雨の差す

桜庭 くじら

雨の差す【旧版】

 雨の日に外へ出た。


 紫陽花あじさいをつくる六月の雨は、傘を差した僕のズボンを濡らす。今日は金曜日、昼下がり、人影のない道路をふらふらと歩いていた。


 ドームの形をした最寄り駅にさっさっと入って傘の水を飛ばし、屋根の下から、水を落とす曇り空を眺める。


 止む気配はなく、空は僕を生暖かい空気で包んでくる。ぴしゃぴしゃという音だけが楽しそうに跳ねていた。


 こんな頃に学生がいるのは珍しいのだろう、駅員のおじさんが不審そうな視線を送っている。


 当たり前だ。


 時刻は午後二時で、学校は既に五時限目の始まりに差し掛かかっていた。


 もはや今登校しても意味はない。出欠簿の僕の欄に【欠】と付けたであろう担任に嫌な顔をされるだけだ。昔、遅くに登校して「来たところ悪いが、書き直すの面倒だから帰ってくれ」と言われたことがある。


 それでも、僕の心にちらつく煙のような義務感が帰ることを許さなかった。やりたくない時ほどやらなきゃ!と思ってしまう感覚だ。我ながら面倒くさいと思う。駅員に定期券を見せ、雨に濡れるプラットホームに出た。



 独りボックス席に座っていた。


 霧がかった外は遠くの山々を隠し、目の前の住宅街を見せつけた。


 電車がカタゴト揺れる。


 雨の音は雑音をことごとくつぶし、静けさと灰色だけの世界にしてしまう。


 電車の中もそうだ。やはりこの乗り物は晴れた日が似合う。陽射しが差し込む車両に学生がばらばらといて、電車は光とシャツの白さに明るさを増していく。そして、ふとした瞬間に、ラムネのビー玉みたいなまぶしい空間がふわりと現れるのだ。


 今、眼下に広がるのは気持ち暗い車内と、窓の外の住宅街で、そこには人間の生々しくてどろどろしたリアルしかない。


 僕は色々な見方を試して観察したが、思い描いていたようなものは見えなかった。


 電車を降りた後、謎の焦燥感と緊張に縛られて、しばらく息苦しかった。


 地元とあまり変わらない景色。


 濡れた道路。


 年季の入った住宅。


 ぼとぼとと水をこぼす側溝。


 曇天。


 黒い折り畳み傘を差して灰色の街を歩く。


 今更になって学校に行きたくないという気持ちが枝を伸ばし始めた。線路沿いに続くフェンスが、尖った僕の心に引っ掛かるみたいだ。歩みが遅くなる。


 いつもの登校路を迂回しながらひたりひたりと進んでいく。


 校舎が建物越しに顔を出した。

 もう逃げられない。


 葛藤する心臓を抱えて僕は校門を潜った。



 整然と並べられた自転車がガラクタに見える。鉄パイプが丁寧に並べられているようだ。


 そう思い始めると目の前にたたずむ建造物が泥の塊に見えてくる。もう何もかも意味がわからない。ここは何のための場所だろう。


 昇降口は静かだった。


 物音ひとつない静かな廊下。誰も降りてこない階段。


 僕は面倒なので誰にも見つからないように足音を消して登った。


 先ほどから続く緊張感がより強くなる。全身から汗が吹き出て背中に悪寒が走る。友達と喧嘩別れした後みたいな気持ち悪さに吐き気を覚えた。


 本能が動くことを拒否している。


 なのに義務感がいまだ階段を登らせる。


 毎日繰り返して染み付いた感覚に従って、体はふらふらと登っていく。


 視界はぼやけ、頭はもやもやしてはっきりとしない。


 息が上がった。全身の汗が服に染みる。熱を持っている。歩みが重い。誰かが来ないことをぼんやりと祈っていた。


 なんとか三年の教室がある四階に上がり、いくつかの教室を通り越す。


 五時限目は体育だった。やはり人影のない廊下を歩いていく。僕はただふらふらと漂っていた。


 自分の教室は扉が閉められて中がのぞけなかった。静かにゆっくり開いて、中を確認する。


 誰もいない。


 するりと中に入り込んで、自分の机に向かった。


 教室はまるで放課後のような雰囲気をかもしている。机には午前の授業で配られたのであろうプリントが置かれている。


 これを持ってすぐに帰ろうと思った。


 時間は二時半で、もうすぐ鐘が鳴り体育の終わったクラスメートがここに戻ってきてしまう。


 もうこれ以上いられない。


 僕はプリントを回収して、ふと、あることを思い出した。


 国語の教科書の後ろの方に載せられていた短編小説のことだ。


 肺の病を抱えた青年が、立ち寄ったある商店の本を積み上げ、時限爆弾を仕掛けるように果物を置いて去っていく。


 ほとんど気の迷いのような考えだった。

 机の中からノートを出して一枚目の端をちぎり取った。


 ポケットに差してあったボールペンを抜き、つらつらと字を走らせる。


【檸檬】


 僕はそれを教卓の上に置き、何でもないように教室を出た。



 体は相変わらず重かった。息苦しさもある。悪寒も止まらないし、何か病気になったのかもしれない。


 ただ、少しだけ、階段を降りるのが楽に感じられた。いたずらっ子みたいな気持ちが、頭の端で笑っていたのだ。


 校門を出たところで本鈴が鳴る。


 ガタガタ机の音がして、クリーム色の校舎が、端からどんどん騒がしくなっていく。


 水玉模様の甘酸っぱい青春の香りが、外まで溢れ出す。それをうらやましいと思う気持ちすら、清々しい雰囲気に掻き消された。


 傘の向こうから光が見えた。


 雨が上がる。



 僕は独り、線路沿いの道で、熱い体を引きずりながら、あの短編小説を授業で習う日を楽しみにしていた。


 雲間からしたたる陽射しが水溜まりに反射する。


 白く輝いた街が、去っていく僕の心に映り込んでいた。

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雨の差す 桜庭 くじら @sakurabahauru01

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