ドーナツ

久米坂律

ドーナツ

「俺は、意味がないものが嫌いなんだよ。だからドーナツも嫌いなんだ」

「何それ」


 俺の答えを聞いた遠野は、くすぐったそうに笑いやがった。しかも、視線は俺ではなく、俺の右手にしか向けられていない。


 もとより、俺の答えに興味などないということか。自分で訊いたくせに。まあ、きっかけを作ったのは俺の方か。


 はあ。

 俺は一つ息を吐くと、右手を持ち上げて、簡易テーブルの上にチェーン店のドーナツの箱を置いた。


 早速、遠野はいそいそと箱に手をかける。

 それを見ながら、俺は横に置かれた椅子にどかっと腰掛けた。


「ねえ。さっきのってさ、どういうこと? 意味がどうのって。ドーナツには意味がないの? ドーナツ好きを前にして言うことじゃないよねー」

 明るい色の髪を耳に掛けつつ、箱を覗き込む遠野が、なおざりに訊いてくる。


 頬杖をついて窓の方を見ながら、子供を諭すように俺は答えた。

「ドーナツそのものについて言ってるんじゃない。ドーナツの穴が開いた形の話をしてんだよ。

 ドーナツの穴ほど意味のないものはない。作り手からすれば穴を開ける手間が増えるし、食べ手からすれば穴の分、食べられる箇所が減る。Win-Winならぬ、Lose-Loseだ」

「へえ」


 遠野は、箱の中をじっと見つめながら、気のない返事をした。


 聞いていないのは百も承知で、重ねて言う。

「結局、ドーナツの穴なんてのは、様式美だ。様式美ほど、意味のないものもない。だから、嫌いだ」

 そこまで言って、遠野の方をちらと見やった。


「辛辣だねえ」

 遠野はまだ箱の中を覗き込みながら、揶揄うように言う。しかし、やがてキャラメルソースのかかったイーストドーナツを一つ選び取ると、ぽつりと零すように言った。

「でも。中谷のそういうとこ好きだよ、私」


 ふいうちに、どう答えれば良いのか分からない。

 頬杖をつく手を変える。


 遠野は続けた。

「ずっと、中谷はそういう感じでいてね。何があっても。約束」

「……約束も何も、俺は自分のスタンスを変えるつもりなんかこれっぽっちもないからな」


「あはは」

 遠野は笑った。

「私も、ドーナツは嫌いかな」



 ****



 俺は、約束を破った。



 ——誰かがいなくなる時に、さ。

 遠野の中性的な声が、耳朶に触れる感触が甦る。


 ——よく言うでしょ、『私の望みは、私がいなくなっても、あなたが私を忘れて前を向くことだ』って。それでも、置いていかれた人は相手のことを想い続ける。


 ——これも、ドーナツの穴と同じ、様式美?

 俺は頷いた。なのに。


 ふとした折に、思い出してしまう。考えてしまう。

 想ってしまう。


 くすぐったそうに笑う声。

 耳に掛けられた明るい色の髪。

 飄々とした掴み所のない喋り方。

 ドーナツを美味しそうに食べる様子。


 思い出す度、喉が絞られるようにどうしようもなく熱くなって、苦しい。


 胸を震わせながら、大きく息を吸う。

 今なら、遠野の好きだったドーナツを、好きになれるかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドーナツ 久米坂律 @iscream

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ