第十三話 洋上補給

「……暑い」


 あまりの暑さに目が覚めた。腕にはめたままの時計のデジタル表示を見れば、まだ深夜の三時。


―― あー、まだ三時間は寝られるじゃないか、こんな時間に目が覚めるなんて、もったいないことしたな…… ――


 そんなことを考えながら、もう少し睡眠時間をかせごうと目を閉じた。


 操舵そうだの訓練が始まって数日。山部やまべ一尉と先輩達による指導は厳しく、まったく気が休まるヒマがない。知識があっても経験がともなわなければ意味がないを、ひしひしと実感しているところだ。


 ただ、今は昼間の訓練が多いせいか、少しだけ深夜の当直が少なくなったのがありがたかった。とは言え、夢の中でも操舵そうだ訓練をしていることがあるから、ちゃんと睡眠がとれているのかどうかはよくわからない状態だった。


―― 他のふねではどうなんだろうな。こんなふうに深夜当直が減ったりするんだろうか……? ――


 教育隊にいたころには、そんな話を聞いたことは一度もなかったが、本当のところはどうなんだろう。もしかして、これはみむろだけの伝統なんだろうか?


―― 深夜の当直に立つ日が減るなんて、もしかしてこのふねは、訓練中の隊員に寛大かんだいなのかな。それとも俺と紀野きの三曹の二人が訓練をしてるから、そのための特別措置そち……? ――


 船酔いでしょっちゅう苦しんでいる比良ひらのことも、分隊トップの藤原ふじわら三佐が親身になって面倒をみているようだった。もしかしたらここの幹部が、世話焼きな気質きしつな人達ばかりなのかもしれない。


 そんなことを考えながら、目が覚めた理由のほうに意識が戻る。


―― そうだ、なんでこんなに暑いんだ? ――


 意識があるていど覚醒したところで、首のところに毛布以外のなにかが乗っていることに気がついた。手で触ってみる。モフモフだ。それが首に巻きついていた。


襟巻えりまきかよ……」


 目を開けると、猫大佐が俺の首を抱き枕のようにして眠っていた。猫神様もそのへんは普通の猫と変わらないらしく、体温はかなり高い。この季節に天然の湯たんぽが首に巻きついているのだ、暑くないわけがなかった。


「おーいー……暑いよ、大佐。ちょっと離れてくれよ……」


 上で寝ている紀野三曹を起こさないように、声をひそめながら猫大佐の体を押す。すると灰色の尻尾が腹立たし気に俺の顔と手をたたいた。つまり俺がやっていることが気に食わないらしい。


「なにするんだよ、どけってば、暑いんだからっ」


 目の上でパタパタしている尻尾をはらいのける。すると猫大佐が不機嫌そうな目つきをして顔をあげた。そして大きなあくびをする。


『なんだ、こんな時間にやかましい。吾輩わがはいの睡眠の邪魔をするな』

「そっちこそ俺の睡眠の邪魔をするな」


 そう言って首の上にのしかかっている体を横に押しやった。首のあたりは汗でびっしょりだ。しかも毛がついているらしく、チクチクして気持ちが悪い。猫大佐のことが見えてしまうと、体温や毛の存在まで体感できてしまうのがなんとも厄介だ。


「まったくもー……」


 ベッドからおりて、ロッカーからタオルを引っぱり出した。


「好きな場所で寝られるのに、なんでいつもいつもそこなんだよ。しかも俺の上」


 首をゴシゴシと拭く。普通の猫だったら、ベッドのシーツも毛だらけになっているに違いない。幸いなことに、クシャミがひどくなることもなく目がかゆくなることもないが、そのうち俺が横に立っただけで、クシャミをする人間が出てくるのではないかと今から心配だ。


吾輩わがはい吾輩わがはいの好きな場所で寝る。お前の指図は受けん』


 猫大佐はツンとした顔をすると、俺に背を向けて寝てしまった。


「まったく……困った神様だな。こんな時こそ相波あいば大尉の出番だと思うんだけどなあ……」


 相波大尉は最初の数日以降、この部屋に入ってきたことはない。きっと夜の大佐のお世話係は俺ってことになっているんだろう。そんな取り決めをした覚えはこれっぽっちもないが。


―― ま、四六時中いっしょにいるんだ、夜ぐらいは猫大佐のお世話係から解放されたくなったとしても、しかたないけどさ…… ――


 すっかり大佐の寝床と化してしまった俺のベッド。やれやれと溜め息をつきながら、タオルをロッカーに放りこみベッドに戻る。


「もうちょっとあっち行けって」


 真ん中に陣取っている大佐を押し出すと、自分の場所を確保した。しばらくすると大佐がもそもそとやってきて、俺の肩のところで丸くなる。


「だから暑いっつーのっ」


 人の言うことをまったく聞いていないんだからな、この猫神様は。


「ったく、せめてくっつくのは冬になってからにしてくれよ……あせもができたらどうするんだよ……」


 湯たんぽなみの熱さに溜め息をもう一度つく。


 だが、大佐のゴロゴロと喉を鳴らす音を聞いているうちに眠気がやってきて、いつの間にか俺は眠ってしまった。



+++++



 次の日。朝のブリーフィングで、午後から洋上補給訓練が行われることが正式に通達された。


 たいていの補給は入港時におこなわれる。だが、護衛艦は任務の内容によっては、寄港することなく外洋に出続けなければならないこともあった。そういう時に物資を運んできてくれるのが補給艦だ。今回はその補給艦と、燃料や物資の受け渡しをする訓練をおこなうことになっていた。


「今回の操舵そうだは紀野、お前に任せるからしっかりやれよ」

「はい!」


 山部一尉にそう言われた紀野三曹は、少しだけ緊張した面持ちで返事をした。


 洋上補給は、補給艦と補給を受けるふねが並走しながら物資を受け取ったり給油をする。どうして艦を止めずに走らせたままにするのか? いくつかの理由はあるが、一番の理由は海上ではふねを走らせているほうが船体が安定するからだ。


波多野はたの、今回はお前はかじをとることはさせないが、艦橋に上がって紀野をしっかりナビゲートしろ」

「はい!」


 お互いのふねは、スピードも進路もピッタリとあわせる必要があり、高い操艦そうかん術を要求された。紀野三曹は俺よりも航海士としてのキャリアは長いが、それでもかなり緊張している様子だ。


「ああ、そうだ。波多野、ボースンチェアであっちに行ってみるか? お前、まだ座ったことないんだな?」


 ブリーフィングが終わり、解散したとことろで山部一尉に声をかけられた。


 ボースンチェアとは、洋上補給で人を運ぶために使うもので、簡単に言えばあっちとこっちをロープでつなぎ、その間を宙吊りの椅子で移動させるものだ。


「イヤですよ。俺、紀野海曹の目で忙しいと思います」

「なんだ、冒険心がないヤツだな」

「そういう問題じゃないです。誰か他のヤツに言ってください」


 落下しないように安全策はとられているが、海面からはかなりの高さだ。それにふねふねの間の移動中はけっこう揺れる。正直言って見ているだけでもかなり怖い。


「そうか? 副長、誰かいないですかね。今回の洋上補給訓練で、あれを喜んでやりそうなやつ」


 一尉は前を歩く藤原ふじわら三佐に声をかけた。三佐は立ち止まると首をかしげて考え込む。


「そうだなあ……比良ひらは? やったことないだろ、あいつも」

「ああ、比良。いいですね、それでいきましょう。なにごとも経験です」

「ええええ……」


 あいつは船酔いで薬を飲むぐらいなのに、あんな揺れる椅子に座らされて大丈夫なんだろうか。


「副長、比良は船酔いが……」

「平気だろ」


 あっさりと断言されてしまった。ここの幹部が世話焼きな気質きしつだと思ったのは撤回てっかいする。昨夜のあれは前言撤回ぜんげんてっかい。やはり幹部殿達は容赦がない。


「なんだ、だったらお前が座るか?」


 山部一尉がニヤニヤしながら口をはさんできた。


「ですから自分は、紀野海曹の目をするようにと言われたばかりじゃないですか。それも航海長本人に!」

「だったら比良で決まりだな」

「……」


―― あいつ、気絶しなけりゃ良いんだけどな…… ――



+++



 ランデブー予定の海域に到着すると、前方から補給艦が近づいてくるのが見えた。


「艦長、補給艦のとり、前方より接近中」


 大友おおとも一佐が双眼鏡で前方を見る。


「確認した。紀野、こちらのほうが足が速い。回り込んで、のとり右舷の位置へ」

「了解しました」


 そこからは機関室、そして相手と通信をしながら徐々に距離を縮めていく。その間も、甲板では補給を受ける準備が始まっていた。もちろんその進行状況も、リアルタイムで艦橋に報告が入ってくる。


 入隊したての頃、なにごともいちいち連絡し、確認し合わなくてはならないのは効率的じゃないと思っていた。事実、陸自や空自を経験してから新たに海自に入隊してきた隊員の中には、この海自独特のスタイルになかなか慣れないという者もいた。


 だが、ふねに乗り続けるようになると、その考えは改めざるを得なかった。


 操艦そうかん一つにしても、かじをとる航海士と機関室が、緊密に連絡を取りあいふねを走らせている。そういうやり取りを続けていると、自分を含め一人一人がふねを構成する細胞で、まるでふねが大きな一つの生き物のように思えてくるのだ。


 そして、その細胞の一人としてここに立っていることが、なんともほこらしい。


―― 俺、すっかりふねオタクだよな……完全に毒されてる ――


 思わず顔がにやけてきたので、慌てて表情を引き締めた。


 二隻が並走を始めると、ロープや電話線が二隻の間にわたされる。両方のふねがしっかりとつながったところで、物資の受け渡しの訓練が始まった。


「!!」


 補給品を乗せたパレットが、ロープ伝いにこっちに来るのをながめていると、補給品の上に黒い猫が座っているのが見えた。


―― お、おいおい…… ――


 もちろん生身の猫があんな場所にいるわけがない。つまりあれは、補給艦のとりの猫神様ということだ。猫大佐は、猫神はふねから離れることができないようなことを言っていたが、どうやら離れることが可能な猫神様もいるようだ。


『おお、猫元帥げんすいではないか』


 いつのまにか艦橋に上がってきた猫大佐が、窓際に上がって嬉しそうな声をあげた。


「げ……?」

「? どうした?」

「いえ、なんでもありません!」


 その場にいた通信士の先輩がこっちに視線を向けたので、慌てて口をつぐむ。


―― 猫元帥って! 元帥って軍隊では一番上の階級だろ? なんで補給艦に? 普通ならもっと違うふねに乗ってないか? ――


 たしかに洋上で展開する護衛艦にとって、補給艦は欠かせない存在だ。だからって元帥……どうして補給艦の猫神が元帥?


 そうこうしているうちに、その猫神様は器用にあっちこっちに飛び移り艦橋にやってきた。その黒猫は大佐を見つけて嬉しそうにニャーと鳴く。


『久しいの、灰色の』

『元気そうでなによりだ、元帥』

『お蔭様でな。ネズミもおらんし気楽なものだ』


 そう言うと黒猫はキョロキョロと見回した。


『今日はお前の世話係はおらんのか?』

『あいつは今、下で宙ぶらりんの様子を見守っている』


 下では救命胴衣とヘルメットをかぶった比良が、イスと呼ぶには少しばかり難ありな鉄パイプのイスに座っていた。そしてそのイスが、ロープをつたって二隻の間を移動していく。ここから見ても、かなり揺れているのがわかった。


―― やべえ、かなり揺れてる。比良には申しわけないけど、断って良かった ――


『相変わらず心配性だな、あの男は』

『ここにいる者達は全員が孫のようなものだからな。ああ、それと人間の世話係もできたぞ。そこにいる若いのだ』


 猫大佐の尻尾が俺をさした。黒猫がこっちを見る。


『ほお、海士長か。その階級で吾輩わがはいらが見えるとは、なかなか見どころがあるのではないか?』


 そう言うと、その黒猫はニャッと短く鳴いて笑った。

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