手に入れた明日は思いの外愉快な日々でした
ラットマン
主人は従者に癒されたい
まだ薄暗い中、目が覚める。
午前4時ちょうど、それが私の目覚める時間だ。
軽く顔を洗い、髪を整え執事服に着替える。
完璧な執事の朝は早いのだ。
そのまま簡単に屋敷の掃除を始める。
広い屋敷を掃除するのは時間がかかるが、これも大切な業務の一つだ。
そうして午前7時ごろになったら食事の準備を始める。
屋敷の住人は多いのでまとめて大量に作れる料理が主だが、朝はなるべく軽いものを作るのは私なりの気遣いだ。
8時ごろになれば住人たちが目を覚まし始め、食堂へとやってくる。
配膳を済ませ私も一緒になって食事を取る。
今日は日曜日なのでこの後も業務を行う。
だが……
「クリス、悪いのだけど食事が終わったら私の部屋に来てちょうだい」
そうお嬢様が告げる。
お嬢様からの命令はどんな業務よりも優先される事だ。
そろそろ年越しだからその手の話だろう。
「了解しました」
そう答えて早めに食事を済ませる。
残りの業務は養父であり私の目標でもあるトマスさんに引き継いでもらうことにした。
身嗜みを整えお嬢様の部屋に入る。
「お待たせしました。用件はなんでしょうか?」
そうお嬢様に問う。
お嬢様はベットに腰掛けながらその青い瞳で真っ直ぐと私を見つめながらその口を開いた。
「クリス……女装をして頂戴」
「かしこまりました……え?」
あまりに突拍子のないことに思わず聞き返す。
え?お嬢様今女装してって言ったの?聞き間違えかな?
「今言った通りよ。貴方に女装して欲しいの」
真っ直ぐな瞳で冷静にお嬢様は告げる。
「……すいません。ちょっと理解できないのですが」
「……のよ」
「?」
「癒しが足りないのよ!」
お嬢様はそう強く訴える。
あー、これは何かありましたね、間違いない。
「癒しが足りないとはどういう?」
「どうもこうもないわよ!文字通りよ!ついこの間まで超自然存在共の相手をしていた上に今になって年末の行事やら、今年の屋敷の出費の確認やら仕事ばっかりでろくに寝れやしない!私は癒しが欲しいのよ!」
確かに、お嬢様の目の下にはひどいくまができている。
ここ最近、年末の行事やら『松零会』の忘年会やら『鳩屋』の大掃除の手伝いやら学業やらで忙しそうにしていたのは事実だ。
だが、それと私が女装することに何の繋がりが?
「理由はわかりましたが、なぜ女装なんですか?」
「それは……」
いつも以上に深刻そうな表情をしてお嬢様が一呼吸おく。
「私がクリスで遊びたいからよ!」
ドヤっと音が聞こえてきそうな渾身のドヤ顔でお嬢様はそう答える。
あー、ちょっと疲れ過ぎていますね。
温泉旅行の手配でもしておきますか。
「ちょっとよくわからないです」
「どうしてよ!クリス、貴方わかってないわ!自分の可愛さが!貴方、男なのに細身でなで肩だし、髪は真っ白で特にクセもないし、何より声が高くて可愛いじゃない!なら、もう女装するしかないでしょう!」
瞳に狂気を宿しながらベッドから立ち上がり、お嬢様は力説する。
けど、可愛いって……せめてカッコいいとかならなぁ……
「お嬢様の言い分はよくわかりました。ですが申し訳ありません。できませんよ」
「そんな……」
まるで胸を貫かれたかのような悲痛の表情を浮かべてお嬢様は崩れ落ちた。
「どうして……どうしてわかってくれないの……私はただ女装したクリスの可愛い姿を見たり。綺麗でふわふわな髪の毛に顔を埋めたいだけなのに……」
「逆にどうしてやってくれると思ったんんですか……」
お嬢様は疲れすぎるとたまにこんな風に壊れる事がある。
大抵はちゃんと休めば元に戻るのだが、今回は難しそうだ。
「ねぇ、クリスは私の従者よね?なら主人のお願いを聞いてくれるわよね?」
ついに自身の立場を利用し始めましたよこのお嬢様。
「嫌なものは嫌です」
「お願いよ!クリスにしかできない仕事なのよ!」
潤んだ瞳でそう訴える。
ちょっとそれはずるいです。
そんなこと言われたらちょっと揺らぎそうになります。
「……ダメです。ダメなんです!」
強めにそう言い放つ。
これでお嬢様が諦めてくれればいいのだが……
「そう……じゃあいいわ」
そう言ってお嬢様は落胆の末に死んだような表情を浮かべる。
……ああ、もう!
「……今日だけですよ?」
「!」
その一言を聞いた瞬間、お嬢様は輝くような笑顔を浮かべる。
あぁ、我ながらお嬢様に弱いなぁ、私は。
「これでよろしいですか?」
奥の浴室で、お嬢様が用意していた服に着替える。
黒を基調とした、いかにも女性らしい、と言った印象を受ける衣装。
それでいて妙に露出が多めだ、間違いなくケイトさんあたりが用意したんだろう。
たぶん、女装のことを吹き込んだのもケイトさんだろう。
それにしても、スカートというのはその……すごくスースーする……今更ながらすごく恥ずかしい……
「あぁ、あぁ!良い!すごく良いわクリス!とっても可愛いわ!」
興奮した表情でお嬢様はそう言い放つ。
ああ、お嬢様が嬉しそうならもうなんでも良いや……
「貴方、すね毛とか生えてないのね、そういう体質なの?」
「そうですよー、まさかこんなところで役立つとは思っていませんでしたがねー」
「んもう、ちょっと冷たくない?まぁ、良いわ!はぁ……髪の毛もふわふわで良い匂い……」
そう言ってお嬢様が私の髪の中に顔を埋める。
お嬢様の胸が当たって心臓の鼓動が聞こえる。
……あれ?ちょっと色々不味くないか?
今お嬢様は私を抱きしめるような状態になっている。
え?ちょっと、冷静になれクリス、私は完璧な従者、こんな状況だろうと常に冷静でいられる!
「クリス?耳が真っ赤よ?」
「いや、これはその……」
あぁ、違う、これはその……
「クリス……」
お嬢様の吐息が耳をくすぐる。
あ、やばい。
これはちょっとよろしくない。
がんばれクリス、お前は完璧な従者だ、これくらい耐えられるはずだ!
「……」
お嬢様は何も言わない。
ただ規則的に呼吸をするだけだ。
あぁ、これは……
「……寝てますね」
お嬢様は私に抱きつきながら眠ってしまった。
相当疲れていたのだろう、くまも酷かったし。
「……正直危なかったので、助かりました」
実際、危なかった。
流石に耳元での吐息は反則だと思う。
「全く、お嬢様のこういうところは危うくて不安になりますよ」
そう言いながらお嬢様をベットに寝かせる。
「さて、私は業務に戻りますか」
浴室で執事服に着替え業務に戻る。
「あぁ、それから」
一言告げる。
「次はもっと上手に
そう告げて部屋を出る。
我ながら一言余計だったかもしれないが、執事だってたまには仕返しをするのだ。
部屋を出る際、ふと見たお嬢様の顔は真っ赤に染まっていた。
さて、残りの業務を片付けますか!
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