第33話 魔都にて待つ
耳鳴りのような甲高い音が聞こえてくる。薄っすらと目を開ければ、あたしの描画した文様が大きく広げられてあった。
展開完了。
緋色のそれはたちまちぐんと引き伸ばされ、王宮庭園を包み込むように広がってゆく。
文様はゆっくりと回転しながらミネルヴァを押し戻し始めた。
歯車が噛みあうように、スイッチが互いに作用しあうように、数十層にも及ぶあたしの文様が回転しては広がり、広がっては回転し、ミネルヴァの尖塔を押し戻し始めている。
皆がどうなっているのか分からない。光でくらんだあたしの目に見えているのは、火花のように弾けて消えた文様が、互いを補い合いながらミネルヴァを押し戻している光景だ。様々な植物の意匠が戯れるように交差しながらもひっきりなしに回転し、せわしなく蠢いている。
一つのシステム、一つの生き物、一つの曼荼羅のように。
緋色の燐光がしとやかに明滅しているのがよく見えた。
この文様を展開しているのはあたしの魔力だけではない。アルハンゲリスクという土地が持つ力、この都市のエネルギーが全て文様に注がれている。そうでなければミネルヴァを押し戻せるものか。
白んだ視界を切り裂くような閃光は、シーツの上に広がる血のように網膜に染み込んでゆく。そうして耳元で風が激しく猛り狂っているかのような轟音が響き渡り、断末魔のように光が弾けた。
音が遠ざかる。五感がどこにも見当たらない。
あたしはひっきりなしに瞬きをした。刺激を受けたせいで生理的な涙がぼろぼろとこぼれてくる。
根気強く瞬きを続けると、ようやく辺りが見えるようになってきた。
瓦礫の山に、衝撃で飛び散った葉や土くれが覆い被さっている。誰かがあたしの傍で芋虫のように這いずって、苦労しながら上体を起こした。
「チップ? チップだよね、大丈夫?」
自分の声も遠い。あたしは彼の肩に触れた。暖かいその感触に心底安堵した。
チップの声はなかなか聞き取れなかったけれど、視界が戻って、他の人たちが起き上がり始める頃には、ようやく耳がまともに機能するようになった。
「あたしの魔術は、ちゃんと固定された?」
「おう。固定されている。ここはミネルヴァじゃねえな?」
適切な音量が分からずに叫ぶチップに、シーラが渋面で応じる。
「そのようだ。どうやらアルハンゲリスクのままらしい。……オブシディアンは?」
金色のオブシディアンはどこにもいない。
いや、それどころか。
「……瑠依さんは!?」
悲鳴のような声を上げていることは自覚していた。
あたしは槍にもたれるようにして立っているミス・アルカディアの傍に、よろよろと駆け寄る。
そこには何もなかった。瑠依さんがいた痕跡、それすらも見当たらない。せめて服のひとかけらでもと思ったが、どこにも、何にもないのだ。
まるで最初からいなかったように。
「瑠依さんは、どこですか」
声が震えている。
「……分からない」
ミス・アルカディアの声も震えていた。青いキャンディのような目は涙でびしょびしょに濡れていて、形の良い唇は少女のように戦慄いている。
「分からないわ。どこに行ってしまったのか」
聡明なこの人は分かっていたのだ。
アルハンゲリスクに神性が付与されてしまった時から、瑠依さんがこうなるということを。彼の能力と、逃れ得ぬ彼の宿業のゆえに、こんな結末しかありえないということを。
ミス・アルカディアの後ろでネムが瓦礫をひっくり返し始める。でもそんなところに瑠依さんはいない。いないのだ。
だって彼は、アルハンゲリスク全体に付与された神性を簒奪したのだ。
たくさんの神性を吸い取って、無事でいられるはずがない。
脇腹から血が滴っている。あたしは彼の手を引いた。
「ネム」
「ここに……ここに、いるかも知れない」
「いないよ。そんなところに瑠依さんは、いない」
「……ッ」
ネムがへたり込んだので、あたしも彼と手をつないだままその横にしゃがみこんだ。誰か看護師を、とシーラが叫んでいるのを遠くに聞く。
「師匠」
絞り出すようなネムの呼びかけに答える声はない。
*
ネムの傷を治療してもらっている間、あたしたちはずっと手をつないでいた。瓦礫の山の下から瑠依さんが見つかったというような知らせは当然なかった。
アルハンゲリスクのどこにも瑠依さんはいなかった。
負傷した市民を収容するので王宮庭園はいっぱいになりつつあった。ネムは内臓に至るほどの怪我ではなかったものの、出血がひどかったので入院するように言われたが、彼は頑是ない子どものように帰ると言って聞かなかった。
あまりにも彼が帰ると言うので、医師は厳重に包帯を巻き、明日また来院する約束を交わしてあたしたちを解放した。
ミネルヴァの直撃は免れた。けれど二つの都市は、かなりぎりぎりのところまで近づいていたようだった。
マンションの屋根が何かに擦れたように崩落している。運河には大きな瓦礫が浮かび、幾つかの橋は危険なほど崩れてしまっていた。おかげでずいぶん遠回りをして家に帰らなければならなかった。
崩れた家々を見て不安になったが、あたしたちの家は奇跡的に無傷でそこにあった。都心の方ではなく、端っこにあったのが功を奏したのかもしれない。
夢を見ているような気持ちで階段を上り、二階の居間へ入る。
「……」
テーブルに三つマグカップがあって、息が詰まった。今あれを片付ける気力はない。
ネムがのろのろとソファに倒れこんだので、あたしはその下に座った。一瞬手がほどけてしまったけれど、ネムがすぐにあたしの手を探すように指を伸ばしてきたので、しっかりと握りしめる。
二枚の毛布が床にくしゃりと落ちている。
つい一日前は、三人でひとかたまりになって眠って、一緒に酷い顔でコーヒーを飲んだのに。どうして一人欠けているのかが不思議で仕方がなかった。
あたしたちはまんじりもせずに夜を過ごした。今が何時かなんて分からなくて、暑いか寒いか、喉が渇いているのかお腹が空いているのかも全然知らなかった。
すうっと差し込み始めた朝日に目を瞬かせる。ネムのかさついた指を撫でると、彼もまた窓の方に目をやった。
あたしはネムの手をゆっくりとほどいて、窓を開けに立ち上がった。
ミネルヴァは昨日とは少し違った形をしていた。
完璧なアルハンゲリスクの鏡写しだったのだが、建物のあちこちがぼろぼろに崩れている。アルハンゲリスクを呑みこもうとして失敗した結果だろうか。爆撃を受けたあとの廃墟めいたものが、朝日に照らされながらいつものようにあたしたちを見下ろしている。
死体が吊り下げられているような気がした。
あたしは祈るような気持ちでマグカップを手に取り、シンクに置いた。それからまたネムの傍に座って、二人でずっと床を眺めていた。
ふと顔を上げる。時計は十時五分前を示している。
「あ……開店の札、かけなきゃ」
Closedになっている札をOpenに変えなければいけない。お客さんなんて一度も来たことはないけれど。
「本気かよ」
泣き涸れた声でネムが言う。顔を上げれば、彼の爽やかな翡翠色の瞳とかち合う。すがるような視線はあたしより一つ年下の男の子のものだった。
「だって」
あたしは上ずった声で言う。
「開けておかなくちゃ、あたしたちがまだここにいるって、瑠依さんが分からなくなっちゃうでしょう」
あたしたちは待っていると約束したのだ。瑠依さんがあたしたちを信じてくれるまで、待つと。
そう言えばネムはぼろぼろと涙を零しながら、うん、と頷いた。
あたしは立ち上がって深緑色の、瑠依さんが塗り直したドアに手をかける。
人が傷つく姿を見るのが怖いと泣いた人。人が傷つくくらいなら自分が傷ついた方がいいと言った臆病な人。そうして、あたしたちの前から消えてしまった、極東の大嘘つき。
深呼吸を一つしてドアを開ける。Closedの札をOpenに変えて、あたしは再び室内に戻った。
今日が始まる。一人の男性を置き去りにして。
魔都にて待つ 雨宮いろり・浅木伊都 @uroku_M
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