第十二話 甲板掃除

「今日も一日なにごともなく、平穏無事に終わりますように!」


 朝一番、艦橋に上がる前に、いつものように神棚の前で手を合わせた。


 あんな黒いヤツが跳ねながら艦内を逃げ回るのを見たのだ、いくら神様の職種分担があったとしても、艦内神社の神様にもしっかり見守ってもらわなければ安心できない。そう考えて、いつもより念入りにおがんだ。


―― どこかの国がなにか飛ばしてくるより、妖怪や幽霊のことのほうが心配なんてな。でも二度とあんなくさい経験はごめんです、どうか二度と遭遇しませんように! お願いします!! ――


 気合を入れてかしわでを打つと、その場で一礼する。


「よしっ、これで大丈夫! ……多分!」

「おはようございます、波多野はたのさん」


 そこへ比良ひらがあくびをしながらやってきた。


「おはよう。船酔いは大丈夫か?」

「お蔭様で。今日は薬のお世話にならなくても大丈夫そうです」

「そっか。それは良かった。ところで、なんかあっちでざわざわしてるけど、どうしたんだ?」


 俺と比良が話しているあいだも、その横を掃布そうふやバケツを持って隊員達が走っていく。


「あー、あれですか……」


 比良は眠そうな顔をしながら神棚に手を合わせ、一礼してから俺のほうを見た。そして声をひそめる。


「れいの黒い物体の痕跡こんせきが、あっちこっちに残ってたみたいで。清原きよはら先任伍長に見つかる前に掃除しないとって、大騒ぎなんですよ」

「まじか……しかし、なんでいまさらなんだろうな」


 れいの黒い物体騒動から二日、みむろは次の目的地に向けて航海を続けていた。残された痕跡こんせきは、一般公開後の甲板掃除かんぱんそうじ相波あいば大尉の掃除によってあらかた消されたと思っていたが、そうではなかったらしい。


「で、この臨時甲板掃除かんぱんそうじの指揮は誰が?」

伊勢いせ曹長だそうです」

「あー……もうなんて言いながら仕切ってるか、聞かなくてもわかった気がする……」

「ですよね~~」


 比良が同感ですと笑った。俺達も掃除に加わるべく掃除道具を取りに行くと、そこには伊勢曹長が立っていた。まるで武器を手渡すように掃布そうふをそれぞれの隊員に渡している。


「いいか、この汚れはこの甲板掃除かんぱんそうじで完全に殲滅せんめつしろ。一つたりとも逃がすな」

「了解しました!!」

「やっぱりだ……」

「ですねー……」


 曹長の言葉に、敬礼をしながら道具をもって走っていく隊員達。完全にその場の空気が立検隊たちけんたいの訓練だ。


「おはようございます、伊勢曹長。なんだかノリが掃除じゃなくて、立検隊たちけんたいの訓練のような気がするんですが」

「なにか余計なことを言ったか、波多野」

「いいえ! 不届き者の汚れを掃討そうとうしてきます!!」

「よろしい。では行け!」

「はい!!」


 そんなわけで俺達は伊勢曹長の指揮のもと、朝飯もそこそこに、掃除道具を手に艦内を走り回ることになった。


「こんなところにまで汚れが……!」

「おい、ここ、天井に残ってた!」

「高すぎてとどかねぇぇぇ!」

脚立きゃたつもってこい、脚立きゃたつ!」

脚立きゃたつなんてまどろっこしい、誰か俺を肩車かたぐるましろ!」


 天井に点々と残る黒い痕跡こんせきを見つけては、掃布そうふで拭き取る作業をくりかえす。床だけかと思ったら、天井やダクトにも、黒い泥のようなものがこびりついているのが見つかった。


―― どんだけ派手に飛び跳ねてたんだよ、あの黒いヤツ。こりゃ、追いかけていた大佐がクタクタになるのも当然かな…… ――


 猫大佐は、今朝も当分はなにもしたくないと言って、俺のベッドで大の字になって寝ていた。これを見たらなるほどと納得できる。きっと、相波大尉もずっと艦内を走り回っていたんだろうな。


―― 大尉も疲れるだろうなあ…… ――


 幽霊が疲れるのかどうかはわからないが。


「一体なんなんだよ、これー……」

「噂の黒いボールの幽霊の血かなにかじゃね?」

「うっわー、やめろよ、そういう話ー!」


 そんなことを知らない連中は、あっちこっちにこびりついた泥を気味悪そうに見つめていた。


「とにかく一つ残らず拭き取るようにって指示だから。あと残ってる場所はどこだっけ?」

「うわー、いつのまにかトイレのフタにまで! これ、増えてないか?」

「まさかそれ、幽霊じゃなくて新手あらてのカビとか?!」


 猫大佐も相波大尉もなにも言わなかったが、こんなふうに誰にでも見える状態の痕跡こんせきが残っているということは、俺達が気がつかなかっただけであの日、このふねはかなりやばい状態だったのではないかと思った。


―― 人間に被害が出なくて良かったよな……ま、掃除の手間が増えて、こっちはこっちで大変だけど ――


 そして掃除が終わる頃には、艦長の武勇伝がますます真実味を帯びた形で広がっていた。


 艦長の深夜のお散歩は、きっと目に見えない敵と戦っているに違いないとかなんとかこんとか。黒いヤツを追い出したのは猫大佐と大尉だというのに、まったく困ったことだ。



+++



 八時にいつものように自衛艦旗が掲揚けいようされた後、甲板で潮風しおかぜにあたっているらしい相波大尉の姿を見かけた。猫大佐の姿は見えないから、きっとまだ俺のベッドで寝ているのだろう。


 海の様子をながめるふりをしながら、そっと大尉に声をかけた。


「おはようございます、相波大尉」

『おはようございます。大佐は、今朝の自衛艦旗の掲揚けいようには顔を出さなかったですね』

「俺が部屋を出てきた時は、まだ大の字になって寝てましたよ。だから今もそうなんだと思います」


 その姿には神様の威厳なんて微塵みじんも感じられなかった。あれで本当に神様なんだよな?


『朝からなにやら騒がしかったようですが?』

「ああ、あれですか。れいの黒いヤツの汚れがまだ残ってたみたいで。先任伍長に見つかる前にって、大騒ぎだったんですよ」


 俺がそう言うと、大尉は申し訳なさそうな顔をした。


『それは申し訳ないことをしました。気にはかけていたのですが、やはり見えるものが残っていましたか』

「大尉のせいじゃないです。一人で広い艦内の掃除なんて、一日や二日ではできないですから。どうせ大佐は手伝わないんでしょ?」


 その指摘に大尉はおかしそうに笑う。


『まあ〝猫の手も借りたい〟とはよく言いますが、あまり役立ちませんからね、それがたとえ猫神様の手だったとしても』

「なるほど」

『さて。そろそろ皆さんは業務時間ですね。私も艦内を見回ってくることにします。念には念をいれておかないとね』


 そう言って、相波大尉は帽子のツバに手をやってニッコリ微笑むと、壁を通り抜けて艦内へと消えていった。


「言っちゃなんだけど、こういう移動手段だけはうらやましいよな……」



+++



 艦橋に上がると、なぜか山部やまべ一尉がニヤニヤしながら振り返った。


「おう、来たな」

「おはようございます」

「おはようさん」


 もしかして遅れたか?と腕時計を見る。だが集合時間の十五分前だ。


「あの、呼び出しがあったのを、自分が聞き逃していましたか?」


 艦内放送を聞き逃すなんてことはないとは思いたいが、万が一ということもある。艦橋には大友おおとも艦長と藤原ふじわら副長、そして船務長の小野おの一尉も顔をそろえていた。もしかしたらなにか重要な話でもあったのだろうか。


「いや。遅刻してるわけじゃないから安心しろ」

「なら良いのですが」

「そう言えば、朝から臨時の甲板掃除かんぱんそうじがあったんだってな」

「え……いやまあ、平穏無事な航海中なので、全員の元気があり余ってるんですよ、きっと」

「掃除ぐらいで発散できるとは思えないがなあ。ま、そういうことにしておくか」


 山部一尉がそう言うと、なぜかその場にいた艦長達が、意味深な笑みを浮かべお互いに視線をかわした。


「あの……?」


 艦橋内のなんともいえないおかしな空気に落ち着かなくなる。


「ん? ああ、そうだ。波多野、お前、訓練期間が終わったらもちろん曹になるんだよな?」


 航海長からまったく関係のない話題をふられて、素で「は?」と言いそうになった。


「……なれるかどうか、この後の選考次第だと思いますが」

「でもなるんだろ?」

「そりゃまあ。せっかくここまで来たんですから、幹部になれないまでも曹になって、海上自衛官人生はまっとうしたいです」

「なんだ、幹部はイヤか? 曹からなら内部選考で幹部の道もひらけるだろ」


 俺の答えに、艦長が口をはさんできた。


「自分はまだ海士長の身ですから、そこまで考えてないです。まずは無事に訓練を終えて、三曹になることが目標なので」


 とは言え、曹クラスの先輩からは色々と聞いていた。内部選考での幹部昇任は、給料は上がるが気苦労はそれ以上に増える。海自の仕事が好きで任務に集中したいのなら、受けないほうが身のためだと。それがどこまで真実なのかは今の自分にはわからないが。


「なんだ、こころざしが低いなあ」

「あまり先のほうばかり見ていると、足元の石ころに気づかず転ぶから気をつけろと、祖父から言われていますので」

「なるほど、お爺さんの言い分はもっともだな」


 副長がうなづいた。


「じゃあ内部選考のことは横に置いておくか。それでだ、波多野。俺達で話し合ったんだが、今日から紀野きのと組んで操艦そうかんの訓練に入れ」

「は?」


 いきなりのことで頭の中が真白になった。


「航海科なんだ、操艦そうかんを任されるのは当然のことだろうが。まさか海図とレーダーをながめていれば満足だ、なんて言わないだろうな?」

「いえ、そりゃ操艦そうかんは航海科の任務だとはわかってますし、その訓練はいつからなのかなとは思ってましたが……」


 だが、俺は海図やレーダーを見ているほうが好きだ。いや、それを見ているほうが幸せでいられる。だから今日まで、別にこのふねかじを任されなくても良いと思っていた。


「たしかにお前はナビゲーターとしては優秀だ。海図の読みも早いし判断も的確だ。気象の読みはまだまだ紀野にはおよばないがな。だが、その点をふまえたうえで、将来的にはお前達二人に、このふね操艦そうかんを任せたいと我々は考えた」

「我々……」

「そうだ、我々だ」


 つまり目の前にいる艦長を始めとする、このふねの上級幹部ということだ。


「というわけで、訓練を今日から始める。今までは俺や先輩達の技術を盗めと言ってきたが、それはこの時点で終了だ。今日からは操艦技術をしっかりと叩き込んでいくつもりだから、心して訓練にのぞむように」


 いきなりのことに呆然と立ち尽くしてしまった。


「返事は?」

「あ、は、はい、よろしくお願いします!」


 姿勢を正して敬礼をする。


 そんな俺の足元を、尻尾をピンと立てた猫大佐がすり抜けていった。大佐は艦長席の前にあるスペースに飛び乗って、こっちを見てなぜか偉そうな顔をしてニャーンと鳴いた。


 そしてその鳴き声に合せるように、艦長を始め幹部全員がニヤッと笑ったような気がしたのは、俺の気のせいだろうか?






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・掃布(そうふ) …… モップのことです 

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