第27話 犠牲者

 王宮庭園での散歩と言えばここ、らしい。


「庭園迷路……ですか」

「そうそう。迷路って言っても難しくはないんだけれどね、気晴らしにはいいだろう。十三門閥の会議中だから、一般の人は入れないようになってるし……ね……」


 大きな欠伸をしながら瑠依さんが言う。ミネルヴァのせいで太陽燦々、とまではいかないにしても、豊かな光が差し込んでくるサンルームの下に、生垣で出来た迷路はあった。


 天井が高く、だだっ広い空間に作られているので、この距離を歩くのは散歩というより運動に近いような気がする。瑠依さんが気軽に道に入ってゆくのを慌てて追いかけた。

 あたしの二倍くらいの背丈がある生垣は、向こうを透かし見ることができないほどみっちりと生えている。コニファーやレッドロビン、フリンジフラワーなどアクセントをつけて、歩く人が飽きないように工夫されているようだ。


「ここ、全部歩くんですか」

「途中で抜ける道もあるから大丈夫。で、きみもついてくるわけか」

「アルカディアの姉の方はその二人と散歩しろって言ったんだろ。んじゃオレもコミだ。それにお前に謝んねえといけないこともある」

「謝る? 何をだい」

「お前んとこの従業員に怪我させたこと」

「……」


 瑠依さんは難しい顔をして、自分の目を揉みほぐしている。


「参ったね。先に謝られてしまっては私の立つ瀬がない」

「まあオレもお前の気持ちになって考えてみたわけよ。家に置いてる二人のちっこいのが自分の目の届かない場所で怪我して死にかけてたなんて知ったら、そりゃあ冷静でいられるわけがねえわな」

「うう……。そこまで親身になられると、怒鳴った私が馬鹿っぽくなってしまうから、そろそろ私にも謝らせてくれないか。怒鳴ってすまなかったよ」

「いいって。で、その代りアルカディアの姉の方とはどうなんだ?」


 チップめ。このばか!


「どうしてあなたはそういうデリケートなことをずけずけと聞くの?」

「何だよ、あんたが気になってるみてぇだから聞いてやったんだろうが!」

「き、気になってるけど、そういうのは直接聞くもんじゃないでしょ」

「直接聞かねェで誰に聞くんだよ。なあなあ、どうだったんだ、常盤サンよ」

「どうって……。どうして皆そんなことが気になるのかねえ。ヴィーは確かに美人だけど、ああ見えて意外と我儘だからね、付き合うのも楽じゃないよ」

「全然意外じゃねえ。むしろ想像通り」

「ええ? そうかな、夜中に急に起き上がって歯ブラシの毛の本数が本当にパッケージと同じか調べたり、シーツの縫い目を指先で全部弄るまでは寝ないとか言い出したり、外食でスープがついてこないと持参したスープの素をお湯に溶かして飲んだりとかするんだよ? 想像通りかなあ」


 首を傾げる瑠依さん。あのミス・アルカディアが夜中に背中を丸めて歯ブラシの毛の本数を数えているところは、正直言ってあんまり想像したくはない。


「でも、天才と狂気は紙一重って言いますし、ミス・アルカディアもいつものクレバーさの反動でそういうことをされてるんじゃないですかね」

「恋は盲目だねえ、ミルカ。でもあれは紙一重っていうより、堂々と狂気の域に入ってる気がするけれど」

「ミス・アルカディアはそんなんじゃないです。深謀遠慮の末の毛量カウントなんです。そうに決まってま……」


 言いかけて言葉が途切れる。

 今、何か変な音がしなかっただろうか。


「ミルカ?」


 重たいものが落ちるみたいな。うめき声みたいな。

 強烈な感覚に突き上げられるようにして走り出す。迷路の奥の方だ。生垣が邪魔して聞こえないけれど、確かにあのうめき声は――。


「ミルカ! どこへ行くんだ!」


 後ろから二人が追いかけてくる足音がうるさい。あたしはしゃがみこむと、白い砂が敷かれた道に耳を押し当てた。

 ごろごろ、ごろごろと猫が喉を鳴らすみたいな音が微かに聞こえてくる。南西だ。さっきよりは近づいた。

 道を歩くよりは生垣を突破してしまった方が早いのかもしれない。足を踏み入れようとしたが、植物の密度が高いのかそれとも何か魔術的な処理が施されているのか、なかなか向こう側に出られなかったので、あたしは女王の国に迷い込んでしまったアリスのように、律儀に道を走って行った。


 分かれ道に近づくたびに耳を当てた。ごろごろという音はなぜかどんどん弱まっているようだった。弱まっているというよりは、間隔が長くなっているというか――。

 どこかで聞いたことのある音だ。音の間隔が伸びてゆく感じが、あの瞬間に似ている。

 病気の家畜の喉を裂いて、殺した時の瞬間。


「……誰か、誰かいるの!」


 叫んでから地面に耳を当てると、ごろごろという音が一瞬盛んになった。あたしは這いつくばって道を進む。そう遠くない、もう近くまで来ている。

 生垣をかき分けるような、がさがさという音が聞こえた。駆け出そうとしたあたしの腕を誰かが強く掴む。


「待て」


 押し殺した声で言うのはチップだ。後ろから瑠依さんも緊迫した面持ちでついて来ている。


「何だ。何かいるな」

「分からない、でも音がする。喉に血が溜まったときの音に似ている」


 チップは黙って地面に耳を着けた。そうして立ち上がるとおもむろに足を進める。

 近いぞ、とチップが言った。また生垣をかき分けるような音が聞こえた。


「……ッ、人か」


 足を止めたチップが絞り出すように言う。前に出ようとするあたしを、チップの太い腕が押し留めた。


「見ない方がいい」


 背中に隠されたので彼の踵を思い切り蹴ってやった。


「人を集団墓地に隠れさせておいて今さら何言ってんの! あたしは腐った死体と一緒に三十分も待ち伏せしてたんだからね!」

「あ、それこいつの前で言っちゃうか」

「それについてはあとでたっぷり聞かせて貰うが、そこに倒れてるのは……」


 チップの前に出る。迷路の中にしつらえられた、休憩所のような場所。人工大理石でできた上に、ベンチや植物などが置いてあるちょっとしたスペースの真ん中で、その人は倒れていた。


 うつろな目は既にこの世の人のものではない。喉を切り裂かれたか、抉られたかしたのだろう、夥しい量の血が大理石の上に広がってゆく。

 生垣が、そう遠くない場所でがさがさと鳴った。あたしは流れる血を踏まないようにして音のする方へ駆け出して行く。


「ミルカ、ミルカ! 危ないから追うんじゃない」


 瑠依さんに強く手を引かれたが、あたしは構わず生垣をかき分ける。

 誰かが生垣を魔術で除けて、走り去ってゆくのが見える。こげ茶色のスーツを纏った足元が忙しなく動き、チェック柄の靴下を覗かせていた。


 こつん。


 何か固いものが床に当たる音がした。

 杖だ。ズボンの裾のすぐ近くにあった棒みたいなものは絶対に杖だ。


「ミルカ!」


 瑠依さんがあたしの腰に手を回して力づくで引き留めたので、それ以上の追跡は叶わなかった。


「お、男の人でした、スーツを着ててチェック柄の靴下で、杖をついてて」

「いいから! ここから逃げられるはずがない、警備員に任せるんだ」


 そんな呑気なことを言っていていいのかと思ったが、瑠依さんが懇願するようにあたしを見てくるので、追跡は諦めた。これはあたしの仕事じゃない。

 チップは男の傍にしゃがみ込んで手首を取っていた。そうして静かに首を振る。


「だめだ。一歩遅かったか」

「喉を裂かれているのか? いや違う、なんだかどうもひしゃげているような感じだね。それにこの人は……」

「こいつを知ってるのか」

「ああ。十三門閥の門徒の一人だ。確か今日の定例会に秘書官として出るはずだった人じゃないかな」

「定例会に出るってことは結構な地位にあるってことだな。どう見たって自分で喉突いて死んだって感じじゃねえ。武器もねえしな。ってことは殺されたってことになる」

「さっきの人に?」

「断定はできないが、恐らくは」


 あたしは男の人の傍に屈みこむ。血が喉でごろごろと鳴る音はもう聞こえない。もうこの人は、死んでしまった。

 何だかふわふわした気持ちだ。この人が死んでいるなんて何かの手違いなんじゃないのか。次の瞬間ひょっこり起き上がって、実はウソでした、なんてことを言われるんじゃないのか、そんな道化た期待が頭をぐるぐる廻ってゆく。


 瑠依さんが携帯を取り出し、救急車とここの警備員を呼んだ。あたしはすることもなくて、ただ男の人の命を奪った傷痕を眺めている。


「……待って。待って、ねえ、この傷痕」

「傷痕?」

「これ、螺旋になってるよね」


 出血が酷くて分かりにくいが、その傷痕は確かに、ドリルで開けたような跡をしていた。


「ばあちゃんと、同じだ」


 声が震えていた。


「追わなきゃ」

「大丈夫だ、ミルカ。警備員が今出入り口を封鎖した。犯人は外へ逃げられない」

「でも、顔を、顔が見たいんです」


 見てどうしたいのかなんて分からない。けれどばあちゃんを殺した犯人の足元までは目撃したのだ。あと少しの所まで来ているのに、誰だか分からない!

 もどかしさに地団太を踏みそうになる。


「どうしてあたしを止めたんですか、瑠依さん!」

「危ないからに決まってるだろう! この人だってきっと訓練された術士だった、だのに一撃で殺されてしまっているんだ。きみが同じ目にあったらと思うだけでぞっとする」


 瑠依さんの声は震えていて、あたしはそれ以上の言葉を呑み込んだ。セプ・ルクルムの一件と同じことは繰り返したくなかった。きっと瑠依さんも一緒だ。

 でも、思ってしまう。


 この人と同じ目にあっても、死ぬ間際に犯人の顔を見られたならば、それで良いのではないか――と。

 口にしたらきっと瑠依さんが傷つく。だからあたしは自分の好奇心から出た残酷な言葉をぐっと飲み込んで堪えた。

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