第18話
無残な現場から遠のいた俺は最悪の状況に身を置いていた。
まさに絶対絶命。八方ふさがり。
中村を食い殺した熊から距離を取ることばかりに気が取られて、あろうことか俺は来た道を見失っていた。
深夜。森の中でかつ暗闇。
そんな環境で来た道に戻れないことは何を意味するか。
言うまでもない。遭難だ。全くと言っていいほど方角がわからない。
視界に入るもの全てが同じように見えていた。
しかも事態は悪い方にばかりに進んでいく。
俺の頭を悩ませる一つ目の要因、それは黒石だった。
やはり彼女の中で自分の身に起きたことの整理が追いつかないのだろう。
――過呼吸に陥っていた。
「はぁ……はぁっ、んっ、はぁっ、はぁ……」
過呼吸というのは精神的に不安定、緊張を強くかんじているときなど、無意識に呼吸回数が異常に増えてしまう症状だ。
以前はペーパーバッグ法といってビニール袋などを口に当て、袋の中の空気を吸うことで二酸化炭素を補い、沈静させていた。
しかし今では窒息死の恐れがあるため、推奨されていない。
では望ましい対処法は何か。
「焦らなくていいからな。大丈夫だ。安心しろ。もうお前を襲うやつは誰もいないから」
黒石を前かがみに座らせて、話しかける俺。
まずは何よりも俺自身が冷静であるかのように振るわなければいけない。
本当はこっちが泣き出したいよ。何もかも放り投げて楽になりたいさ。
目の前であんな苦しい光景を見せつけられたんだから。
けれど過呼吸は周囲が慌てふためいていればそれが本人に伝わってしまう。
大変なことになっているかもと思わせてしまったら、ますます悪化させてしまいかねない。
だから俺は内心がグチャグチャでも。気持ち悪くても。さも冷静を装いながら対処していく。
「ゆっくりでいい。ゆっくりでいいから息を吐く方を意識しろ。そうだ。それでいい」
目を見て話しかけながら安心できるような言葉をとにかく投げかけていく。
やがて三十分ほどで黒石の呼吸は整い始め。
「……ふう、ふう……ふう」
ようやくまともに息を吸えるようになる。
再発の恐れがあるためあまり目を離すことはできないが……もう限界だ。さっきから込み上げてくるものをぶちまけたくてぶちまけたくて仕方がない。
俺は再び黒石を不安にさせないために「用を足してくる。本当にすぐに戻るから待っててくれ」と声をかえたあと、彼女から離れて、
「おえええええっ、うっ、うっ、おええええええっ‼︎」
激しく
やべえ。この状況で水と栄養を戻しちまうのは絶対にやばい!
水もない。食料もない。しまいには戻り方も分からない。
いつ安全な場所に出られるかもしれねえってのに体力的に弱っている場合じゃねえんだよ!
そんな焦燥にかられている間にも、
「おええええっ‼︎」
やはりあの光景は俺にとって残酷過ぎたようだった。
だがあまり黒石のそばを離れるわけにもいかない。
俺と彼女の二人のどちらが危うい状態なのかは火を見るよりも明らかだ。
ここで弱っている場合じゃない。もちろん黒石に俺が弱っているところを見せるなんてもってのほか。論外。それこそ全滅まっしぐらだ。
俺は込み上げてくるものを全て吐き出し、深呼吸する。
何事も無かったかのように戻った俺だったが、
「……はぁ……はぁ」
岩にもたれて瞳を閉じている黒石。
過呼吸ではないが、息が熱を帯びて荒い。
嘘だろ、おい。
もはや絶望しか湧いて来ない。
なんでだ。なんで俺ばっかりこんな目に。
弱音を吐き出した気持ちをぐっとこらえて黒石の額に手を当てると。
「熱っ」
間違いなく平熱以上。しかも露わになっている彼女の肌には大粒の汗が吹き出している。
なんだ、なにで彼女は弱っている?
ただでさえいっぱいいっぱいだ。ここで症状を見誤ってしまうと黒石まで失っちまうことになる。それだけはなんとしてでも避けたい。
あんな思いをするのはもう御免だ。
言うまでもなくストレスがかかっているのは間違いない。
だが、それだけの情報じゃこの先俺が取るべき行動を絞ることができない。
「……はい、か、いいえ、だけ教えてくれ。無人島に到着してから何か食べたか?」
首を横に振る黒石。いいえ。
ということは食当たりじゃない……のか。いや栄養失調という線もあるのか。
「どこかケガはしたか?もしくは頭をぶつけたりは?」
いいえ。黒髪を乱れるだけだ。
クソッ……!
じゃあ一体なにが原因なんだよ⁉︎
……ふう。イラつくな田村ハジメ。
怒りは知能指数を著しく低下させる。
ここで焼けを起こせば間違いなく負のループ一直線。
焦るんじゃねえ。ゆっくりでいい。答えを見つけるんだ。俺がすべき最善を。
いずれにしたって水の確保はやっぱり急務。これは間違いない。
黒石はすごい汗だし、俺は嘔吐しちまっている。このままじゃ脱水――。
脱水?
「黒石もう一つ教えてくれ。お前……この島に来てから水は飲んだか?」
「……あま……みっ、みずそのまま」
雨水をそのまま。これか。
「医学的な質問だ。デリカシーがないと怒るなよ。下痢しているか?」
こくっと。頷く黒石。見つけた。
原因は清浄されていない雨水をそのまま摂取したことによる下痢。
そして脱水症だ。
さてこれでまた頭を悩ませる案件が増えた。
シンキングタイムの始まりだ。
俺は自分の思考を整理する意味も兼ねて黒石に現状などを伝えていくことにした。
「そのまま楽な状態で聞いてくれ。無理に頭は使わなくていい。感じたことをそのまま伝えてくれればいいから。見ての通り今は深夜だ。視界は暗闇に覆われている。加えてさっきの場所から逃げてきた。ここまではいいな?」
首肯。よし。
ちなみに熊、遭難などの残酷な現実を想起させるキーワードはあえて使わないようにした。
これ以上黒石と俺の体力を消耗するわけにはいかないからな。二人とも過呼吸の再発は御免だ。
「はっきり言って森の中をどれくらいの時間で抜けられるかが分からない。なによりこの暗闇で出歩くのはどう考えたってリスクがある。それもわかるな?」
再び首肯。
黒石は頭が早い女であることは同じクラスなら誰でも知っている。
身体は弱っていてもなんとなく理解できているのだろう。熊に再び遭遇する可能性もあるということを。
「だが、かといってこのまま夜明けを待つのも危険だ。黒石は脱水を起こしている。水の確保は一秒で急ぐべきだ。明けてから動き出すのは時間がかかり過ぎる。次にこれから気温が大きく下がることも想定される。待っていてもメリットは想像以上に少ない。ここからが結論だ」
「危険を承知で水辺の探索をしつつ、森を抜けられるよう進もうと思う。賛成か反対か」
情けないことを打ち明ければ俺はこの決断を行動に移すか否かを黒石に委ねようと思っていた。多分、考えるのが疲れたのだろう。
前を進むかここで待機か。どっちを取ったところでリスクは免れられない。
「あっちにしていればよかった」「こっちを選択して正解だった」のどちらなのかは後になってからしか分からない。
だからもし衰弱するならここで黒石と一緒に、なんて弱音が本音だった。
それでも俺が提示した案が「前へ進む」だったのはもう一度村間先生に会いたいという気持ちからなのかもしれない。
果たして黒石の選択は――、
「……ついて、く」
――前へ進む、だ。
その答えを聞いてどこか嬉しさを感じていたのは思い違いではないのだろう。
「わかった。それじゃほらっ」
俺は黒石に背を向けて乗るよう促したのだが。
全然音沙汰がなかった。
振り返ってみれば首を傾げ、きょとんとしている。
「気持ちはまあ……分かるさ。ぼっちなんかの背中に乗りたくねえんだろ。けど今はくだらねえ意地はってねえで病人らしくしてくれ」
彼女の戸惑いが嫌悪から来るものとばかり思っていた俺はちょっと嫌な言い方になってしまっていた。
これが「乗っていいの?」という単純な驚きだったと知るのはだいぶ先のことだ。
とにかく今は前を向いて進むしかない。
背中に黒石を乗せて決意したのだが――。
このあと俺は重大なことを見落としていたことに気が付くことになる。
後になって考えればいくらでも異変を感じ取ることができたはずなのだ。
――黒石の言葉数が異様に少ないことに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます