第21話 追われる獲物

 何かが瞼の裏でぴかぴか光っている。眠りたいのに、迷惑なその光は相変わらず存在を主張していて、あたしは何度か瞬きした。


 目の前が真っ白だ。それに何だか酷く揺さぶられていて――。


「……ふぁっ!?」

「おう起きたかハッキネン! 悪いが手が離せねえ、じっとしててくれ!」


 チップの切羽詰まったような声が聞こえてくる。じわじわと滲むような痛みが肩の辺りでわだかまっているのを感じる。手をやれば乱雑に布が巻かれているのが分かった。


「あ、れ、ここ、……ネムは、ネムはいる!?」

「大丈夫だ、だから暴れんな!」


 言われるまでもない。ちょっと身じろぎするだけで燃えるように肩が痛くて、満足に動けなかった。


 のろのろと顔を上げる。凄まじい風圧でまともに目を開けていられない。

 ぎゅっと握りしめたのは柔らかな毛だった。

 そこであたしはようやく、自分がロカンポールの背に乗っていることに気づく。

 あたしの体はハーネスでロカンポールの体に――しかも一番体の大きなベータに括り付けられていた。前を走るチップの腰から下もきちんとロカンポールに固定されている。

 森のけものがそれを嫌がらないということは、日々訓練をしているんだろう。


「ハッキネン、後ろ、見えるか」


 横に並んだネムが短く言う。彼も同じようにロカンポールにまたがっていた。頭から血を流していて、タオルをそこに当てている。赤い槍は真っ二つに折れてしまっていた。

 彼の言葉にちろりと後ろを見てみれば、金色に輝く神性獣が、蹄の音も高らかに追いかけてくる姿が目に飛び込んできた。


「うわっ」


 角が変だ。さっきまでは普通の牡鹿と同じ大きさだったのに、今は複雑に絡まった蔦のように入り組んでいる。柔らかな棘があちこちに生えていると言った方が正しいか。

 それがぐねぐねとうごめきながら、こちらに手を伸ばしているのだ。


「し、心臓は?」

「今んとこはこっちにある、だがあいつの妨害を防ぎきれねえ! 心臓を戻すどころか、気を抜いたらこっちまでやられるぞ!」

「あたしたちは今どこへ向かってるの!」

「アルハンゲリスク!」


 先を行くチップの左手には、あの鳥かごが抱えられている。追ってくる神性獣は盛んに角を伸ばしてその鳥かごを狙ってくる。ロカンポールの妨害など意にも介していないようだ。

 心臓を分割していられる時間はそう長くないだろう。一刻も早く神性獣を足止めする必要がある。


「なんで、アルハンゲリスク?」

「……ああなった神性獣はもう、神性殺しでもないと扱えねえんだよ。このまま都市まで逃げ切れれば勝算はある」

「瑠依さんに連絡は?」

「あの神性獣が強すぎて電話が使えない。車もだ」


 どうして、と言いかけて瑠依さんの言葉を思い出す。神性獣が強すぎる時は電磁気がどうとかでトラックが使えないから、馬で追いかけることがあると言っていた。

 ようやくロカンポールに括り付けられている理由が分かって、浅く息を吐いた。車と違って非常に揺れるので、肩の傷口がとても痛む。

 けれど贅沢は言っていられない。速やかにアルハンゲリスクの神性殺したちに、この神性獣を退治してもらわなければならないのだから。


「多分向こうでも動きは察知してるはずだ。このまま助けが来ないとは考えづらいが、すぐ来るとも思えない」


 隣のネムが苛立ったように舌打ちする。


「せめて俺が、神性殺しだったら」

「同じことだよ。たった一人であんな大きなの倒せるわけがない……!」

「でも足止めする時間くらいは稼げた。心臓を戻すくらいは」


 ぎりりと歯噛みするネムの気持ちは分かる。分かるけれど、自己嫌悪に浸っている暇はないのだ。


「アルハンゲリスクまであとどのくらい?」

「ロカンポールの脚で一時間かからないそうだ。今三十分走ったから、残り半分くらいか」


 残り半分。空を見上げればミネルヴァがもうすぐ近くに見える。


「……でも、一緒に逃げてたらいずれ捕まる」

「はあ?」

「チップ、チップ! 考えがある」


 チップがあたしの横に並ぶ。

 あたしの考えを耳打ちすると、彼は苛立ったように首を振った。


「あんた怪我してんだろ! ネムもだ、それにあの神性獣が外れを引いてくれるかどうかも分からねえ」

「そうだけど、このままであと三十分も逃げ切れるとは思えない」


 同じ方向へ揃って逃げ続けることに勝機があるとは考えづらい。リスクを取らねばリターンはない。

 それはチップも同じ考えだったのだろう。彼は苦虫を噛み潰したような顔で呻いた。


 あたしは神性獣から見えないように、手のひらに薄く文様を展開する。文様は初歩的なコンパスの意匠にした。目前で赤い糸がひらめいたかと思うと、次の瞬間にはもう鳥かごのコピーが二つ手の中にある。

 それを見たチップが驚いたような声を上げた。


「あんた、神性獣とこの距離で魔術展開できんのかよ」

「まあね。初歩的な魔術しか使えないけど」


 鳥かごのコピーを見てネムはあたしの意図を察したのだろう。


「確かに神性獣の知覚は鈍いけど、心臓を見間違えてくれる確証はないぞ」

「いい。少しでも惑わせればいい。目的はチップが心臓を取り戻すまでの時間を稼ぐこと。その間見間違えてくれればいいの」


 チップはしばらく腕組みをしていたが、ややあって身振り手振りでロカンポールの群れを三つに分けた。


「背に腹は代えられん。生き延びる確率が上がるってのは確かだ」


 悪ぶって言っているけれど、その顔は苦しそうに歪んでいる。怪我をしているあたしたちが心配なんだろうと思う。けれど心臓を守り切らなければ、セプ・ルクルムの森は閉じてしまう。


 そんなのは絶対にだめだ。


 人々の落胆した顔、通り慣れた道なのに迷ってしまう心もとなさ、果実を実らせない木々、もう二度と風が吹き抜けることのない林。

 森が閉じるということは故郷が一つ消えるということだ。あたしたちの土地から、あたしたちを見守ってくれる大きな何かが遠ざかってしまうということだ。


 そんなことはもう二度と許されない。


「行くぞ。アルハンゲリスクで会おうぜ、馬鹿ども!」


 チップの合図に合わせて群れが三つに分け、別々の方向へと走り出す。勿論本物の心臓はチップが持っているから、あたしたちのはダミーだ。

 神性獣は戸惑ったように首を振ったが、すぐにチップ目がけて走り出した。


 あたしはポケットに手を突っ込んで、馴染んだ羊皮紙の感覚を探る。目の前にはもう描くべき文様が見えていた。

 白百合文様。

 大輪の花が自らの花弁の重みに耐えかねて、僅かに俯いているような、そんな形だ。描くのはたやすいがバランスを保つのには少しコツがいる。コツがいるから、何度もばあちゃんと練習した。だから今では目をつぶっていても正確に描画できる。

 眼前でたなびく赤い魔力のライン。恥じらうような百合の文様に羊皮紙をぶつける。

 ばちんと火花が散ったような音がして、神性獣がたたらを踏んだ。苛立たしげに角を振り、あたしの方を見る。

 間髪入れずにもう一度。神性獣の額にぶつけるようにして展開してやる。さほど痛くはないだろうが、挑発には十分だと思う。この愛すべき不死なるけだものは、攻撃された方へ愚直に向かってくる習性がある。


「来た、行くよ!」


 ロカンポールは静かに駆け出す。振り向けば意図した通り、神性獣はあたしを目がけて走ってきていた。地面を抉るような荒々しい足音が聞こえてくる。

 あたしの跨っているベータは、神性獣の動きを正確に読んでいた。神性獣にも怯むことはない。使い魔の類には見えないが、何か魔術的な処理が施されているのだろうか。


「っと、左ひだり左!」


 神性獣の伸縮自在の角が左右から回り込んでくる。ロカンポールたちは慣れた様子で跳躍し、その角をかわす。右から無遠慮に伸びてきた角はあたしが文様で弾き返した。

 今はどうにかなった、なったけど、次をしのげるかは分からない。目まぐるしく変わってゆく情報を処理しきれるか自信がない。


 どうであろうと走り続けるしかないということは分かっているけれど!


 神性獣と距離があることを確認してから、胸元を探って岩塩の小袋を取り出す。鼻をひくつかせたロカンポールたちにひとかけらずつ与えると、彼らは嬉しそうに尾っぽを振ってそれを呑み込んだ。


「うわっ、わ!」


 岩塩を舐めて力を得たのか、ぐんとスピードが上がる。彼らが蹴る地面が石畳に変わって、いよいよアルハンゲリスクに近づいたことを知る。


 牙を打ち鳴らしながら神性獣が追いかけてくる。太い四足が勢いよく地面を蹴るたびに石畳がめくれ上がるのが見えて肝を冷やした。例えばあの脚で薙ぎ払われたら、ロカンポールでもひとたまりもないだろう。

 再び角を伸ばし始めた神性獣。あたしはポケットからごっそりと羊皮紙を取り出し、手当り次第に防御魔術を展開した。


 白百合文様の大盤振る舞い。ひらめく赤い軌跡が瞼の裏に焼き付いて離れない。毎晩夢に見るほどに練習したあの意匠が、正確に展開されてゆくのを見るのは心地良かった。

 展開してゆく側から破壊されてゆく、あたしの防御魔術。魔力の残滓がきらきら赤い雪のように舞って、消えて行った。

 追われていることも忘れて、あたしは機械的に手を動かしていた。ロカンポールたちの毛がふわりと首元をくすぐる。


「……あ」


 前方に緋色の槍が見える。神性殺しだ。来てくれた、その安堵感で全身から力が抜け、肩の痛みがじわじわと復活してくる。


「伏せろ!」


 その言葉に従って、ロカンポールに抱きつくようにして身を縮めると、すぐ頭上を槍が掠めて行った。背後で神性獣が凄まじい声を上げる。馬の嘶きを薬研で轢き潰したような、忌まわしい絶叫。まるで抗議するように地面を激しく叩いている。

 神性殺しは二人だった。どちらも男性で、あのきらきらした穂先を持つ槍を握りしめている。そのまま逃げろとどちらかが叫んだ。あたしは言う通りにした。


 刹那、ずどんと腹に響く轟音が耳をつんざいた。


「うわ……っ!」


 凄まじい風圧に、ロカンポールの群れが一瞬乱れた。その拍子に結っていたはずの髪がほどけて、風にばらりと散った。

 誰かが叫んでいる。痛みと恐怖に叫んでいる。

 振り返るのが恐ろしかった。自分が煽りに煽った神性獣がどんな面構えをしているのか、想像するだけで全身の毛穴が開いて、心臓がつめたくなる。

 でも、見なければ。


「……あ」


 それは美しい虎だった。正確に言うならば、長い牙をもつサーベルタイガー。

 神性獣の目は明けの明星に似た金色に染まっている。踏みしめた赤い槍はこの神性獣の雪のような体色を引き立てる為の差し色にしかならない。

 圧倒的な色彩はきっと、死をも超えた生き物のみに与えられる冠のようなものなんだろう。だってこんなにも目が離せないでいる。


 神性殺しの男たちは地面にうずくまって身動き一つしていなかった。咆哮一つで人間など容易くねじ伏せてしまえるこの神性獣の強さに、いっそ笑いが込み上げる。

 先程までの牡鹿に感じていたまがい物の印象は消え失せていて、この姿が神性獣のほんとうなのだと思い知る。神性殺しを前に本領発揮というところか。


 その白い虎は見せつけるようにあぎとを開いた。

 お前などいくらでも噛み砕いてやれるのだという強者の奢りが匂う。ロカンポールたちが一瞬怯み、群れの走りが乱れた。


 気高い腐肉漁りたちの怯えを感じ、あたしはむしろやる気になってしまった。


「その口を、閉じろ!」


 馬鹿みたいにぽかんと開けられた口の中に、白百合の文様を叩き込んでやった。追われる獲物は攻撃できないと思った? ざまあみろ、だ。

 防御魔術に相手を攻撃する能力はないのだが、柔らかい口内にいきなり銀盆を突っ込まれたようなものなのだろう。口から鮮血を零しながら、神性獣は狂ったように吼えた。


 とっくに買った喧嘩だ、今さらどうということはない。どうということはないのだが、手が震えるのは許してほしい。だってあたしは百戦錬磨の神性殺しじゃないのだから。


「逃げるよ!」


 ここまでくれば下手に抵抗するよりアルハンゲリスクになだれ込んでしまった方が速い。どうせ緊急避難指示も出ているだろう。あとはあそこの神性殺したちがどうにかしてくれる。もしかしたら瑠依さんもいるかもしれない。知らないけど。

 捨て鉢だろうか? どうでもいい。


 あたしは”ガーデナー”になれなかった。ネムが出来そこないの神性殺しならば、あたしだって出来そこないの”ガーデナー”だ。

 あたしと繋がる森はなく、あたしに応える森はない。


 ――けれど、自己満足だけれど、ここでセプ・ルクルムの森を守ることができたなら。

 あたしはきっと”ガーデナー”になれなかったことを恥じないだろう。

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