第二十九話 幽霊騒動

―― 部屋から出なければ大丈夫、部屋から出なければ大丈夫 ――


 悪い方へ考えをめぐらせるなと言われても、話を聞いてしまった以上それは難しい。だから余計なことを考えないように、自分に大丈夫だと念仏なみに言い聞かせることにした。


―― 今夜は猫大佐がいなくて、せっかくゆっくり寝られるってのに、ついてないよな…… ――


 そんなことを考えつつ、さらに頭の中で「大丈夫」と念じる。俺がこんなに怖い思いをしているというのに、二段ベッドの上の紀野きの三曹は、小さくいびきをかきながら爆睡中だ。


―― 俺がこんなに怖い思いをしているってのに、まったく先輩ときたら! ――


 腹が立ってきたので下から軽く小突くと、いびきがピタリと止まる。その様子に少しだけ気分が晴れた。


「……相波あいば大尉、大丈夫かな」


 黒い球体が艦内を暴れ回っていた時ですら、大尉は軍刀をさげていなかった。今回はその軍刀をさげての見回りだ。幽霊の大尉が、それをどう使うのか想像もつかないが、よほど厄介な相手に違いない。


「いかんいかん。下手に心配するのも、マイナス思考になってダメだよな……」


 なんといっても大尉は旧帝国海軍の軍人だ。生前は俺達よりはるかに場数を踏んでいただろうし、きっと大丈夫……なはず。そんなことを考えていると、急に部屋の温度が下がった気がした。いや、気がしただけではなく、本当に下がっている。


―― ちょ、マジで心配するだけでもダメなのか?! ――


 空調が壊れたのか?と思うぐらいの下がり具合だ。もうイヤな予感しかせず、ベッド脇のカーテンがしっかり閉じているのを確認してから、毛布の中にもぐりこんだ。


―― 怖がってる場合じゃないんだよ、俺。明け方前のワッチが控えてるんだからさあ……さっさと寝なきゃいけないってのに…… ――


 現実問題として、いま寝ておかないと、また寝不足で目がチカチカする状態で朝を迎えなくてはならない。ここは幽霊がどうのこうのは横に置いておいて、さっさと寝なれば。だが、そう都合よく寝られるわけがなかった。


「……」


 なぜかわからないが、部屋になにかが入ってきた気配がした。


―― かんべんしてくれよ……俺はなにも感じてない、気がついてない、ひたすら寝る! 寝るんだ! ――


 毛布にもぐりこんだまま、ギュッと目を閉じてそのままの姿勢で自分に言い聞かせる。だがその気配が、ベッドに近づいてくるのを感じるのはどうようもなかった。


―― 先輩、大丈夫かな…… ――


 ウーンとうなるような声がして、上で寝がえりをうつ音がする。今のところ目を覚ました様子はない。まったくもって、うらやましい。俺はこんなに怖い思いをしているというのに。


「……」


 目を閉じていても、カーテンのすぐ向こう側になにかがいるのが感じられる。


―― いま目を開けたら、絶対にヤバい! ――


 それだけは直感的に感じたので、なにがあっても目は開けまいと、閉じたまぶたに力をこめた。その直後、しおのにおいというか、魚のにおいというか、なんとも言えないにおいがした。そしてにおいはどんどん強くなり、目を閉じたままなのに、気配のぬしが自分をのぞき込んでいるのを感じた。


―― ヤバい、まじヤバい! ってか、当分、シーフードは食えなさそう! ――


 そう考えた途端、バシッと家鳴りのような音がした。そしてその音がすると同時に、ゾワゾワする気配とにおいが消え、部屋の中の温度がもとに戻ったのがわかった。


―― ??? ――


 しばらく目を閉じたままでいたが、意を決して片目をうっすらと開け、毛布からそっと顔を出す。部屋は赤いランプに照らされているだけで、特に変わった様子はない。


「……消えた?」

「おい、波多野はたの

「わっ」


 いきなり上から呼ばれて毛布と一緒に飛び上がった。


「先輩、起きてたんですか?!」

「起きてた」

「あの、今なにか見ました?」

「なんか白い影が入ってきた気がして、慌てて背中むけて寝たふりした」


 いつもより平べったい口調の三曹。どうやら寝返りをうった時は、目を覚ましていたらしい。目を開けた俺は、床になにかが落ちていることに気がついた。


「えっと、ちょっと電気つけて良いですか?」

「ああ」


 ベッドからはい出すと、部屋の電気をつけた。床に落ちていたのは、母港を出港する時に壬生みぶ三曹からもらった御守だった。拾い上げると、なぜか御守の袋が温かかった。


「机の上に置いたはずなのに、なんで床に落ちてるんだ……?」

「どうした?」


 三曹が体を起こし、こっちを見下ろしている。


「もらった御守が落ちてたんです。机の上に置いてあったんですけどね」


 普段は作業着のポケットに入れていたが、寝る時だけは机の上に置いていたのだ。時化しけで揺れまくっていたのならまだしも、特に揺れも激しくないのになぜ……?


「陸警隊の海曹が、波多野に渡してくれたってヤツか。神様的には守備範囲外だったかもしれないが、部屋から追い払ってくれたのかもな、さっきの得体の知れないなにかを」

「そうかもしれないですね……」


「わーーーー!」


 今度は外で声がした。あの声は比良ひらだ。そう言えば今夜は、俺より早い時間のワッチだったはず。時計を見れば、そろそろあいつが担当する時間だ。


「比良の声なんで、ちょと様子を見てみます」

「おい、大丈夫なのかよ」

「大丈夫じゃないですけど、比良をほうってはおけないでしょ」

「だったら、その御守は持っていけ」


 そう言われたので御守り握りしめ、ドアをあけ恐る恐る顔を出す。左右を確認すると、廊下の突き当りで、へたり込んでいる比良の姿があった。そしてヤツの目の前に、人影のようなものが浮いているのが見えた。


「おい、比良! こっちまで逃げてこい!」

「は、波多野さーん!」


 ここは比良の元まで駆けつけて、助け起こして逃げるのが一番なんだろうが、あいにくと俺も、人影のようなものを目にして足がすくんでいた。比良はなんとか身体をこっちに向け、廊下を這ってくる。どうやらあっちは、完全に腰が抜けてしまったようだ。そしてモヤモヤした人影も、比良の後ろをゆっくりとこちらに向かってくる。


「この御守、次もきいてくれるのか……? 比良、早く!」

「わ、わかってます」

「後ろは見るなよ!」

「わかってます! そういう怖いことは言わないでください!」


 比良には言わなかったが、ヤツの後ろで人影が少しずつはっきりした形をとり始めていた。しかも一人ではなく複数人。あんなのを目にしたら、比良でなくても腰を抜かすのは間違いない。


「早くしろ、早く!」

「だから、わかってます!!」


 お互いの声がめちゃくちゃ震えているのがわかった。普段ならお互いの震えた声に笑うところだが、あんなものが見えているのだ、とてもじゃないが笑えない。


『波多野さん、お友達を心配する気持ちはわかりますが、部屋から出ないようにと言ったでしょう?』


 俺の横に相波大尉があらわれた。


「あ、大尉!」

「波多野さん! よ、横にいますよ、幽霊!!」

「え?」


『あなたは、部屋から外に出てこないように』


 俺にそう言うと、大尉はそのまま比良のほうへて歩いていく。その手には、抜かれた軍刀が握られていた。


「え、わ、あの?!」

『波多野さんのところへ、早く行きなさい』

「は、はい!」


 大尉は比良と人影の間に立つと、軍刀を幽霊達のほうへと向ける。人影が動きを止め、うらめし気な声をあげた。


『成仏してくださいとお願いしても、もう無理なのは承知しています。ですから、私の手で送らせていただきますよ。もうなにも心配はいりません。本来いるべき場所へ行きなさい』


 軍刀がふりおろされ、人影が布が裂けるように分断された。その人影達は、最後まで抗うような動きを見せ、やがてゆっくりと消えていった。


―― これで終わったのか? ――


 だが、大尉はまだ軍刀をさやにおさめていない。


「……幽霊が幽霊をりましたよ、波多野さん! あんなので斬られたら、俺達、どうなっちゃうんですか?!」

「比良、落ち着けって。あの人は、猫神様のお世話をしている幽霊さんだ」

「……えぇ?」


 比良の声がひっくり返った。比良にとっては情報過多で、きっと頭がパンク寸前だろう。


「だから、猫神様のお世話係。そのへんの説明は、朝飯の時にでもあらためてするから。とにかくもう大丈夫だから、今はワッチに行ったほうが良いんじゃないか?」


 大尉が来てくれたお陰で落ち着いた俺は、比良にそう言って、ヤツの腕時計を指でさした。


「ワッチ! あんなのがたくさん出てくる中をワッチ! とてもじゃないけどできませんよ……艦橋に行くだけで怖すぎじゃないですか、船酔いどころじゃないです!」


 比良の言い分はもっともだ。俺だって、あんなのに追いかけられた直後にワッチに立てと言われても、怖くて艦内を歩けないだろう。


「じゃあ俺が一緒に……」

『波多野さん、あなたは部屋の外をうろうろしてはいけませんよ。今はたまたまここに来ましたが、まだ終わりではありません。次になにかあっても、こちらまで手が回りません』

「次!! 波多野さーん……」

「いやでも、比良が怖がってますし」

『ダメです。その御守が運よく守ってくれたようですが、次も守ってくれるとは限りませんよ?』


 その断固とした口調に、俺はなにも言い返せなかった。


「俺、どうしたら良いんですか……怖すぎです」

『でしたら、艦長と一緒に艦橋まで行きなさい。それなら怖くないでしょう』

「「艦長?!」」


 廊下の向こうから、大友おおとも一佐があらわれた。どうやらこんな中で、艦長は深夜のお散歩中だったらしい。


「なんだ二人とも。こんな時間になにをしているんだ?」

「艦長!」


 腰を抜かしていた比良も、艦長の姿を見てあわてて立ち上がる。


「あ、あの、自分はワッチの時間なので艦橋に行く途中です……!」

「自分はトイレに行って戻ってきたところで……」


 艦長の足元には猫大佐が寄り添っていた。艦長が幽霊に遭遇することなく、艦内で深夜の散歩ができるのは、おそらく大佐のお蔭なんだろう。


『どうやら、よからぬ訪問者と遭遇したらしいな。吾輩わがはいが見えないのに、そっちの連中が見えるとは。やはり修行が足りんな、こやつは』


 大佐は比良の顔を見上げながら言った。


「ワッチの時間か。では私も、散歩の最後に艦橋に顔を出していくとするか。では行こうか、比良海士長?」

「は、はい!」


 比良は、少なくとも艦橋までの道のりを一人で行かなくても良いとわかり、あからさまにホッとした顔をしてみせた。


「では波多野海士長、君も次のワッチに備え、はやく寝るように」

「はい! では失礼して休みます!」


 敬礼をして、部屋に引っこむ。比良には見えないが、艦長の足元には大佐がいるのだ。少なくとも艦橋に行くまでは、もう怪しげな存在とは遭遇はしないだろう。


「先輩、もう大丈夫みたいですよ? 先輩?」


 振り返って三曹に報告しようとして、思わずため息がもれた。口調が平らになるぐらい怖がっていたのに、もういびきをかきながら爆睡している。ベッドまで行ってのぞき込んだ。今度は狸寝入りではなく、本当に爆睡中のようだ。


「なんだよー……結局、一番おっかない経験をしたのは、俺と比良だけじゃないか……薄情だなあ」


 そんなわけで、俺と比良にとっては、教育訓練に入って一番恐ろしい経験をした夜だった。

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