途半端に頭に入っていることも、自分の中に落としこむこともできるわけだし。がんばれ」
「へーい」
着替えを終えると、いつものように神棚のある場所へと向かう。そしてかしわ手を打っておがんだ。
「今日も一日、無事に課業が終わりますように! それと、また変なのが乗り込んできませんように!」
大佐のことを信用していないわけじゃない。だが、こちらの神様にもしっかり頼んでおかないと落ち着かない。あんな怖い目や臭い目に遭うのは二度とごめんだ。
「あ、
頭をさげたところで、後からやってきた
「おはよう」
比良も神妙な顔をして神棚の前で頭を下げると、かしわ手を打った。
「体験航海が無事に終了しますように!」
そしてもう一度、頭を下げる。
「お待たせです」
「比良も今日は、見学者の説明係なんだよな?」
「そうなんですよ。間違ったことを教えちゃわないか心配で、緊張しすぎて船酔いも吹っ飛びそうです」
笑いながら廊下を早足で進む。腕時計を見下ろせば、もうすぐ八時だ。
「それはそれでラッキー、なのかな?」
「どうなんでしょう。念のために、酔い止めは飲んでおきますけどね」
「そうなのか」
俺があいまいな返事をすると、比良が笑う。
「だって万が一、見学者の前で吐くわけにはいかないでしょ?」
「そりゃ言えてる。ガッカリしちゃいそうだもんな」
「ま、船酔いする隊員は、俺だけじゃないんですけどねー」
『十秒前』
艦内放送が流れたので、話を中断していつもの場所に走っていった。
『時間』
俺達がいつもの定位置に立ったところで、ラッパの音がなり、自衛艦旗が
「今日の体験航海について、あらためて艦長から話があるので、全員、その場でこちらを注目!」
普段ならここで解散して、それぞれの科での申し送りが始まるのだが、今日は副長が、その場にいる全員を呼び止めた。姿勢を正し、全員が艦長のほうに視線を向ける。もちろん相波大尉と大佐は、その場を立ち去った。行き先はもちろん、見学者が乗り込んでくる
「おはよう、諸君。今日は体験航海ということで、一般の学生さん達が乗艦する。時間にしてあと……三十分というところだな」
艦長は、自分の腕時計を見下ろした。
「見学者はすでに集合している。あらためて内訳を確認したところ、高校生が六名、大学生が五名、社会人が二名ということだ。それなりの人数なので、艦内を移動しているのを見かけたら、担当でなくても安全確保に注意するように。ああ、ちなみに、今回の見学者には女性もふくまれている」
その場に「おお~」という妙な空気が流れた。それを察したのか、横に立っていた副長や航海長が、ニヤッと笑った。
「昼飯の時間は、見学者も隊員と同じように食堂でとる。みんな、お行儀よくな? 普段が男所帯だからと、広報から懸念の声が出ていることを、ここで申し伝えておく」
「……そこまでひどくないよな、俺達」
「だと思いますけどね……」
なにをどう心配されているのか。広報の言い分に、いささか
「そんなに心配なら、他の護衛艦に任せれば良かったんだ」
「だよなー。みむろはイージス艦としては新しいほうだし、まだまだ機密事項も多いんだから」
ただ新しいおかげもあって、乗員の住環境は他の護衛艦と比べて、かなり良好な部類だ。そういうことも、体験航海に選ばれた理由の一つなんだろう。
「あ、風呂やトイレのことを質問されたら、どう答えたら良いんだ?」
「風呂は時間差だろ。トイレは……わからん」
今は男の乗員ばかりなのだ。そんなこといきなり質問されたら一体、どう答えれば良いんだ?
「女性の見学者がいることは想定してなかったな……」
その手の質問が自分にこないことを祈っておこう。
「全員、落ち着け! まだ艦長の話は終わってないぞ!」
副長がざわつき始めた全員の注意を引き戻す。
「まあ男女の関係なく、十名以上の民間人を乗せての航海だ。今日は天気も良く、波も穏やかだが、くれぐれも注意をするように。甲板を移動する時は特に。ロープの張り具合を今一度、確認をしておくように。以上だ」
「ではそれぞれの部署で、本日の予定と申し送りをして出港準備を開始する。見学者のエスコートを担当する者は、申し送り終了後、ここに戻ってくるように。解散!」
その場にいた全員がばらけた。
「比良は体験航海に参加したんだよな?」
「高校の時に一度。その時に自分が船酔いすることに気づいたんですよ」
「そうだったのかー」
「でも、あきらめきれなくて入隊しました」
「すごいな、海自愛」
「護衛艦愛って言ったほうが正しいかも」
艦内に戻った俺達は、それぞれの科の集合場所へと向かった。
「さて、今日は色々と忙しい一日だ。特に艦橋は航海中に見学者があがってくる。ちょっとした満員電車なみになるから、それぞれきちんと自分の任務を把握して、ムダに動き回ることがないように」
航海長の
「今日の天候はどうなっている?」
一尉は、気象担当の先輩一曹に質問をした。
「はい。明け方の気象予報では、夜まで晴天が続くとのことです。予想気温ですが……」
質問された先輩一曹は、最新の気象情報が書かれたメモを読みあげていく。
「今現在の気象情報では、風もほとんど吹かないとのことなので、海上の波も穏やかだと予想しています。ただ、昼からは気温が下がりそうですから、見学者は甲板に出ない方が良いのではと判断します」
「了解した。今回の人数だと、出入港時は艦橋が満員御礼状態だな。人が多いと、それだけ注意が散漫になりがちになる。全員、普段以上に集中して出入港にあたってくれ。波多野!」
「はい!」
いきなり呼ばれて飛びあがる。
「航海科からの説明要員はお前だ。相手は
一尉の言葉に首をかしげた。
「あの、反対にお聞きしますが、出入港作業を邪魔するようなことってなんですか?」
たまに湾内に現れるジェットスキー集団やクルーザー集団が、航路をさえぎって邪魔することはよくある。だが見学者と俺が邪魔になる行動って、一体なんだ?
「ムダに大声で騒ぐとか、外に出て監視を邪魔するとかだな。艦橋内を移動することは禁止ではないが、監視の邪魔になるような行動は絶対にさせるな」
「そんなことするわけないじゃないですか。見学に来る人達も、幼稚園児や小学生じゃないんですから」
航海長は心配しすぎでは?と思ったが、その顔を見る限り本気のようだ。
「いや、わからんぞ。今までの経験から、人間、初めてのことを経験する時は、我を忘れてはしゃぐのが多いからな」
「そういう時は航海長が
見学者と年の近い俺が注意するより、年配者の幹部が注意するほうがよっぽど効果があると思う。
「基本的に俺達は口出ししないから」
「えー……そういうことは幹部が注意してくださいよ……」
「いや。俺達は口出ししない。これもお前の訓練だ」
「えー……それ、絶対に口実にしてますよね……」
「訓練だ」
航海長の発言が、限りなくあやしいと思った瞬間だった。
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