第四十四話 候補生達の訓練実習に?

「なあ、比良ひら

「なんでしょう」


 そろそろ夕刻。ジリジリと甲板を熱していた太陽が、西に傾いてきた。これだけ晴れていて日が照っていると、錆止めの塗装もあっという間に乾く。この調子だと、乾く前に大佐に足跡をつけられる心配もなさそうだ。まあ当の本人はといえば、冷房のきいている艦橋から出てくるつもりはないみたいだが。


「そろそろ暗くなってくるよな。まだいるのかな、あれ……」


 アレとは、朝、比良が話してくれたアレのことだ。


「どうなんでしょう。俺でも見えるものなのか、暗くなるのを楽しみにしているんですけどね」


 作業道具を片づけながら、桟橋さんばしの周辺を見渡す。太陽が西に傾いてきたとはいえ、まだまだ日没までは時間がある。今のところ、うっすらぼんやりとした気配すら感じられない。


「楽しみなのかよー……」

「だって、このふねだけではなく他のふねでも、けっこうな人数が見てますからね。猫神様の姿が見えない俺でも、これは見えるんじゃないかって」


 まったく比良ときたら、呑気なもんだよな。ハワイに向かう途中であんな怖い経験をしたのに、まったく懲りてない。


「俺は見たくないけどな……」

「波多野さんは大丈夫ですよ。猫神様も、そのお世話係さんも見えるんです。絶対に見えるはず!」

「ぜんぜん大丈夫じゃねえ……」


 本当に大丈夫じゃねえ……。



+++++



「うわー……俺、朝が来るまで艦からおりたくねえ……」

「思ったりよりたくさんいて、どうしましょうって感じですね……」


 目の前の光景を見て、俺と比良は思わず声をあげた。


「でも比良は、これを見たかったんだろ?」

「そりゃ見たかったですけど、こんなにたくさんだとは思わなかったですよ」


 桟橋の先では、白いなにかがフワフワと動いている。三角錐さんかくすいというかなんというか。比良から話を聞いた時にチェスのポーンが浮かんだが、まさにそれだ。そして、こっちに寄ってくるものもいるんだが、ある程度の距離になると、なにかにはじかれたように後ろに吹き飛んでいた。


「本当にはじかれてるな」

「あれ、猫神様と艦内神社のお陰でしょうか」

吾輩わがはいはなにもしておらん。あれは、神社にいる連中がやっていることだ』


 日が隠れて涼しくなってきたせいか、大佐が艦橋から降りてきた。そして目の前にいる白いヤツを見て、小馬鹿にしたようにフンッと鼻をならす。


「艦内神社の神様のお陰だってさ」


 大佐の声が聞こえない比良に説明をする。なるほどと言いながら、比良は首をかしげた。


「それはそうと。俺、あの光景を、どこかで見たような気がするんですよね」

「比良、あんなのを見たことあるのか?」

「見たっていうか、似たようなものを見たような……ああ、思い出しました。水族館のクラゲコーナーですよ。あの感じ、展示されていたクラゲにそっくりです」


 それを聞いて一気に力が抜ける。


「……期待した俺がバカだった」

「ひどいですね、波多野さん」

「クラゲだったらどんなに良いか。どうするんだよ、あれ……」


 いくら人手不足と言われる自衛隊でも、緊急事態でもない限り、勤務時間が終われば帰宅しなくてはならない。そうでないと、最近はいろいろとうるさく言われるらしい。とにかく、帰宅するということは当然、下艦するということだ。そして下艦するということは、あの白い連中の中を突っ切っていくということなのだ。


「無理だ。無事に突っ切れる気がしない」

「あれだけゆっくり動いているんです。よけながら走って突っ切れば、大丈夫なんじゃ?」


 相変わらず比良は楽観的だ。


「走り抜けたとたんに、ものすごいスピードで追いかけてこないって保証は、あるのか?」

「え、そりゃまあ、ないですけど……」

「だろ? あれが猛スピードで追いかけてきたら、どうするんだよ」

「それはー……」

「あー、絶対に追いかけてくる気がしてきた!」

『まったく、臆病だな』


 大佐が大きなあくびをして、後ろ足で耳の後ろをかきむしりながら言った。


「しかたないだろ? 俺達はただの人間で、軍刀でぶった切ったり、噛みついて放り投げるなんてできないんだから。つか、かきむしるのはやめろ、毛が飛びまくってるじゃないか」


 俺の抗議に、大佐はさらに激しく耳の後ろをかく。毛が飛び散り、鼻がムズムズしてくるのを感じた。


『それにしても情けない。あの程度の連中に恐れおののくとは』

「あの程度って、十分に恐れおののく存在じゃないか。見ろよ、あの数!」


 そう言いながら、指でさす。あれが一匹や二匹なら、俺だってそこまで騒がない。だが、今のあれはどう少なく見積もっても、五十匹以上いる。あれを見て、恐れおののかないほうがおかしい。


『やれやれ。手のかかるヤツだな、お前は』

「なんとかしてくれるのか?」

『なぜ吾輩わがはいがなんとかせねばならんのだ。吾輩わがはいはこの艦の猫神であって、お前達の守り役ではない』

「えー、じゃあどうするのさ。俺、このままじゃ、下艦できない」

『まったく……。お前達、良い機会だ。実習訓練を開始する』


 大佐がニャーンと鳴き声をあげると、どこからかにぎやかな気配が近づいてきた。


『はいはいはーい! 僕達に初めてのお仕事ですか?』

『僕達、もう一人前の猫神になれたんですか?』

『どこのお船に乗れば良いですかー?』


 やってきたのは猫神候補生の子猫達だった。大佐に呼ばれ、興味津々きょうみしんしんな顔をして俺達の足元を走り回っている。


「……波多野さん」

「ん?」

「俺、なにかに足を踏まれてます」


 下を見れば、子猫達が比良の足を踏みまくっていた。


「ああ、猫神候補生の子猫達だよ。足を踏まれているのを感じるってことは、もうすぐ見えるようになるんじゃね?」

「え、そうなんですか?! うわー、楽しみだなあ……」


 比良がデレデレとした顔になる。それを見た子猫が、不思議そうな顔で比良を見あげた。


『比良さん、僕達が見えないんですか?』

『波多野さんとはお話しできるのに、この人とはできないんですかー?』

『比良さん、修行しないとダメですねー』


「比良、候補生さん達にしっかり名前を憶えられてるぞ? 修行しなきゃダメだってさ」

「えー、そうなんですか? いやあ、困ったなあ……」


 ますますデレデレとした顔になる。俺からすると、なにがどう困るのかさっぱりだ。


「それで候補生さん達を呼んでどうするんだよ? あれを退治させるのか?」

『まさか。この者達にはまだ、そこまでの力はない』

「えー、じゃあどうするのさ」


 倒せないのに、どうして呼んだりしたんだ?と首をかしげてしまう。


『お前達、しばらくこの者達の護衛をするのだ。あの白いクラゲもどきが完全に消えるまで、この者達に近づけてはならん。それが今回の実習訓練だ』

『はーい。じゃあ僕、波多野さんと行きます!』


 そう言って、チャトラの子猫が俺の肩に飛び乗った。


『じゃあ僕は比良さん!』


 大佐と同じ柄の子猫が、比良の頭の上に飛び乗る。比良は頭の上になにかが飛び乗ったのを感じたのか、頭に手をやった。そして「ん?」となる。


「なんか今、フワフワとした感触が」

「おお、比良。そこまで感じるってことは、あと一歩ってとこだぞ」


『僕はどうしましょう……』


 デレデレしている比良の横で、残された一匹が困った顔をした。


『お前は波多野についていけ。こやつは騒ぎすぎて、無駄に引き寄せるかもしれないからな』

『了解しましたー!』

「え、俺、引き寄せてるつもりなんてないんだけど!」


 なにやら聞き捨てならないことを言われた。


『お前のように無駄に騒ぐと、ああいう無害なものでも引き寄せる可能性があるのだ、バカ者め。見なかったことにする知恵もないとは。まったく、海上自衛官が聞いてあきれる。艦長達を少しは見習え』


 そう言われて、艦橋に大佐がいる時の艦長達の態度を思い出す。最初は、艦長達には大佐の姿は見えていないんだと思っていた。だが、実はそうではないらしいと気がついたのは最近だ。そして、今の大佐の言葉で確信を持った。


「スルー検定ってことかよ」

『なんでもかんでも、バカ正直に反応すれば良いという話ではないのだ』

「しかし、候補生達の実習訓練とは……」


 比良に説明すると、案の定、嬉しそうにデレデレした顔になる。その様子からして、実習訓練の教材にされることに関しては、特に異議はないようだ。


「じゃあ、候補生さん達の実習訓練が終わるまでに、僕も猫神様達が見えるようになるかもしれないんですね? うわー、楽しみだなあ……。そんなチャンスがめぐってくるなんて、あの白いクラゲもどきに感謝しなくちゃ」

「感謝するのかよ、あれに……」


 比良の超絶前向きな思考が、本当にうらやましいと思える瞬間だった。

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