第四十八話 自衛隊体操

 直角ねん転、はじめっ、イチッ、ニッ、サンッ、シッ


「……」

「……」


 ゴッ、ロクッ、シチッ、ハチッ


「なんだ」

「いえ、なにも」


 ニッニッ、サンシッ、横に曲げ、はじめっ


「言いたいことがあるんなら、さっさと言えよ」

「では遠慮なく。いやあ、残念でしたねえ、また空振りとは」


 イチッニッサンッシッ、ニッニッ、サンッ


「なんのことだ」

「またまた、とぼけちゃって。見たかったんでしょ? 後悔してるんじゃないですか? 夕方こっちに顔を出さなかったの」


 イチッニッ、前後に曲げ、はじめっ


 さっきから藤原ふじわら三佐と山部やまべ一尉が、体操の号令のあいまをぬって、ヒソヒソと話をしている。見たかったというのは、もちろんクラゲ幽霊のことだ。休暇明けの三佐が乗艦したのは、その日の早朝。舷門当番げんもんとうばんをしていた先輩によると、桟橋さんばしの階段をあがる前に周囲を見渡しながら、心なしかガッカリした顔をしていたかといないとか。


―― やっぱり見たかったんだ、副長…… ――


 体ねん転斜前屈身しゃぜんくっしん、イチニッサン、シィィィィ


「いたたたたた」


 体を回したところで、一尉がうなり声をあげる。


「山部お前、体がかたくなったんじゃないのか?」

「うるさいですよ、ほっといてください」


 そのやり取りに、俺と比良ひらはとうとう噴き出してしまった。その声に二人がそろってふりかえる。慌てて口をつぐんだが、後の祭りってやつだ。


「笑うな。お前達も年くったらわかるから」

「年ってお前、いくつだよ。俺より年下じゃないか」


 三佐のツッコミにさらに噴き出す。


「だから笑うな」

「「申し訳ありません!!」」

「謝ることなんてないぞ? 単に山部の体がかたいだけなんだから」

「副長に言われたくありません。さっきのグリコポーズ、ふらついてたじゃないですか」


 そう言いながら、最後の呼吸を整える動きを開始した。


「それはふねが揺れたからだ。お前だってふらついてただろ。それとグリコポーズとか言うな。大阪人にしかわからないんだから」

「グリコは日本の代表的な製菓メーカーでしょ」

「そうじゃなくて、ポーズのほうがだよ」


 艦内神社のおかげなのか、三佐のおかげなのか、はたまた単なる偶然なのか。理由は気っきりしないが、あの白いクラゲ幽霊達は姿を消した。三佐は見逃してガッカリだろうが、少なくとも俺は心の底からホッとしている。


「大丈夫ですよ、副長。自分はここが地元ですが、そのポーズのこと、わかりますから」


 そう言って比良は、そのポーズをしてみせた。そのポーズを見て笑いながら、ようやく平穏な普段の日常に戻ったことにホッとしていた。ま、猫大佐と猫神候補生達は、何事も起きずにクラゲ幽霊が消えたので若干、残念そうにしているが。


「さて、体操のおかげで体もいい感じにほぐれたし、あと半日、しっかり業務にかげんでくれ。ああ、気温が上がっているから、艦内に戻ったら水分補給はしっかりとな」


 三佐は体操に参加していた全員に声をかけた。それぞれがその声に返事をし、自分の持ち場へと散っていく。


「体をほぐすのにはちょうど良いですが、若い連中には運動としては物足りないですかね、これ」


 その場を離れる先輩達を見送っていた一尉がつぶやいた。


「だったら陸自の体操やらせるか? あれは軽く死ねるぞ? もちろん、言い出しっぺのお前が参加することが条件だが」

「イヤですよ。あれをするぐらいなら、今のを五本しますね」

伊勢いせは毎日、業務に入る前にやってるそうだがな、陸自の体操」

「あいつは、絶対に来るとこ間違えてます」


 一尉が断言した。今頃、伊勢曹長は艦内のどこかでクシャミをしているに違いない。そこで笛の音が艦内に響く。艦長の乗艦を知らせる音だ。朝からいた艦長の大友おおとも一佐だったが、急に総監部に呼び出しを受けていたのだ。


「お、艦長のお戻りですね。さて、総監部でどんな話があったのやら」

「急な呼び出しがある時は、たいていロクでもないことが起きている時だがな」

「やめてくださいよ、縁起でもない。平和が一番です」

「俺に言うな」


 三佐と一尉は、あーだこーだと言い合いながら、足早にその場を立ち去った。


「なにかあるんですかね?」

「さあ。今のところ、俺達が緊急出港しなきゃいけないようなニュースって、流れてないよな?」

「俺の知る限りではないですね」


 とは言え、世間で流れているニュースなんてのは、ほんの氷山の一角でしかない。この手の事態はもっと深いところ、俺達ですら知らないところで進行しているのだ。そして今、その一つを艦長が持ち帰ってきたかもしれない。


「ま、なにかあるなら、艦長から通達があるよな」

「だと思いますけどね~」


 俺と比良は急いで艦内に戻った。



+++++



 先輩に航海図の作成の指導を受けていた時、山部一尉が艦橋に戻ってきた。その表情はなんとなく浮かないものだ。なにか厄介なことでも起きたのかと思っていたら、総監部から地元地本主催の体験航海に、みむろが選ばれたという話だった。


「体験航海ですか。なーんだ、それを聞いてホッとしました」

「なんでだ。体験航海だぞ?」

「ここに上がってきた時の航海長の顔を見たら、ヤバいことでも起きたのかと思ったものですから」


 俺の言葉に先輩もうなづく。


「十分にヤバいことだろ、体験航海をするなんて。素人さんを乗せてふねを走らせるんだぞ? まったくロクでもないことが起きたじゃないか。副長には言っておかないとな、口は災いの元だって」


 一尉の表情からすると、どうやら本気でそう思っているらしい。


「だから、もっとヤバいことだと思ったんですよ。ほら、どっかの国がミサイルを打ちそうだから、しばらく日本海で見張ってろとか」


 そのせいでこの基地所属のイージス艦が、二ヶ月ほどおかに戻れなかったことがあるという話は、仲間内ではけっこう有名な話だ。


「いやまあ、それはそれで困るが、ヤバさからしたら、どっちもどっちだ」

「どっちもどっちなんだ……」


 その二つがどっちもどっちとは。どんだけイヤなんだよって話だ。


「艦長が総監部で言われたのさ。サマーフェスタで一般公開しないなら、体験航海をやってくれないかって」

『また騒々しい連中がやってくるのか……厄介なことだな』


 艦長席で昼寝をしていた大佐が、大きく伸びをしながら言った。そして背もたれで爪とぎを始める。


―― ああああ、そこ艦長席!! ――


 そう叫びたいのを何とかのみこんだ。


「た、体験航海ってことは、学生さんが対象ですか。将来の海自がいるかもしれないですね」


 大佐から目をそらしながら話を続ける。


「ま、リクルート活動は大事だけどなあ」


 体験航海は九月中旬を予定しているらしい。これから地元地本、そして隣接している県の地本が募集をかけるそうだ。


「人数的には何人ぐらいになりそうなんですか?」

「いつもだと十人前後だが、みむろは新しいふねだし体験航海は今回が初めてだからな。もしかしたら参加希望者はいつもより多いかもしれん。波多野はたのは入隊前、体験航海には来たのか?」

「いえ。自分はみむろカレーと、前任の先任伍長に言いくるめられて海自に入ったクチですから」


 俺の返事に、一尉が笑う。


「ああ、そうだったそうだった。今時、珍しく海自カレーの存在をしらないヤツがいたって、おっかさんに驚かれたんだっけな」

「はい」


 たしか比良は福井地本が主催した体験航海に参加して、やっぱり海自に入隊しようと決心したとか。入隊しようと思ったきっかけは人それぞれだ。


「はー……体験航海か。なんかイマイチな気分になってきたな。気晴らしに体操でもしてくるか。おい、波多野、行くぞ」

「え、またですか?! てか、なんで俺……?」


 こんな時間から体操をするなんて、聞いてないぞとぼやいたものの、上官の命令は絶対だ。しかたがないので、先輩に断りを入れて一尉についていく。甲板に出ると、それぞれの長と俺達のような海士長の姿があった。もちろんその中には比良もいる。


「波多野さん、やっぱり連れてこられちゃいましたか」

「まったく意味不明だよな。イマイチの気分だから体操するって。しかも夕方だぞ? いくら盆休みで入港したままだからって、これってどうなんだよ……」


 上官達に聞こえないように文句を言い合っていると、なぜか副長と伊勢曹長が前に立った。


「さて、ここしばらくは盆休みということもあり、長い訓練航海もパトロールもなく、体を動かすのが海自体操ばかりで退屈だろうと思う。そんな君達の声も聞こえてくるので、今回は特別に陸自体操を用意した。手本は伊勢海曹長が見せてくれるので、全員、前に注目」


 副長の言葉に、幹部を含んだ全員がざわつく。


「ちょ、なんで陸自体操。航海長?」

「いやいやいやいや、俺だってなんも聞いてないぞ」


 そんなわけで、俺達は海上自衛官なのに、なぜか陸自体操をするハメになった。終わってから、その場にいた全員が「ありえねえ、これ、体操じゃねえ!」「副長、鬼だ!」と悲鳴をあげたのは言うまでもない。


 そしてそんな阿鼻叫喚あびきょうかんの中、同じように体操をした伊勢曹長と副長が、涼しい顔をしていたのが納得いかない。

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