第94話
黒石の体調が悪そうだったので休憩させるために連れて来た。
俺がそう一言説明すると村間先生の切り替えは早かった。
本当は言いたいことや納得できないことがあっただろう。
二手に分かれる際の険悪な雰囲気がそれを証明している。
しかし、生徒の具合が悪いとなれば話がべつだ。俺が不仲の女子生徒を庇ったことに不満を持ちながらも口にすることはない。
蒸留した水を黒石、香川、大原の順に手渡していく村間先生。
彼女たちの反応は様々だった。
「…………ありがとう——ございます」
と黒石。どことなく『棘』が感じられない。ずいぶんしおらしく見える。
「ねえ、これ飲んで大丈夫なわけ?」
今度は香川。訝しげな視線で俺を睨みつけてくる。その言動に村間先生から「むっ」と黒いオーラが発せられていた。ステイでお願いしますよ、と内心で祈りながら俺は説明することにした。
「化学で蒸留って聞いたことはないか香川?」
「あんたには聞いてねえっつうの」
ははっ。この当たりの強さ。相変わらずだな。前回の俺ならきっとメンタルがやられそうになっていたことだろう。
けれど、今は可愛いとさえ思えてしまうから不思議なもんだ。俺も大人になったということだろうか。
「まあ、そう言わず聞いてくれ。ちゃんと安全な水だって説明してやるからさ」
ニヤけてしまいそうになる口をグッと我慢して俺は簡潔に説明できるよう脳内で情報を整理していく。
理沙はその……失礼を承知で言えば肉体派だからな。頭を使う方はあまり得意じゃない。
鍾乳洞に閉じ込められておきながら、ハイパーベンチレーションで難を逃れられるなんて誰が想像できるんだよ。
ダメだ。過去を思いだしたら今度は泣きそうになってきた。笑顔から泣きだすとか情緒が不安定すぎるだろ。
なんにせよ黒石が応じてくれたおかげで一つ大きな収穫ができた。
理沙には前回の記憶がない。言動が自然すぎる。どう考えても元の彼女のそれだ。
これが演技なら大女優になれるだろう。
となると問題はやはり大原。こいつだ。
「海水は水と食塩の混合物ってのはさすがに分かるだろ? 蒸留ってのは溶液、食塩水から液体の水を分離する方法なんだよ。なんなら装置の仕組みについても説明しようか」
「……チッ」
嫌味にどこ吹く風の俺に調子が狂っているんだろう。香川は助け舟を求めるように大原へと視線が移る。
さあ、来たぞ。
大原は村間先生から受け取った水を三人の中でも特に警戒し、当然ながら未だ口にしていない。
なにせ同級生に雨水を飲ませながら自分は吐き出すような悪魔だ。
「…………蒸留装置を見せていただいてもよろしいでしょうか?」
大原が遠慮がちに視線を向けてくる。
その猫を被った——いや、人の皮を被ったような言動に今すぐ殴りかかってやりたい衝動に駆られる。
落ち着け……! 怒りに支配されるな田村ハジメ!
俺と同じように記憶があった場合、彼女は間違いなくこの
まずは漂流者の記憶の確認からだろうか。
そうなると俺が取り乱すことは愚行。ましてここで怒りに任せて襲いかかってもみろ。
俺は陰キャのぼっちから『危ないヤツ』だと認識され、大原から香川を引き剥がすことがますます困難になる。
落ち着け……怒りを鎮めろ。
頭に登った血液を全身に行き渡るように呼吸を深くする。
向こうには鈴木先生を始め、監視の目が多い。そう簡単に動ける環境でもない。
期待し過ぎるのは禁物だが、記憶を保持していない可能性だってある。
俺はこのとき初めて表情筋だけで笑みを作ってみせ、こう告げた。
「ああ、気が済むまで見てくれ」
「ありがとうございます」
ゆっくりと立ち上がりパンパンっとスカートを払う大原は蒸留装置の方へと向かう。
俺は彼女を視界の端に捉えつつ、黒石の体調を確認する。
「黒石。俺を嫌悪していることは知っているが、できればこれからする質問は真摯に答えて欲しい」
「はぁ? なんで司がボッチのあんたなんかに答えなくちゃなんないわけ?」
敵意の視線を向ける香川と疑惑が入り混じった視線の黒石。
俺は彼女たちから視線を逸らすことなく、堂々と打ち明けることにした。
「俺は医者を目指しているんだよ。だから知識だけはそれなりだと自負している。蒸留装置もその一つだ」
「なに? 医者の真似事をしたいわけ?」
「俺はただの学生だ。香川の言う通り、そう思われても仕方がない。けどこれから俺たちは望む望まないに拘らず、この島で生活を強いられる。まして気軽に病院へ行けない身だ。たとえ真似事だと思われても俺は後悔をしたくない。知恵を貸してやれるなら貸すし、男手が必要なら協力もする。もちろん見返りも求めない。自己満足のためだと思ってくれ」
「あんたさっきから何カッコつけてんの? マジ寒いよ」
香川の反応は予想通り。これはもう仕方がない。彼女との友情はまた違う形で築けばいい。
「私は——」
言葉に詰まる黒石は複雑な表情だ。俺の知っている素の彼女とは違う。どこか躊躇いが感じられる。
「——正直に答えて大丈夫だと思いますよ司ちゃん」
「ちょっ、結衣⁉︎」
蒸留装置の観察を終えたのか。ゆっくりとした足取りで黒石たちの元に戻る大原。
「蒸留装置は本物でした。知識があるというのも本当のことでしょう」
「いやいやいや⁉︎ 結衣までどうしちゃったのよ? 司だって、なんかおかしいし」
「落ち着いてください理沙ちゃん。田村くんの言うとおり、私たちは気軽に医療を受けられない立場です。そんななか、医学に知識がある人が近くにいてくれることは心強いと思いませんか?」
「それはそうかもしれないけど……」
大原、お前一体何を考えて——。
こいつは俺の知識を凌駕する頭脳の持ち主だ。きっと黒石の不調についてもそれなりに察しているはず。
仮に大原が記憶を失くしていたとしたら。
この言動はそれなりに説明がいく。
おそらく俺の持つ医学の知識が本物かどうか、利用できそうな人物かどうか見極めるための発言だろう。
もしも、ここで俺が的外れな診療をすれば、彼女の俺に対する評価が下方修正されるというわけだ。
…………もしかしてこの島で香川へ復讐することを断念しかけている、のか?
大原の立場で考えてみても、今回は邪魔者が多い。殺人を犯すにはあまりにもリスクが大きい。
彼女ほどの切れ者なら、ここで俺側につくという大胆な方針転換が頭に過っていても不思議じゃない。
いや、いくらなんでもそれは楽観視し過ぎか。
「…………私は何を答えればいいのよ?」
「司⁉︎」
信じられないとでも言いたげな香川の反応。一方で、大原は目を細めて何かを思案しているように見える。
「勘違いしないで。他意はないわ。症状についてわかることがあるなら聞いておきたいだけよ。で、何が聞きたいのかしら?」
目チカラのある視線で見つめてくる黒石。
大原の目論見は読めないが、ここは素直に確認しておくのが吉だろう。
「もう一度症状を聞かせてくれ。立ちくらみがしたように見えたんだが……」
「ええ。そのとおりよ。胸が気持ち悪くて吐き気もね。ただ——」
黒石の視線が明らかに泳ぐ。言ってしまってもいいものか。そんな逡巡。
俺が「ただ?」と聞き返すと、沈黙の後、
彼女は重たい口を開いた。
「——その、信じられないかもしれないのだけれど——」
誇張することなくこの場にいる全員が黒石の言葉を待っていた。
大原はと言えば俺が注意深く観察していることを把握した上で、俺を泳がせているような気がした。
考えることが多すぎてパンクしてしまいそうだ。
だが、黒石の次の言葉は俺の思考を一瞬停止させるほどの衝撃的なものだった。
「——この島に初めて来た気がしないのよ。断片的な記憶や感情がいきなり溢れてきて……それで立っていられなくなったの。もしかして悪い病気かしら?」
心配そうな視線で見つめてくる黒石に俺は平静を装いつつ、内心で歓喜する。
と同時に焦燥と恐怖を覚えた。
記憶が戻ろうとしている——⁉︎
それ自体は良い。俺にとってもこれ以上嬉しいことはない。
だが、不安要素もデカ過ぎる。
だって、それは——村間先生や香川の記憶が戻るかもしれない吉報であるのと同時に。
大原や上村、中村たちの記憶が戻るかもしれないという凶報でもあったからだ。
ここに来て確信する。
これは俺だけが有利なやり直しなんかじゃない。
むしろ——。
——前回以上に厄介なサバイバル生活だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます