第二部 航海その2

第二十一話 出港

 今日の岸壁には、平日にもかかわらず、たくさんの人達がいた。ここに集まった人達は、今日からハワイに向けて出航する『みむろ』を見送りに来た、乗員達の家族だ。


「あ、海士かいしちゃん、こんにちは!」


 そう言いながら走ってきたのは、山部やまべ一尉のお子さんだ。会うたびに、俺の苗字は波多野はたのだと教えているのに、一向に覚えてもらえず、いつの間にか「かいしちゃん」で定着してしまっていた。このままでは、曹になっても「かいしちゃん」のままな気がする、今日この頃だ。


「こんにちは。あれ? 今日は幼稚園にいかなくてもいいの?」


 俺の質問に、お子さんはニパッと笑った。


「パパのおみおくりするから、やすんだ!」

「あ、なるほど。お見送り、ご苦労さまです」

「はーい!」


 俺の敬礼に、お子さんも敬礼をする。そこへ、山部一尉と奥さんがやってきた。


「航海長の奥様も、お見送り、いつもお疲れ様です」

「我が家はすぐそこだからね。艦長さんや副長さんのところに比べたら、このぐらい大したことないのよ」


 艦長の大友おとも一佐と、副長の藤原ふじわら三佐は単身赴任組だ。このふねの幹部で、家族をつれてこの基地に配属されてきた幹部の最上位が、山部一尉だった。そのせいか、誰に頼まれたわけでもないのに、こういう出発式がある時は、必ずと言って良いほど奥さんが顔を出していた。


「でも今回は、艦長と副長の奥さんも来ているそうだ」

「そうなんですか?」

「ああ」


 一尉が指でさりげなく指した方向に目をやると、そこには艦長と副長が立っていた。そしてその横には、それぞれのご家族の姿があり、式典のために出てきた総監そうかんと歓談している。


「今回は長いからな。それもあって、見送りにいらしたらしい」

「なるほど」

「うらやましいわ、ハワイに行けるなんて」


 奥さんの言葉に、一尉が顔をしかめた。


「別に遊びにいくわけじゃないんだぞ?」

「それはそうだけど、それでもうらやましいわよ。到着する日がわかれば、それに合わせて行くんだけどなー」

「そこは教えてやれないぞ。予定は未定……」

「決定にあらず、でしょ? そんなことわかってます。何年、海自の妻をしてると思ってるの?」


 すました顔の奥さんに、一尉がますます顔をしかめる。


「そろそろ出航式の時間だ。始まる前に、艦長と副長に挨拶してこいよ」


 一尉が腕時計を指でたたき、奥さんを追い立てた。奥さんは笑いながら、お子さんをつれて離れていく。


「そんなことして良いんですか? 少なくとも一ヶ月は会えないのに」

「良いんだよ。それにだ、最近は文明の利器ってやつで、メールも送れるからな」

「あー……」


 それを聞いて、なんとも微妙な気持ちになった。一日に一回きりのメール。しかも機密に係わることを書いていないか、上官に検閲されるという代物しろものだ。


「なんだよ、その顔。いいか? 俺達が若いころなんてな、そんなものすら存在してなかったんだぞ? 出たら戻るまで音信不通。俺達にとっては、今の環境は天国だぞ」

「俺はそんな環境、知らないですからね。今のメール環境が天国なんて、実感のしようがないです」

「まったく、最近の若いヤツは口が達者で困る」


 一尉はそう言って笑うと、俺の頭をグリグリした。


「お? お前のお見送りも来てるじゃないか。式典が始まる前に挨拶してこい」

「え? うちの両親は来てないですよ」

「そうじゃなくて、海曹様達だよ。お前より偉いんだぞ? ちゃんと挨拶しないと失礼だろ」


 一尉の指さした先には、壬生みぶ三曹と警備犬のゴローがいた。人が大勢いるせいで、ゴローがソワソワしているのがここからでもわかる。


「あの、勘違いしないでくださいよ? 俺、壬生海曹と付き合ってるわけじゃないですから」

「そんなのわかってるよ。お前達ときたら、犬が間にいてくれないと、まともに話すらできないんだからなあ、情けない」

「情けないとか言わないでくださいよ」

「ほら、さっさと行ってこい。時間がないぞ」


 乱暴に背中を押され、壬生三曹とゴローがいるところへと小走りで向かう。俺に気がついたゴローが、激しく尻尾をふりはじめた。


「パトロール、ご苦労様です」


 俺より階級が上の二人(?)に敬礼をした。実のところ、余計なことを教えてくれる情報筋によると、年齢も壬生三曹のほうが俺より一つ上らしい。


「パトロールといいますか、ゴローが行きたがったものですから」

「そうなんですか?」


 壬生三曹にそう言われ、ゴローの前でしゃがみこんだ。


「おい、ゴロー、お見送りはうれしいけど、今日はここで走り回ることはできないぞ? もうすぐ出航式だからな」


 その言葉を理解したのか、それまで激しく動いていた尻尾の動きが、ピタリと止まってたれさがった。そして、なんとも言えない情けない顔をして、俺を見つめる。


「ほら、ゴロー。だから言ったでしょ? 今日は来ても、波多野さんとは遊べないよって」

「残念だけど、しばらくは遊んでやれないからな。壬生海曹としっかり訓練にはげめよ?」


 お詫びもかねて、わしわしと頭をなでてやった。ゴローは少しだけ尻尾をふると、クーンと寂しげな声をあげる。


―― う、行きたくなくなってきた…… ――


 家族を置いて出航する先輩達の気持ちが、少しだけわかった気がした。その気持ちをいだいた相手が、基地の警備犬というのが情けない話だが。


「では壬生海曹。『みむろ』はしばらく不在になりますが、その間の基地のことはよろしく頼みます。なーんちゃって。俺達がいなくても、基地の毎日は変わらないですよね」

「少なくともゴローは寂しがりますよ。あ、そうだ。実家の近所の神社で買ってきたんです。一つで『みむろ』一隻をカバーできるとは思えないんですけど、まあ大事なのは気持ちってことで」


 壬生三曹は、ポケットの中から御守袋を出した。そして俺に差し出す。


「波多野さん、みむろ代表で受け取ってください」

「ありがとうございます。あのこれ、艦長に渡さなくて良かったんですか?」


 俺がそう言うと、壬生三曹は慌てた様子で首を横にふった。


「い、いえいえ! 一佐に、私ごときが買ったお守りを渡すなんて、おそれおおくてとてもとても! それは波多野さんが代表として、持っていてください」

「わかりました。じゃあ、責任をもってお預りします」

「お願いします。どうぞ、ご安航を」

「ありがとうございます!」


 そして出航式の時間となり、整列した俺達の前で、総監そうかんが激励の言葉を述べられた。だが俺にとってはその言葉より、壬生三曹の「ご安航を」の言葉と、ゴローの見送りのほうが、ずっと嬉しいものだった。



+++++



『また犬のにおいをさせてきたな、馬鹿者め』


 甲板に鎮座し、全員がふねに乗りこむのを厳しくチェックしていた猫大佐が、俺が乗ってきたところでイヤそうな顔をした。そして鼻をひくひくさせながら、盛大なクシャミをしてみせた。なんともイヤミな猫神様だ。


『におっていませんよ。大佐の気にしすぎです』


 横にいた相波あいば大尉が、いつものようにニコニコしながらそう言った。


『いや、におう。間違いなく、あの犬のにおいだ』

「まったく、うるさいなあ、別ににおったって良いじゃないか。ゴローは海自の警備犬なんだから」


 他の連中に聞こえないように、小さな声で反論する。


『いつまでもそのにおいをさせていたら、承知しないからな』

「はいはい。まったくうるさいんだからな、うちの猫神様は」


 全員が乗りこむと出港準備が始まり、それぞれのグループに艦長からの伝達がおこなわれた。それが終わると、俺はまっすぐ艦橋にあがる。この艦のかじを任されている紀野きの三曹の横で、三曹のサポートをするためだ。


「今回は長い航海になるな。だが、まずは横須賀よこすかまでの航海だ。紀野、よろしくたのむぞ」

「はい」


 山部一尉の言葉に、ここ最近、かじを任されることが多くなった紀野三曹が、気合の入った返事をした。


「波多野もだ。三曹になる前の、最後の長期航海だからな」

「はい!」


 海士長としての教育訓練期間も、後半に入っていた。この教育期間が終わると、俺や他の一般曹候補の海士長達は、三曹に昇任できるかどうか決まる。今のところ、艦長は「全員、特に心配することはないだろ」と呑気なものだが、こればかりは、正式な通達があるまでは気が抜けなかった。


 もやいとタグボートの準備が整った。いよいよ出港だ。艦長が「出港用意」と宣言をすると、ラッパの音が鳴り響く。


『出港用意!!』


 スピーカーを通して、艦内に出港の合図の声が響き渡る。それと同時に、岸壁のとふねをつないでいたもやいが次々と解かれていき、最後にタグボートとふねをつないでいるもやいだけになった。


「今回もありがとう、皆本みなもとさん」


 艦長がマイクに向かってそう言った。相手はもちろん、タグボートの皆本海曹長だ。


『どういたしまして。ハワイでのアメリカさんの試験、無事にパスできるよう祈ってますよ』

「演習に参加するほうが気楽だな」

『まあこれも、みむろ運用のためですから』


 今回の航海の目的地はハワイ。そこで俺達を待っているのは、演習ではなく兵装の運用試験だ。海自の護衛艦に搭載されている兵装のほとんどはアメリカ製。つまりアメリカ軍が試験官となり、搭載されている兵装がきちんと運用されているか、俺達が正しく扱えているかどうかをテストするのだ。


「俺も藤原も、ハワイにたどりつくまでに胃に穴があくかもな」


 この手のことは海自だけではなく、陸海空、それぞれの様々な職種でおこなわれていることだった。だが通常の資格更新と違い、試験官はアメリカ軍。気が重くなる艦長や砲雷長である副長の気持ちも、わからないではなかった。


 そんな艦長の愚痴りに、皆本曹長が笑い声をあげた。


『なにをおっしゃいますやら。アメリカの海軍さんに、海自の技量の高さを見せつけてやってくださいよ。帰国後の報告を楽しみにしています。行ってらっしゃい。お気をつけて』


 艦長が合図を出し、それを船務長の小野おの一尉が下に伝える。その指示で、最後までつながっていたタグボートのもやいがとかれた。もやいの巻き上げが完了すると、機関が本格的に動き出す。


両舷りょうげん前進、微速」

『両舷前進、微速』


 甲板にいた全員が整列をした。そして、岸壁で手を振っている人達に向かって敬礼をする。とは言え、かじとレーダーを任されている俺達は、その列に加わることはできない。


「俺、ちょっと憧れるんですよね、出港時にああやって敬礼するの」


 艦橋の横に出て敬礼をしている、艦長と副長を横目で見ながらぼやいた。


「それをしたいなら、航海科に志願するべきじゃなかったな」

「ですよねー……」


 山部一尉が笑う。猫大佐はいつもの場所に陣取り、尻尾をふりながら、にゃーんと声をあげた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る