第二十八話 太平洋航海中

 防火訓練と言っても、色々な訓練があった。機関室などで火災が起きたと想定した文字通りの防火訓練から、船底で穴があいた場合、甲板に被弾した場合のダメージコントロールの訓練など、様々な状況を想定して行われる。今回は医官の乗艦しているので、怪我人が出た場合の訓練もあった。


 実際になにか起きた場合、外からの救援が来るまでは、そのすべてを艦内にいる人間だけで、対処しなくてはならない。それもあって、訓練とは言ってもかなり本格的なものだ。


「はー……俺にはできそうにないっすよ」


 いま、行われているのは船底に穴があき、そこから浸水していると想定した中での機関部の修理訓練。ものすごい勢いで吐き出される水を体に受けながら、3分隊の面々がエンジン系統の修理を行っている。そして俺は今、その様子を、艦橋にある艦内モニターで見ていた。


「あれ、場合によっては、その場も水没ですよね?」

「そうだ。今は訓練だが、実際は引き際を見極めながらの作業になる。隔壁の閉鎖をしてしまったら、彼等は逃げられなくなるからな。もちろん、穴が大きければ、そこから艦外に脱出する手もあるが」


 一緒にモニターを見ていた山部やまべ一尉がうなづいた。画面に映っていた隊員が、こちらに向けて手を振る。修理が完了したという合図だ。それを見た機関長の柿本かきもと三佐がストップウォッチを押した。そしてタイムを見て、満足げにうなづく。


「ご苦労さん。新記録だぞ、坂上さかがみ。十秒短縮だ」


 そう言うと、手を振った隊員が親指を立ててみせた。


『今年は手先の器用なのが来たので、ずいぶんと助けられてますよ。ま、こんなふうに水浸しにされるのは、訓練だけにしてほしいですがね』

「ご苦労さん。以上で本日の訓練は終了だ、あがってくれ」

『了解しました』


 モニターのスイッチが切られ、今日の防火訓練が終了した。


 航海図がひろげられた場所に戻る途中、レーダー画面をのぞきこむ。見た限り、タンカーが数隻映っているだけで、特に変わった様子は今のところない。通信にも、緊急事態を知らせるものは、どこからも入ってきていなかった。天気もよく波も穏やか。まさに航海日和だ。


「そうだ、波多野はたの比良ひらの様子はどうなんだ?」


 かじをとっている先輩一曹が、俺に声をかけた。


「まったく問題なしだそうです。調子が悪かったのは、やはり黒潮横断の時だけだったみたいで」

「そうか。そりゃ良かった」

「先輩、そろそろミッドウェーっすよね」


 俺は海図を見ながら何気なく言った。


「ああ、そうだな。慰霊祭の準備を、補給科がしていたはずだ」


 この海域は、太平洋戦争時に日本と米軍との大きな海戦があった場所だ。両軍ともに多くの戦死者を出し、今も、たくさんの戦艦や艦載機が海の底で眠っている。海自の護衛艦がこの海域を通る時は、必ず艦内で洋上慰霊祭をおこなっていた。


「太平洋も南方の海も、そういう場所が多いですよね」

「まあな」

「ハワイ、行っても大丈夫なんすかね」

「大丈夫とは?」

「ですから、ほら、よく聞くじゃないですか、リメンバーなんちゃらって」


 俺がそう言うと、一曹は首をふる。


「ああ、波多野達は今回が初めてなのか。安心しろ、そりゃまあ、相手だって思うところはあるだろうけど、俺達がそれでなにかされた、なんてことは今まで一度もないから」

「そうなんですか。それを聞いて一安心です」

「そういうことも含めての今の日米関係だから。もちろん、軽々しく口にすることは、控えておくのが無難だけどな」


 その言葉にうなづいた。


「了解しました。口はつつしみます」

「つつしむ以前の問題で、英語のほうは大丈夫なのか?」

「あー、いやー、あまり自信ないっす」


 一曹は俺の返事に笑う。


「生きた英語に触れるチャンスだ。これからも他国海軍との交流はあるんだし、これを機会に、しっかり耳と口の訓練もしておけよ?」

「そう言う先輩はどうなんすか、英語」

「実のところ俺もあまり自信がない。演習でも定型文的な会話は理解できるけど、イレギュラーなことが起きると、さすがにパニくるな」


 海自はアメリカ海軍だけではなく、様々な国の海軍と親睦をおこなっている。そこで使われる言葉は、ほとんどの場合が英語だ。他国との演習となると、艦内では日本語だが、相手との会話は当然のことながら英語になる。ちょっとしたことが大事故にもつながりかねないので、他国の軍隊との訓練は、国内での演習以上に神経を使った。


「耳につけただけで、リアルタイムで日本語に変換してくれる装置でもあれば、助かるんですけどねえ……」

「それか手旗か発光信号だけで会話とかな」

「先輩、それ、まぶしすぎて絶対に会話にならないっすよ」

「やっぱりダメかー」


 とにかく今のところ、超小型の同時翻訳機なんて便利なものは存在しない。そんな便利アイテムがあらわれるまでは、頑張って英語の勉強をするしかないようだ。



+++++



『波多野さん、ちょっとお話があります』

「あ、こんばんは、大尉。どうしたんですか?」


 その日の勤務時間を終え、ワッチに備えてひと眠りしようとしていた俺に、珍しく相波あいば大尉から声をかけてきた。部屋に戻る前に声をかけてきたのは、今夜は同室の紀野きの三曹が部屋にいるからだ。


『今夜は新月ですね』

「そうなんです。今夜は視界が悪いので、夜の当直が厄介だって、先輩達が言ってました」

『真っ暗だと、いくら視力の良い波多野さんでも大変でしょう』

「そうなんですよ。視力が良いのと夜目よめがきくのとは、別物ですからね」


 いつもと同じ穏やかな口調だったが、今夜はなんとなく、大尉の雰囲気が違うように感じた。なにがそんなに違うのだろう?と心の中で首をかしげる。


『波多野さんも当直に立つと思いますが、どの時間帯ですか?』

「夜明け前になりますね」

『なるほど。その時間はしかたないですが、今夜はできるだけ、部屋から出ないようにしてください』

「はい?」


 どういうことなんだ?と、今度は実際に首をかしげてしまった。


『この海域はね、たくさんの戦死者が出た場所です。もちろん、もっと多くの戦死者が出ている海域は、他にもたくさんありますが』

「それは聞きました。明日の昼すぎにはその海域に入るので、洋上慰霊祭をおこなうって艦長が」

『ええ、それは私も聞きました。もう随分と時代がすぎたのに、ありがたいことですね』

「で、部屋を出るなというのは……まさか」


 なんとなくイヤな予感がする。


『ええ、出るのですよ。正確にはこのふねに出るというより、海にあらわれて、このふねに乗り込んでこようとすると言ったほうが、正しいかもしれませんね』

「うっわー、ダメです、それ! 聞いただけで、一人ではトイレに行けなくなります!」


 とにかく俺は冗談を抜きに、その手の話がダメだった。


「しかも、乗り込んでくるってなんですか、それ!」

『そのとおりのことなんですよ。しかも新月の夜は、そういう者達の力が強くなる傾向があります。波多野さんは私や大佐が見えますからね。前にも言ったことがあると思いますが、そういう存在には近寄らないのが無難です。今夜は特に』

「トイレ、行きたくなったらどうするんですか……」


 こういう時に限って、変な時間に目が覚めてトイレに行きたくなるのが世の常だ。もうイヤな予感しかせず、腹が痛くなってきた。しかも大尉の口振りからすると、以前の黒い球体のような存在ではなく、今度は正真正銘しょうしんしょうめいの幽霊らしい。


『生理現象はいかんともしがたいので、どうしても我慢できないのであれば、行くしかないですね』

「でも、部屋から出ないほうが良いんですよね?」

『とり憑かれてしまうと、生きている人間にとっては害にしかなりませんからね。最悪、死にますし』

「死ぬって……」


 そして大尉の雰囲気がいつもと違う理由に気がついた。その腰に、いつもはない軍刀がさがっていたのだ。


「あの、相波大尉。なんでそれを、さげているんですか?」


 そう言いながら、軍刀を指でさす。


『ああ、これですか』

「いつもはそんなもの、さげてませんよね?」

『みむろの人達が引きずられたら一大事ですからね。万が一のためのものです』

「引きずられる……」


 つまり、それほど厄介な相手ということだ。ますます一人でトイレに行けなくなってきた。


「あ、あの、すみません、寝る前にトイレに行っておきたいんですが、ついてきてもらって良いですか?!」

『まだ、その海域には入っていないのですが、かまいませんよ』


 幽霊に遭遇するのが怖くて、幽霊の大尉についてきてもらうとは、考えたら妙な話だ。


「あ。あの、うちの艦長、深夜に艦内を散歩しているらしいんですが、それは大丈夫なんですか?」

『もちろん、艦長には大佐が同行することになっていますよ』

「つまり、本当に出るんだ……」


 急に背筋が寒くなる。


『めったなことは起きませんから、あまり気にしないように。そういう後ろ向きな気持ちも、それらを呼び寄せる原因になりますからね』

「いや、もう、気にしないなんて無理です……」


 トイレをさっさとすませて廊下に出た。とにかく背中が強烈にゾワゾワしているので、さっさと部屋で毛布を頭からかぶりたい気分だ。


「ところで出るのって、やっぱり戦死した日本の軍人さんの幽霊なんですか?」

『日本兵もいますが、そうでない者もいますよ。海で死んだ人達には違いありませんが』

「万が一のことって、本当に万が一なんですよね……?」


 念のために聞いておく。起きたらなんの役にも立たないが、心づもりがないよりマシだ。


『そうであってほしいですね』

「あの……自衛できる方法って……」

『そういうことができる人もいますが、少なくともこの艦内にはいないですね』

「ええええ……」


―― い、いや、とにかく、心づもりだけはしておこう、なんの役にも立たないけど! ――


『しかし波多野さん、そんなに怖がっていますが、私も同じ幽霊なんですよ? 私のことは怖くないんですか?』

「そりゃ最初に見た時は驚きましたよ。だけど少なくとも、大尉とはこうやって意思の疎通もできますし、悪い人(?)じゃないのはわかってますし」


 それにお墓参りもして娘さんとも話もした。少なくとも俺の中では見ず知らずの人間よりも、大尉のほうが身近な存在だった。海のど真ん中で遭遇する幽霊とは、比べものにならない存在だ。


『そうですか』


 大尉は、部屋の前までついてきてくれた。


「えーと、大尉は俺よりも経験豊富だから大丈夫だと思いますが、幽霊討伐、気をつけてください」


 俺がそう言うと、大尉はなぜか困った顔をする。


『波多野さん、いくらそれが役目とは言え、私もそのような事態は起きてほしくないのですよ。はらうためにこの刀で彼等をるということは、一度死んだ戦友達の魂を、もう一度殺すようなものですから』

「そんなふうに考えたことありませんでした……気安く討伐なんて言ったりして、すみません」


 大尉の言葉にハッとなった。「幽霊怖い」ばかりが頭にあって、彼等が大尉と同じ時代の人達だということまで、考えが及ばなかったのだ。


『謝る必要はありませんよ。人間の波多野さんと、幽霊の私との感じ方の違いでしょうから。とにかく、できるだけ穏便に成仏させたいと思います。では、あまり出歩かないように。それから、あれこれ悪い方向へ考えをめぐらせないように』

「わかりました。おやすみなさい」

『おやすみなさい。今夜は大佐は部屋に来ないでしょうから、ゆっくり寝られますよ』


 穏やかな笑みを浮かべてそう言うと、相波大尉は帽子のツバに手をやり、そのまま隔壁の向こうへと姿を消した。

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