第89話
「あの……村間先生?」
「なに田村くん?」
「いや、あの……なにをしているんですか?」
俺が瞑想していると背中にずっしりとした重みが加わる。結構な重量にも拘らず、材質はとても柔い。俺はこの感触の正体を知っているが――やはり慣れない。
「柔らかいでしょ?」
「セクハラですよ」
「あっ。田村くんのいけず! 『当ててんのよ』は男の子の夢じゃない。それを嫌そうにするとはなにごとか」
「いやいやいや! 教師という立場を忘れてないでくださいってば!」
そう。村間先生は俺が座禅を組んで集中しているにも拘らず、胸を押し当てて顔を覗いてきたのである。
俺だって男。凶悪な果実が肩に乗った状態で煩悩を滅却し、深い思考の海に潜ることはできない。
「甘いわね。私、村間加代は教師である前に一人の女よ! 田村くん限定でね」
「なんでですか⁉︎」
「……もしかして膝枕の方が良かった?」
「どっちも結構ですよ!」
あーもうクソッ! こっちは集中して今後の方針を決定しないといけないってのに! この人は本当に能天気――、
「ふふっ、よかった」
「えっ?」
俺が呆れていると村間先生は笑みを漏らした。
「だって、さっきからすごく怖い顔してるんだもん」
そう言われてハッと意識を引き締める俺。
無意識に視線が拾ってきた姿見(破片)へと向く。そこに映っていたのは人を殺めることさえ覚悟できているような――
そうか。俺はずっとこんな強ばった表情で村間先生と接していたのか。
俺は反省する。それも猛省の部類だ。
たしかに俺の身には物理法則ではとうてい説明のできない不思議な現象が起きている。
上村と中村の復活、大原とのリスタート、未知なる存在。考えなければいけないことは山のようにある。
一周目の結末を知っているだけに身構え、感情が黒く染まり、それが顔に出てしまっていた。これでは俺が胸に何かを抱えていることが丸わかりだ。
村間先生の子どものような言動は空気を読んで、俺を緊張から解き放つものだったことを思い出す。
ああ、本当にこの人には敵わない。そして今度こそ失いたくないと改めて強く感じた。
守りたい。この人だけは絶対に――。
「ほら、また怖い顔してるよ?」
そう言って俺の手を優しく握ってくる村間先生。
「田村くんが優しい男の子だってことは理解しているつもり。だって船が沈没しているのに生徒のために命を懸けられるお人好しなんだから。それに頭もよく回るから私のために色々と考えてくれているんだと思う」
手から伝わる体温から彼女の優しさが流れ込んでくる。まるで俺を極悪人に染まらないように。
突然のことに言葉が出ない俺に彼女は続けた。
「無人島に漂着して不安になるのはわかるし――こんなこと言っても逆に神経を逆立てしちゃうかもしれないけど、私が田村くんを守ってあげる。だから一人で抱え込まないでね。溜め込まないで相談して欲しいの」
「――先生」
「ん?」
「どうして貴女は俺の味方をしてくれるんですか? 先生とはそんなに接点がなかったと思うんですけど」
「あっ、ひっどーい! 加代たんスネました。スネちゃまです。激おこ」
「スネちゃまって……」
「正直に告白すると女の勘よ」
「女の勘……」
「こう見えて私、男を見る目があるの。お付き合いには発展したことは一度もないけど」
「反応に困りますよ」
「田村くんが立候補してくれてもいいのよ?」
「それは――(未だ)遠慮しておきます」
「ひどい! まあ、それはそれとして、無人島に漂着できることなんて人生でも滅多にないんだしさ。せめて二人きりのときは怖い顔してないで楽しくやりましょ。そのために私も頑張るからさ」
どうやら思考も感情も黒く染まり過ぎていたようだった。それも村間先生にはお見通しだったのだろう。もちろん油断はしない。
獣と化す上村。熊に食い殺された中村。二人の黒石への性的暴行。大原という超特大の爆弾。頭は常に回転させておく必要がある。
だが、同時に村間先生と過ごしているときだけは年相応の田村ハジメとして接したいことも事実で。
なにより彼女のことを不安にさせたり、気を遣わせたりするのは本望じゃなかった。
俺のチカラ不足で命を失わせてしまった。もうあんな痛い思いをさせるのもするのもご免だ。
この瞬間俺は初めて――。
表層意識(人格)――村間先生と一緒に過ごしているときだけ現れる素の自分と。
深層意識(人格)――大切な女性を守るためなら真っ赤な嘘と血に染まることも、感情や思考はもちろんのこと、手を真っ黒にすることも厭わない意識を同時にできるようになった。
諜報員は機密事項を拷問などで吐かないように特殊な特訓を経てできるようになるらしい。薬や暴力などによる脅迫は表層意識に対して行われるため、絶対に情報を漏らさないのだとか。
それを特別な訓練もなくできてしまえている自分に苦笑するしかなかった。
きっとそれだけのことが俺の身に起きているということなのだろう。
☆
「すごい! なにこれ!」
完成したそれを見つめる村間先生の目がキラキラと輝いていた。俺がこのサバイバル生活で次々に知識や知恵を見せびらかせたくなる純粋な反応だ。この人に笑って欲しい、楽しん欲しい、褒めて欲しい。嘘偽りなくそう思う。
「蒸留装置を作ってみました」
「蒸留装置……?」
おそらくだが無人島生活は長期戦にもつれ込むだろう。雨が降ることがわかっている以上、水の確保も問題ない。
ただ、いつでも水が飲むことができる装置の有無で安心感が桁違いだろう。
蒸留とは蒸発と凝縮により沸点の異なる成分を抽出する装置だ。
作り方は意外と簡単だった。まず数十ℓの缶容器を拾ってくる。缶に海水を入れ、中央の底にコップか何かを設置する。缶容器の上にも鍋を乗せて密閉させることであとは加熱するだけだ。海水が熱せられて水蒸気となり、鍋の底で冷えたそれが鍋伝えで滴となりコップに落ちていくという仕組みだ。
ただし、確保できる水の量はそこまで期待できない。だが、海水から真水ができるという事実――それが目の前にあるという安心感は何者にも変えがたい精神安定剤となる。
雨だけでに頼られなくてもいいというのは心の余裕を生む。また、何もすることがないときにも時間潰しにもなるだろう。
もちろん一周目同様雨水を利用するための仕掛け作りも忘れない。
そう。簡易式雨水集水システムだ。
「……へえ。本当に物知り。でも水を口にするのも一苦労だね。沸騰消毒までいないといけないなんて」
ろ過装置の作り方を口頭で伝えつつ、蒸留装置を作成した目的はもう一つある。
村間先生にこの場にいてもらうためだ。
ことが動くとすれば深夜だ。上村と中村による強姦未遂と熊の襲撃事件。何かが変わる予感がする。
俺は表層意識で村間先生と会話をしながら、もう一つの意識で今後の方針を固めていくのであった。
☆
まさかこのときすでに一人の人間が殺されていることなど夢にも思わず。
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