第80話
意識が戻った俺は身体がやけに重たく、熱を帯びていることに気がつく。
……まさかあの世に旅立つ前に意識が戻った? 勘弁してくれ。逝くなら楽に生かしてくれよ。
ゆっくりと身体を起き上がろうとしたところでようやく重みと熱の原因が発覚した。
俺の上に上半身裸の香川が乗っている。
……ん? はだか?
「えっ、ちょっ、はっ?」
わけがわからない俺の口から素っ頓狂な声が漏れる。
やがて香川は意識が戻った俺に視認したのか、目をこすりながら勢いよく抱きついてきた。むにゅう〜と柔らか過ぎる乳房が俺の胸の中で歪む。
「目が覚めたんだ……よかった……よかった……!」
ブラジャーさえも外しているせいで、刺激的な先端の感触まで伝わってくる。
それと同時に流れ込んでくる香川の体温と早い鼓動。「うっ、うっ……」と涙を流すことで起こる横隔膜の痙攣。
人間は自分よりも激しい感情を目にしたとき冷静になることができると言われている。
俺は泣きじゃくる香川の頭にそっと手を置いて口を開く。
「心配かけて悪かったな……それともう一つ。ありがとう」
俺に抱きつくことで顔を見られないようにしていた香川をよそに、周囲を見渡してみた。
そこには必死に俺のことを看病してくれたであろう残骸が広がっていた。
火をくべる木材は大量に集められており、俺が眠りについている間も可能なかぎり熱源を確保してくれていたんだろう。周囲には脱水症を防止するために沸騰消毒されたであろう飲み水。さらには俺の汗を拭ってくれたんだろう。湿った布がすぐ近くに置かれていた。
そして脱ぎ捨てられたブラジャー。きっと俺は眠りにつく中、寒さを訴えていたに違いない。
彼女は脳みそを絞って体温で温めることを閃いた。嫌いであるはずの男の上に跨ってまで暖を取ろうとしてくれた。
その心遣いが本当に嬉しい。思いやりこそが俺を一番温めてくれた。
なにより彼女は俺の遺言「思考を停止させるな」を守ろうとしてくれたことがすぐにわかった。俺を助けるため――最後まで諦めずにできうる行動を取ってくれたはずだ。
ちゃんと俺の言葉に耳を貸してくれたことにも感謝の念が絶えない。
「しん、ぱいしたんだから。あーしのせいで、あーしを庇ったせいで死んじゃうじゃないかって……」
「悪かった」
「悪いで済んだら警察はいらないつうの!」
絶えず激しく上下する横隔膜。本当に心配してくれてたんだな……。
俺は恐る恐る噛まれた足に視線を向けてみる。まさしく感動の再会をこうして果たすことができたわけだが、一時的に意識が戻っただけなら手放しで喜べるものじゃない。
意識がはっきりしているうちに次の対策に移るべきだ。
頼む神様……! せめて香川をここから脱出するまでの間は身体を保たせてやってくれないか。もしもここで意識をまた失ってしまったら、それだけが気残りなんだよ。
この島に漂流してから何度目かになる神頼み。目を細めて噛まれた跡を確認すると。
傷口は紫に変色し、膨れ上がって――いなかった。
それすなわち猛毒を持ったウミヘビじゃなかったことを意味する。
「なっ、ちょっ、なに田村……っ! こんな場所でするわけないでしょ。ダメだって……あっ!」
気が付けば俺は香川を抱きしめるチカラが強くなっていた。彼女の口から漏れる息が熱を帯びる。
「香川……約束する」
「やくそくって……んっ。何をよ?」
「必ずここから生きて帰らせてやる。かならず、だ」
「――死にかけてたくせに」
言葉こそ悪かったがそこに侮蔑は含まれていなかった。少なくとも俺にはそう感じた。
憎まれ口を叩かれるくらいには俺たちの間に友情のような絆が生まれたはずだ。ここから彼女は立派な戦友だ。
――ぐううううっ!
空腹を知らせる音。発生主は俺ではなく香川だった。
「「……」」
気まずい空気が流れる。
「おい「うっさい! 元はと言えばあんたが悪いんでしょうが! こっちは一晩中看病してんのよ? そりゃお腹の一つや二つぐらい減るわよ!」」
とのことだった。
なんというか自然と吹き出してしまいそうになる。彼女にもこういう一面があったこと、そしてそれを俺に見せてくれるようになったことが嬉しかったのかもしれない。
「ぷっ、ふふ……」
「ちょっ、なに笑ってんの! あーしは――」
キャンキャン言い訳をする香川をよそに俺の視界の端でぴょんっと何かが跳ねる。
目を細め凝視すればそれは蛙だった。
「なあ香川知ってるか?」
「はぁ? あんた人の話聞いて――」
「カエルって食べられるんだぜ?」
「えっ?」
香川の横隔膜の動きが停止した。
☆
村間加代
司ちゃんが拘束された手錠を外すため周囲を見渡す私。
見れば彼女のすぐ近くにいくつもの鍵が。
「……せっ、せせせ、せん、せ、い?」
「もう大丈夫よ司ちゃん。すぐに拘束を解いてあげる。ここから一緒に出ましょう?」
「――はっ、はは、はじ、はじめは?」
こんな目にあっているのに目が覚めた第一声がハジメくんの安否の確認。容姿も整っている上にスタイルも良くて、さらにはハジメくんの同級生。嫌な恋敵を持ったものね私も。
けれど司ちゃんはもう私にとってもただの生徒――ましてやライバルなんかじゃなくて。戦友だ。私にとっても、ハジメくんにとっても欠かせない大切な存在。
たとえ命に代えてもここから救出してみせる。
――バンッ! バンッ!
突然、何かが弾けたような音が私の耳を拾った。その正体が気にならないわけがないのだけれど、私は鍵を掴み、一つずつはめていく。何本ものそれを試してようやく錠を落とす私。
憔悴した司ちゃんに肩を貸して光の指す方へ顔を上げた次の瞬間、
「こんにちわ。村間先生。お久しぶりです」
私はどうやらハジメくんの前に立ちはだかる強敵と対峙する運命にあるようね。
そこには大原さん、いいえ、大原結衣が拳銃を構えてこちらに向けていた。
私は瞼の裏でハジメくんの顔を思い出して自分を鼓舞する。
彼女はハジメくんを翻弄し続けてきたもう一人の天才。
私のような凡人が相手にできるような人間じゃない。それでも――女にだって負けられない戦いの一つや二つぐらいあるのよ。
「ご機嫌麗しゅう大原さん。私に――いえ、私たちに何か用かしら」
私は精一杯強がって彼女を睨み返した。
☆
大原結衣
ある日。
森の中。
クマさんに。
出会った。
なんて鼻歌を漏らしながら司ちゃんを監禁した鍾乳洞に向かいます。
可愛い歌をチョイスしたのには理由がありました。結衣ちゃんはイライラしてました。女芸人風に言えば結衣、イライラする! でしょうか。つまらないギャグですね。
怒りという感情は人間の知能指数を著しく下げることが実証されています。
それをさも楽しいとばかりに振る舞うことで打ち消そうとしているのです。
自分は幸運、楽しい、そう思い込み言動に出すことで本当にその感情が遅れてやってくるようです。これも証明されていて、私がする感情整理術の一つです。
けれど、先に引き寄せたのは楽しいという感情ではなく、歌詞の方――すなわちクマさんでした。
さすがの結衣ちゃんも「チッ」と舌打ちが漏れます。
私がイラ立っている理由は自分でも意外だったのですが、復讐こそ果たしたものの満たされていなかったからです。気が付けば私は田村くんが生き延びていることを期待していました。
おそらくいずれは田村くんたちは生き延びている――という都合の良い現実を思い込むような記憶改竄されることでしょう。
私が気が荒れているクマさんを視認してすぐに八つ当たりすることを決めました。向こうも動転しています。なんでしょうかアレは。顔面のあたりが妙に赤いですね。出血……いや、違います。そう言えば田村くんが理沙ちゃんを救出する前、村間先生に水鉄砲を持たせていました。
結衣ちゃんは一休のように可愛く指で頭を回します。ぽくぽくぽくちーん。
……あーあ、なるほど。野生種の唐辛子、ですか。
見たところ周囲に村間先生がくたばっている様子はありませんし、時間から考えてもそろそろここに辿り着いていてもいい頃です。
死体が見当たらないこと、熊の顔面に赤い液体――ここから推測するに村間先生は熊という脅威を見事退けたようですね。
素晴らしい。本当に素晴らしい。もちろん田村くんあっての功績でしょう。
私は濡れていました。
やっぱり私は田村くんが欲しい。写輪眼に魅せられた三忍のような気持ちです。
田村くんは死んだ? いやいや、鍾乳洞を爆破して閉じ込めたぐらいで死ぬような弾じゃありませんよ、あれは。死んでない、死んでない、生きている、生きている、生きていて当然なんだ、絶対に生き延びている――。
――次の瞬間、私の記憶は改竄されました。
田村くんは私の爆破をもろともせず潜水し、鍾乳洞の裏口から現れる。その光景を鮮明に想像できた私は、新たな対策を立て始めました。やはり、オーソドックスなのは人質ですね。
「とりあえず邪魔なのでどいてもらえますか?」
私は淑女のような笑みを浮かべて熊の片目を拳銃で撃ち抜きます。我ながら惚れ惚れする射撃精度。クマさんは痛みに荒れ狂います。ですが、私は容赦しません。暴れ回る熊の動きをい凝視し、もう片方の目も撃ち抜きます。さすがの結衣ちゃんでも暴れ回るそれを的中させるのは難しかったようです。鼻に直撃しました。まあ、及第点でしょう。
私から逃げるように去っていく熊を横目に鍾乳洞の中に足を踏み入れます。
……ああ、やっぱり!
「こんにちは。村間先生。お久しぶりです」
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