第二十六話 横須賀 3
「わかっていたけど、重たいな……」
「すみません」
日付が変わる一時間前、俺と
「でもさ、基地の近くの店にあってよ良かったよ、これ」
「それは言えてますね」
ゲートにたどりつくと、警備に立っている隊員に身分証明書を見せる。もちろん、手にしているものがなにかも申告した。
「めちゃくちゃ不審がられてましたね、いま」
歩きながら、通りすぎた詰め所を振り返る比良。
「そりゃ、二人で三十本も炭酸水のペットボトルを持ちこんだら、一体なにに使うんだ?って思われてもしかたないだろ?」
これがアルコール類だったら「ダメ!」で片づくんだろうが、炭酸水 ―― しかも艦長の許可付き ―― となると微妙だ。そのせいか、ゲートで俺達に対応した隊員も、なんとも言えない顔をしていた。
「でも、
「だよなー」
歩いている俺達のちょっと先の茂みに、二つの小さな光るものがあらわれた。
「ん?」
「あ、野良猫みたいですよ」
その光が移動し、近くの
「ほんとだ。どうやって入ってきたんだろうな」
「空自の基地でも、よく野良猫が入り込んでいるみたいだし、意外と自衛隊の敷地には、住みついている野良猫が多いのかもしれませんね」
「見た感じ、食べるものには困ってなさそうだよな」
基地内に住みついていて、基地内の誰かがこっそりエサやりをしているのか、それともどこかに抜け道があって、そこからここにやってくるのか。ブチ柄猫も見るかぎり、高齢そうだが毛並みも良いし、栄養状態は良さそうだ。
「みんな、野良猫にしては丸っこくて、しっかり食べ物は食ってそうだ」
『野良猫とは失敬な』
ブチ柄の猫がいきなりしゃべった。
「わ、こいつ、猫神?!」
「え、猫神様なんですか? でも、僕にも見えてますよ? 声に関しては、ニャーニャー鳴いているだけにしか聞こえませんけど」
『
「比良、
「へえ……あの、さわっても良いですか?」
『かまわんぞ』
「良いってさ」
「わー、嬉しいな。夕方、在原海将と波多野さんの話を聞いて、もう猫をなでたくてしかたなかったんですよ」
「どんだけ猫が好きなんだよー」
比良はうれしそうに猫達の元にいくと、その場にしゃがみこんで猫達をなではじめた。比良が無害な人間だとわかったのか、野良猫達がわらわらと集まってくる。そして自分も撫でてくれと、ニャーニャーと騒ぎ始めた。その様子を見ながら、集まってきた猫達の半分ほどは、普通の野良猫だということに気がつく。
「休職中の猫神様もいれば、本当の野良猫もいるのか」
「なるほど。それで、俺でも触ることができる、猫がいるってわけですね」
『
「へー。うちの猫大佐は海幕にいたって話だったけど、ここにもいるんだな、猫神」
ということは、もしかしたら俺達の所属している基地にもいるのだろうか?
『大佐殿は気まぐれじゃからな』
「つまり、海幕にいるほうが珍しいってことなのか?」
『
「ああ、なるほど」
つまり猫大佐が海幕に居ついたのは、在原海将のことが気に入ったから、なのかもしれない。
「おい、比良。そろそろ行かないと門限に遅れるぞ」
「そうでした」
比良は、名残惜しそうな顔をして立ち上がった。野良猫達はニャーニャーと鳴き声をあげながら、比良を見あげる。
『お前達、この者達は
ブチ柄猫の一声で、猫達が静かになった。
『ではお若いの。ご安航をな』
そう言うと、ブチ柄猫は、猫達を引き連れて、暗闇へと消えていった。
「猫をなでて満足か?」
「めっちゃ満足です!」
俺と比良は、みむろが停泊している場所へと急いだ。
+++++
「はああああ、猫、可愛かったなあ……」
次の日、甲板に出て作業をしながら、比良が幸せそうな顔をしてつぶやいた。昨日の野良猫達とのふれ合いは、猫好きの比良にとって思いのほか、至福の時だったらしい。
「そんなに猫好きとは知らなかったよ」
「今の生活では猫は飼えませんからね。あえて考えないようにしてるんですよ。俺、結婚して家庭をもったら、猫を飼うんです」
その言い草に笑いが込み上げた。
「なんかそれ、フラグっぽいぞ……」
「え、なんです?」
「いや、こっちの話。ところでさ、昨日、なんで
隣でうっとりしたまま、ハケを動かしている比良に声をかけた。
「どうなんでしょう。陸海空のトップとは言え、もともとは海自の海将ですから、猫神様も含めて、海自のことが色々と気になるんじゃないですか? ご本人も護衛艦の艦長をされていたわけですし」
「そんなもんなのか。偉くなったら、そういうことは気にしなくなるんだと思ってた」
「ま、人によるんでしょうけどねー」
だよなあと言いかけたところで、体が体がガクンガクンと左右に揺れた。手に持っていたペンキの缶を落とさないようにと、両手でかかえこむ。
「うおっ、地震か?!」
「こら、お前達。しゃべってないでそこ、ちゃんと塗れ。ここをやると言ったのは、お前達だろ」
見下ろすと、地震より怖い
「あ、ちょっ、
「曹長、ペンキがこぼれますって!」
ガタガタと揺れる
「だったら、無駄話せずにさっさと作業をしろ。まだ塗らなきゃならん場所は、山ほどあるんだからな」
「うぃーっす……」
「なんだ、その気のない返事は。もっとシャキッとしろ、シャキッと」
「うっす!」
「そういうことじゃない」
俺の返事に曹長が顔をしかめた。
「曹長、
比良が先任伍長の名前を出すと、曹長はとたんに黙りこんだ。伊勢曹長と清原曹長の仲が悪いわけではない。だが先任伍長という存在は、そこそこベテラン曹長でもなにげに煙たい存在なのだ。
「お前達がちゃんと作業をしていれば、俺だって口うるさくする必要はないんだ。ほら、ちゃんとやれちゃんと!」
「だから
「おちるーー」
今、俺達がやっている作業は、船体の塗装だった。
海上にいることが多い護衛艦にとって、最大の敵はなんと言っても塩分だ。当然のことながら、護衛艦は金属なので潮風にさらされ続けると
そしてそれを塗るのは俺達の仕事。つまり、塗装も大事な日々の仕事の一つというわけだ。護衛艦での役割分担は、厳格に決められているものが多いが、
「まーったく。伊勢曹長も容赦なくて困るよな……」
曹長がその場を離れたところでぼやいた。
「あ、波多野さん。これ、もしかして、猫神様のものじゃ?」
「ん? ああっ!」
比良が指をさした部分に目をやる。俺達が塗り終えたばかりの場所の横に、猫の足跡がついていた。
「ちょ、これ?!」
視線をあげると、俺の目の前を猫大佐が尻尾をふりながら呑気に歩いている。しかもそのせいで、現在進行形で、足跡が増え続けていた。
「ちょ、大佐!! 足! 足!」
『そんな大声で呼ばなくても、お前の声は
俺の声に、大佐がイヤそうな顔をして振り返る。
「そうじゃなくて! 足! 足! 足跡がついてる! あああ、その場で足踏みするなって! 足跡が増える!」
『だからなんなのだ』
「だから足だって! ペンキ塗りたての場所を歩くな!」
『おお、すまん、うっかりしていた』
限られた人間にしか姿は見えないのに、どうして足跡だけが、こうもはっきりと
大佐がこっちにやってきたので、無理やり足をつかむ。そしてズボンのポケットに押し込んでおいたタオルで、ペンキで汚れた足の裏をふいた。
「姿は俺達にしか見えないのに、なんで足跡だけがしっかり誰にでも見える状態なんだよー」
『昔からそうなのだ。どうしてなのか、
「わからないって、知ってたんなら気をつけてくれよー……てか、比良、なにニヤニヤしながら足跡を見てるんだよ」
嬉しそうな顔をして、足跡を見ている比良に声をかけた。
「え? だって可愛いじゃないですか、猫の足跡って。このままにしておいたらダメですかね。ちょっとした、みむろのワンポイントとして」
「ダメに決まってるだろ。清原曹長にこれが見つかったら、てっぺんに吊るされるぞ、俺達」
そこは間違いない。だが比良は、不服そうな顔をした。
「波多野さんは猫神様が見えるし話せるし、しかも一緒に寝ているからそれで満足できますけど、俺は見えないんですからね。足跡を一つぐらい、残しておいてほしいなあ。だってこれ、この
『
「比良、お前が余計なことを言うから、大佐がその気になっちゃったじゃないか。あ、また! せっかくふいたのに!」
大佐が前足で塗りたての場所をさわり、乾いている場所に足跡をつけた。
「もー、だから増やすなって!」
「猫神様がその気なら良いじゃないですか」
「良いじゃないですかじゃない。ダメダメ」
前足をタオルでもう一度ふく。そしてペンキの入った缶にローラーを突っ込み、足跡を消していく。
「えー、一つぐらい残しましょうよ。俺が見えるのはこれだけなんですから」
「言われたろ? 見えないのは修行が足りないせいだって。だから修行しろ」
「なにをどう修行すれば良いのかさっぱりですよ」
『
それは俺も同感だ。それは猫大佐も同じらしい。
「まずは船酔いの克服。それができたら、もしかしたら見えるようになるんじゃないのか?」
「ああ、なるほど」
「だから、それまではがまん!」
そう言いながら、ローラーで残りの場所も急いで上塗りをする。そんな俺の横で、比良と猫大佐は、心の底から残念そうな顔をしていた。
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