第19話

 良い知らせと悪い知らせがある。他人からそう聞かれたら、どちらから確認するか。

 よくあるジャンルの質問だ。海外ドラマなどでよく耳にするだろう。

 ちなみに俺は悪い知らせから聞くタイプだ。


 黒石を背負って森を抜けようと必死に歩き回る中、まさかの天候が悪化。

 雨と風。最悪だ。

 もちろんそんな悪天気の中での探索は危険を極める。


 心身ともにボロボロの男女生徒にこの仕打ちは鬼畜と叫びたくもなる。

 すぐにでも雨宿りできる場所を見つけなければならない。


 次に良い知らせだが、

「沢だ……それに雨をしのげそうな場所もある」

 不幸中の幸い。俺は今日ほどこの言葉を噛み締めた日はない。


 ひたすら森の中を歩き続けた結果、かすかに流れる水の音。

 黒石を背負いながらせせらぎの方へ進むと、細い川が現れる。

 やった……!


 思わず飛び上がりたくなる気持ちを抑えて、ゆっくりと黒石を下ろす。


「少し休んでいこう」

 俺の提案にこくっと頷く黒石。依然として口数は少ない。


 いつもならこの寡黙に異変を気付いてもおかしくないのだが、情けないことにこのときの俺はあるものに目を奪われていた。森林洞窟だ。


 とはいえここで「棚から牡丹餅」とはいかないわけで。

 なにせさっきの今だ。


 この洞窟に野生生物が潜んでいないとは限らない。

 とはいえ、水辺の発見は思いもよらない幸運。しかも雨風を凌げる場所付きときた。

 ここは多少の危険を犯してでも、安全な休憩所を確保したい。


 なにより黒石を楽な体勢で寝かせてやりたかった。

 彼女はずっと俺の耳元で熱っぽい息を吐いていたからだ。

 きっと悪寒だって走っていることだろう。せめて最低限の看病をしてやりたい。


 となれば……。

 入ってみるしかねえよな……やっぱり。

 洞窟の全貌が分からない以上、黒石を奥に連れていくわけにも行かないだろう。


 探検に入る前に洞窟の入口で待っておくよう黒石に言い含めようとすると、

「……っ!」

 彼女は濡れたシャツを着たまま水を絞っていた。

 

 どうやら思っていたよりも、雨天の中で歩き回っていた時間が長かったらしい。

 やっちまった。身体を冷させてしまったか……。


 だが俺がすぐに目を背けてしまった理由は黒石の下着が透けてしまっていたからだ。

 それも薔薇の刺繍が入った黒の下着が。


 人間は極限状態で性欲が高まることが確認されている。

 死に絶えるまでに子孫を残そうとするからだと、聞いたことはあったが……。

 濡れた犬のように頭を振る俺。


 バカが! この状況で何を考えてやがる。

 これじゃ上村たちと何一つ変わらねえじゃねえか。


 邪心を追い払う意味も兼ねて洞窟に足を踏み入れようとする俺だったが、

「……ん? どうした?」

 先に進もうとする俺の袖をつまみ、うつむく黒石。


 ここで俺は彼女の異変にようやく気付くことになる。

「……あっ、あっ……!」

「どうした?何かあるなら言ってくれ」


「……うっ……」

 口に出したい言葉があるはずなのに、出てこない。

 もどかしい、と思い始めた瞬間。


 黒石は瞬きし、手足を振る。

「……こえ……あっ、うっ」

 だが、やっぱり言葉が出てこない。


「黒石、お前まさか――」


 ――吃音症きつおんしょう


 言葉が滑らかに出てこない発話障害。

 心的ストレスや外傷体験において生じる。


 なぜ知っているかといえば、父親が母親を殺める光景を目撃してしまった子どもが発症してしまい、どのように克服したのか、という自伝を読んだことがあるからだ。


 黒石が発症した要因なら十分過ぎるほどだろう。

 強姦未遂にクラスメイトが熊に喰い殺される光景。

 クソッ……!


 俺がもっと早く……村間先生の元を寄らずにすぐに駆けつけていれば――!

 ちょっとの迷いの結果がこれかよ……。


 俺はもう限界だった。壊れてしまいそうだった。

 ずっとずっとずっと我慢してきた。

 でも頑張ってきたつもりだ。


 歯を食いしばってきたはず……なのにこれ以上どうしろって言うんだよ⁉︎

 どうしてこんな目に――。


 気が付けば俺は涙で前が見えなくなってしまっていた。

 馬鹿やろう……涙を止めろ田村ハジメ。泣くな。声を上擦らせるな、鼻声になるな。

 辛いのは、苦しいのは黒石だろう。


「ごめん……ごめんな黒石。本当にごめん……」


 吃音症は原因や症状が多岐にわたるため治療法が確立されていない。

 さらに言えば黒石は心的外傷後ストレス障害(いわゆるPTSD)を抱えることになるだろう。

 つまり彼女はいつまともに話すことができるようになるかが分からないのだ。

 最悪の場合、一生このままということもありえる。


 それは十代の少女には酷過ぎる。

 もっともっと話したい人がいただろう。

 これから言葉を紡いで新たな絆だって築きたかっただろう。


 だからこんなにも悔しくて、悲しくて、辛いのもかもしれない。

 もちろん俺は黒石のことが人として好きとは言い切れない。

 けれど好き嫌いなんて感情なんてどうでもいいんだよ!


 この現実が憎くて憎くてたまらなかった。

 弱っている姿など決して見せるべきではない状況で涙をこぼし続ける俺に、


「……ごっ、ごごご」

 何かを必死に伝えようと手足をジタバタさせる黒石。

 随伴ずいはん症状。なんとか声を出そうと身体を動かしている。


「……うっ、ぐっ、あっ、ごっ、めっ、めん、なっ、さ、い」

 どうやら彼女は俺に謝罪の言葉をかけようとしてくれているらしい。


 正直に言えば俺は「田村は悪いやつじゃなかった」みたいな展開は御免だ。

 俺は黒石がやられてきた仕打ちを忘れない。

 それは彼女が改心しても変わることはない。けど――。


「大丈夫。俺のことは気にしなくていいから。とにかく今は自分の体調のことだけを考えてくれ」

「あっ、あああ、ありが……」


「俺はこれからこの洞窟を探検してくる。黒石はここで待っていてくれ」

一瞬戸惑いを見せたものの、頷く黒石はスカートのポケットに手を入れて、

「あっ、う……」


「これは――」

 取り出してきたのはスマホだった。しかも

 最近は防水機能も充実している。決して不思議ではなかったが、よく漂流せずに身につけていられたな。


 だが、残念なことにバッテリーが三%を切っている。

 電気が通っていないこの島で最後の使い道になるだろう。

 黒石はスマホをいじった後、照明ライトを付けてくれた。


 使ってくれ、ということなんだろう。

 俺はありがたく受け取って洞窟の奥を探索させてもらうことにした。


 ☆


 黒石を置いて来て正解だった。心の底からそう思うのに時間はかからなかった。

 繰り返しになるが、この森林洞窟においても良い知らせと悪い知らせがある。

 まず悪い知らせから。


 ――。それも人だ。


 俺は医者になるという目標から骨格辞典なども好んで読むのだが、間違いない。

 人間の骨だ。ただし、一番最初に頭をよぎった熊の仕業、という線はなさそうだった。

 地面は比較的にゆるく、俺が歩いただけでも足跡がつくほど。


 にも拘らず、地面は綺麗なものだった。

 野生動物がこの洞窟に潜んでいる可能性はない。


 次に良い知らせだ。

 この森林洞窟はおそらく白骨化した人が住んでいたのだろう。

 ここで生活していたことが伺えるような資材が揃っていた。


 しかもまたそれが痒いところに手が届くばかり。

 たとえばかまど

 自分で造るには根気と相当の時間を要するため、無人島生活が落ち着いてから取り掛かろうと思っていたが、なんとそれが置かれている。


 しかも、お手製のまいぎり式の火起こし器付きときた。

 ペットボトルや容器まで選り取り見取り。

 イケる――!


 そう確信するも、問題はこの白骨をどうするかだが……。

 さすがに満身創痍の女子高生に白骨は無視してくれ、とは言えねえし。

 視界に入れさせない方がいい。

 俺は人骨を拝み、謝ってから、竃の中に入れさせてもらうことにした。

 なりふり構ってはいられないからな。


 ☆


 黒石を洞窟の中に招き入れた俺は彼女に楽な姿勢で休むよう指示。

 その間に火を焚き、暖を取れるよう急ぐ。

 洞窟内にはトングもあるため、火さえ起こせれば炭の調達もすぐだ。


 ろ過装置もなんとかなりそうだ。川の水を汲む容器もある。

 水の確保もよし。

 できれば黒石の下痢を少しでも楽にさせてやりたいが……。


 水辺だしワンチャンもしかしたら――。

 雨風が弱くなり始めたのを確認した俺は洞窟の周辺である植物を探し始めていた。

 頼む。咲いていてくれ。これまで悪いこと続きだったんだ。ちょっとぐらい運を分けてくれてもいいじゃねえか神様。


 そんな俺の祈りが通じたのかは分からないがお目当の植物を運良く発見する。

 ラッキー! これで少しは――。

 ゲンノショウコを採った俺は急いで煎じて黒石に飲ませることにした。


 この植物は下痢や腹痛、食あたりなどに効く。

 島に漂流してからというもの、俺は医者を目指して良かったなと思い始めていた。

 学んでいた知識が思いの外、使えることに驚きを隠せない。


 反対に俺が医学とは全く別の道に進もうとしていたらと思うとゾッとする。

 黒石をゆっくりと起き上がらせてゲンノショウコを煎じた水を勧める。

 もちろん、ろ過と沸騰消毒済み。必要最低限のことはやった。


「に、にがっ……」

 口に入れるや否や、べえと舌を出す黒石。よっぽど飲み込みにくい味だったのだろう。

「良薬口に苦しというだろ。我慢して飲め。下痢に効くはずだから」


「うぐっ」

「ちなみにハンカチとかはあるか?」

「……んっ」


「よし。あとは休んでろ。まあ男の俺がいる中で、寝ろ言っても無理かもしれないが寝てくれ。絶対に変なことはしねえから。まずは体力の回復だ。見張りもちゃんとやっておく」


 俺の言葉に首を横に振る黒石。

 その意図は田村に悪いから私も一緒に起きてるわ、ということだろうか。

 いや、良く考え過ぎか。


「遠慮しなくていい。今日一番大変な目にあったのは言うまでもなくお前だ。日が明けたらここを出て行く。できればそれまでに体調を少しでも良くしてもらっておきたい」


 俺の説得にしぶしぶ納得してくれたのか。ゆっくりとまぶたを閉じる黒石。

 よし、なんとか……なんとか生き延びれたぞ。

 明日こそは帰ろう。帰って村間先生に抱きしめてもらおう。いや別に変な意味じゃない。


 俺にとっては先生のハグは何よりも効くだけの話ってだけで。もう本当に限界なんだよ。

 このあと俺はうとうとしながらも黒石の額の上に、川の水で冷やしたハンカチを交換しながら熱が下がるよう看病していく。


 さすがの俺もできれば明日はおんぶは避けたいからな。

 だからこれは黒石のためというより俺のため。ただそれだけだ。


 ☆


 翌朝。洞窟に差し込む陽光を感じた俺はふと意識を現実に引き戻される。

 やべっ……! 寝てたのか。

 気が付けば俺は寝落ちしてしまっていたらしい。


 だが最も衝撃的だったのは俺のすぐそばで黒石が寝ていたことだった。

 しかも顔が目と鼻の先にある。

 ……なんでわざわざ⁉︎


 意味が分からない俺は外の様子を伺いに行くために立ち上がった瞬間。

 えっ、なんだこれ⁉︎

 まるで五十キロ以上の重りを背負っているかのような倦怠感。


 全身が燃えるように熱く、頭痛がバクバクする。

 あっ、やばい。倒れる――!

 そう思ったときにはもう視界が真っ暗になっていた。


「……らっ! ……むっ! たっ、たたたむ、ら」

 俺を必死に呼ぶ声。

 身体が揺すられているような気もするが……ああ、ダメだ。


 終わる。途切れちまう――黒石を取り残したまま現実世界からシャットダウンしてしまうことに不安を覚えながらも、そこで俺の意識は失くなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る