銀色世界Ⅱ(second season)

西井ゆん

第一章 色は再び集まり、溶けてなくなる。

第1話

 とても——嫌いな季節。

 いやな季節がまたやって来たのだと自覚した。

 空気は澄み、遠景は透明で、息は白い。

 肌に刺さるその寒さは、いやでも眠気が残る体を叩き起こし、背筋を縦に伸ばさせる。

 ……だが微睡からの脱却には少し早い。

 まだ、布団という唯一かつ絶対の防壁が俺を包み込んでいる現状、まだ勝負がついたと判断するのは早計でしかない。

 戦いにおいて引き際は肝心かもしれないが、しかし、それは勝てる勝負を逃すのと同義ではないだろう。

 いくら震えようと、体が起きようと、目がしっかり開いていようと。

 負けを認めなければ負けじゃない。

 起床を認めなければ負けじゃない。

 つまり、だ。

 俺に負けはない。


「…………」


 ……まあ、うん。

 もちろんだ。わかってはいる。

 しっかりと理解している。

 大学生という今の身分と、出席日数というあまりに現実的な事実を踏まえてみれば、こんな無為な戦いに身を興じている時点でもう負け。俺は敗北者でしかない。

 チラリ見えた時計から判断するに、今から全力で急げば……そうだな。ギリギリ一限に間に合う。家が徒歩圏内故の利点。

 引っ越してよかったと、本気で思う。

 そんな冷静な思考で、上がった熱と眠気を下げつつ。

 きっと冷たい風が頬に当たったからだろう。

 変に上がっていたテンションの急落を自覚した。


 そして、寝返り一つ。横向きに一つ。

 風の発生源。睡眠妨害の要因と原因。北風が吹き込む場所を睨む。

 そこは予想通り……というかなんというか。

 四階にあるこの部屋の窓は大きく開け放たれ、青々と澄んだ空が視界に入ってきた。そこから叩く風がガラスに当たって高く間抜けな音を部屋の中に響かせていた。

 間違いなく嫌がらせだろう。網戸すらすることなく全開にドアを開けたままに寝た記憶はなかった。

 そういえば——と。一つの思考を経、久しぶり、寝返りを打てた事実を振り返る。

 体の硬さも、痛みもない。

 もちろん起床時故の多少のこりはあるものの、打身や打撲といった鈍い痛みは全くと言っていいほどに体になかった。

 珍しい。こんな日もあるものだ。


「……まあ」

 いいか、別に。


 体が軽いことは別に悪いことでもないだろう。逆ならばともかく。

 ——と、考え、高校時代から使っているデジタル時計と、その下に並ぶ十一月一日の表示を確認。

 カウントダウンではなく、カウントアップではあるが、しかしそれでも全く予断を許さない段階にまでその数字が入り込んでいる現実を改めて踏まえ、渋々、俺はベッドから起き上がる。

 立ち上がる時触ったベッドの縁は、冬らしく、もうすっかり冷たくなっていた。


*****


「随分早かったわね」

 もう少しかかると思っていたのだけれど。

 

 なんて言葉を一回だってこちらを見ず、文庫本に視線を落としたまま、雑に飄々と言ってくる。

  肩で呼吸を繰り返しつつ、それを整え文句を言う時間も余裕もなかった俺は、彼女の鞄を椅子に掛け、座る。そのまま机に上体を倒した。


「ねえ」


「……なんだ」


「邪魔」


「…………」


「超邪魔」


「……うるせえ」


 動悸が止まらず、鼓動がうるさい。

 脳まで届くその音は、非常に耳障りで。

 こんな女の小言などそれこそ無視するに足るレベルの騒音。

 なんとか吹き出る汗を服の裾でごまかしつつ、鳴り響くチャイムの音を待った。


「わかった。もういいわ」


「……そうかい」


 いいらしい。

 ただ、代わり。本に視線を置いたまま、彼女は手を出す。

 掌を上に。

 こちらに差し出す。


「なに」


「頂戴」


「……は?」


「早く。教授来るでしょ」


「お前、まじか」


「……?」


「金取る気か」


「……ほんとバカ」


 ため息とともに、目を閉じる。高校時代から変わらないしおりを背表紙から取り出し間に挟む。


「取って欲しいのよ」


「……何を」


「パソコン」


「…………」


「貴方がそこに座ったから、カバン取れないの」


「…………」

 

 ああ、なるほどね。

 だから「邪魔」ね。

 「超邪魔」って言ったのね。

 うんうん。なるほど


 ……って、わかるわけねえだろ。

 

 という文句は仕舞い込みつつ、がそごそ。

 先ほど椅子にかけたカバンを後ろ手で漁る。何か板のようなものに手が当たった。それをそのまま渡す。


「ありがと」


 そしてようやく、彼女は文庫本を閉じる。

 ブックカバー故、タイトルは見えない。それを席の横隅に置き、パソコンを開いた。


「あなた、今日、放課後は?」


 起動までの手持ち無沙汰からか、あるいは遅れている教授故か。

 彼女から出た、珍しくありふれた疑問。

 思わず、反応が遅れるも、自然に答えられるぐらいに心臓は治っていた。


「……あー。多分バイトかな」


「終わりは?」


「だいぶ遅くなる」


「何時?」


「多分……十時過ぎぐらい」


「そ、わかったわ」

 

 そして起動したパソコンへ早いタイピングで数文字を入力。

 パスワードをクリアした。


 ……本当に珍しい。

 改めてそんな感想を思った。


 彼女なら——それこそ俺と高校も大学も学部も学科も授業も時間割も部活も、ずっと一緒かつ、事実上俺のスマホのハッキングを許可している彼女なら——聞かずとも今日のスケジュールぐらい抑えていそうなものなのに。


 というか、実際そうで。ここ一年間ずっとそうで。

 ほとんど偶然を装う気もなく、わざとらしさもなく。

 バイトや部活、学校の帰り道、ふらりと現れ、自然隣を歩いている彼女が自然で当たり前だった。


 しかし今日。それを今日、わざわざ確認してきたということは、そこになんらかの意図があるのではないだろうか——なんて勘ぐりは無粋というものだろうか。

 

 と思いつつ、隣を見る。覗き見た。


「…………」


 顎に手を当て、頬に当たった長い髪を耳にかけている。

 切れ長で整った目元は、昔と変わらず、しかしその上に乗る睫毛はしっかりと上向きに整えられ、大人感を上げている。

 指を当てているその柔らかな唇は、明るい色を好まない彼女らしく薄いピンクで統一されていて、傷一つ見えない。

 何を考えているのかわからないその表情は変わらないまま、しかし、ほんのりと顔に乗ったチークやファンデーションが、彼女を『正体不明』から『ミステリアス』へと変化させているのだと気付いたのは実は最近。

 高校時代もまあ長かったその髪は、長さと色こそあまり変化はないけれど、ストレートではなく、少し形を変えたパーマが緩くかけられ、全く重く感じない。

 ほんのり香るシャンプーと香水の匂いがしつこくなくちょうどよく鼻腔を刺激する。

 後ろの席の男子が、ほとんどまっすぐ彼女を見つめていることからもわかるとおり、しっかりとした美人である。

 もう二年。後期も終盤に差しかかりつつあるこの時期だからこそ、もう周囲は彼女の美しさに慣れてしまった感があるのだろうが、それでも。

 近くに彼女がいて、近くに座り、近くに存在すれば。

 剰え、その周囲にいるのが男であれば。

 それは間違いなく、目を奪われてしまう。目が行ってしまう。

 それほどの美しさ。それほどの綺麗さ。

 

 山紫薫。

 

 彼女はこの三年で、より一層美しくなった。 

 

 俺は、そう思う。

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