第18話 ネームレスの少年
「セプ・ルクルムの森……ですか」
あたしとネムは二人で神性生物対策班に呼ばれていた。
ターシャさんは封筒を二部あたしたちの方によこすと、
「そうなのよ。そこの”ガーデナー”から応援要請があったの。『森に何かいるから、見張りの為の人手が欲しい』ってね。管轄外じゃないかしらって思ったんだけれど、森の見張りならば槍が上手いあなたが適任だし、ミルカは”ガーデナー”見習いだったって言うじゃない? 二人ならちょうどいいと思って」
「師匠は?」
「彼は別件でもっと南の国境近くへ行って貰うことになってる。大丈夫、二人がいない間は私たちがしっかり彼を護衛するから」
「どうだかな」
ネムは大人びた口調で吐き捨てると、渡された資料をめくり始めた。あたしもそれに倣う。
「セプ・ルクルムの森かあ」
「知ってんのか」
「うん。南寄りの方にあるから、その”ガーデナー”には会ったことないけどね。風変わりな若い男性だって聞いた」
「そうねえ、頑固者とは聞いているわ」
でもこの人は高名な術士だったはずだ。さすが若い人は器用だねえとばあちゃんがしみじみ言っていたのを覚えている。だのにギルドに協力を要請しないということは、破門になったんだろうか。
セプ・ルクルムほど巨大な森の”ガーデナー”になるくらいだし、あのげんなりするほどの上下社会になじめなかったのかも。
「二人ともオッケーね? 多分二週間くらいで終わると思うわ、頑張ってね」
ターシャは親指をぐっと上げると、慌ただしく部屋を出ていく。
渡された封筒の中身を確かめる。依頼概要にチケット、交通情報、”ガーデナー”の情報と行く場所の予備知識がまとめられてある。
「バスで行くのか」
「列車のあとにバスって感じだね。チケットもある。……って今日の二時の電車!?」
慌てて時計を見れば時刻は既に十二時を回っている。当然、何にも用意をしていない。一度家に帰って駅へ向かうとして、荷造りにかけられる時間は全然ない。
「あ、あたし急いで家戻んなきゃ」
「そんな暇あるか? 身の回りの物だけ駅で買った方が早ェだろ」
「だめ、今日ばっかりは絶対にだめ。行く場所がセプ・ルクルムだよ? あたしも武器を持ってかなきゃ」
「武器ぃ? セプ・ルクルムってそんなヤバい場所なのかよ」
「当たり前だよ、だってセプ・ルクルムって――埋葬所って意味だもん」
家へ戻って荷造りをし、それから駅へ向かってものすごい全力ダッシュをした。発車まであと五分というところでホームに滑り込み、なんだちょっと余裕あるじゃんとキオスクで飲み物を買ったのが馬鹿だった。
「ばか、ハッキネン!」
「うわわ」
あとちょっとでドアが閉まる、その瞬間ネムが強く手を引いてくれたおかげで、どうにか乗車することができた。
「お前次こういう真似したら置いてくからな!? 飲み物なんて車内でも売ってんだから!」
「だって、車内の、高いんだもん……」
肩で息をしながら、切符の示すコンパートメントへ向かう。時季外れのせいか、六人掛けのコンパートメントにはあたしとネムしかいなかった。
ネムはいつものずた袋を隣に置き、窓際に座る。あたしも向かい合うようにして座った。あたしのボストンバッグをちらりと見て、ネムが尋ねる。
「で、セプ・ルクルム用に何を持ってきたんだ」
「これ」
バッグを開けて取り出して見せたのは、岩塩の袋だ。何か凄いものでも出てくると思ったのだろう、ネムは少し拍子抜けした様子で、それこそ売店でも買えただろうと言った。
「ううん、岩塩じゃないとだめなんだよね。セプ・ルクルムが埋葬所って言われてるのは、死体がそこにあるからじゃなくて、人間の死体を好んで食べる動物――ロカンポールがいるからなんだよ」
「……死体? 生きてる人間の肉じゃなくて?」
「うん。程よく腐った人間の肉が好きなんだって。グルメだね」
「おえ、なるほど」
「ロカンポールは生きた人間は襲わないんだけど、お腹が空いてるときはそうじゃないんだって。万が一襲われた時はこの岩塩をまいて、そいつが舐めてる間に逃げるの」
ネムは気持ち悪そうに塩の袋を見ている。
「それをまかなくて済むことを祈る」
「あたしも。これ、ネムの分ね」
小分けにした袋をネムに渡すと、彼はいそいそとジャケットの内ポケットにしまっていた。
これから電車に揺られて一時間、加えてバスで三十分で着くはずだ。そう考えれば意外とアルハンゲリスクからそう離れていない。直線距離で言ったら多分結構近いと思う。
平日の昼間とあってか、他の乗客はほとんど見当たらない。ネムの翡翠のような目がぼんやりと外を眺めている。
「……ネームレス」
呟いてみれば、ネムはちょっとばかり呆れたような溜息をついた。
「やっと聞く気になったか」
「ネームレスって、ネムのことなの」
「そう。名前がないという意味でのネームレス(名無し)。それを縮めて、ネムと師匠は呼んでる」
「なんで、そんな……」
ネムは言葉を選ぶように唇を舐めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「神性殺しは、オブシディアンから槍を与えられて初めて神性殺したりうる。けれどその槍は、人を選ぶ」
「人を選ぶ……。神性殺しとして訓練されても、槍が持てない人がいるってこと?」
「そうだ。何が基準かは分からない。生まれか? 育ちか? 元々持っている魔力の質か? 誰にも分からないグレーな基準によって、神性殺しになるか否かが決められる」
「何だか、納得しづらいね」
「けど、槍は絶対だ。槍が握れなければ神性獣を殺せない。何もできない」
ネムは淡々と言う。それは真実かもしれないけれど、神性殺しになる為に頑張ってきた人にとっては受け入れがたい事実だろう。
「俺は槍を握れなかった」
「……」
「俺は親を知らない。神性殺しを育てる為の機関で育てられ、十五歳の時に槍を握れるかどうかの試験を受けて、落ちた」
「そんな……もっと前に分からなかったの?」
「槍が十五歳より若い人間を選ぶことは極めて少ない。ああ、それこそお前の好きな“白銀の大使”は十三歳で槍を握って十四歳の時から前線に出てたらしいけど」
「……でも、それじゃあ、ネムみたいな人がいっぱい生まれてしまう」
「レベルの高い神性殺しを一定数確保する方が大事だ。この都市を守るために」
理解はできるが納得はできない。神性殺しを確保する為に、ネムのような行き場のない人間をたくさん生み出すのは、効率的とは思えない。
「だから俺はネームレス。槍を握れなかった神性殺しもどきだ。機関にいたときは番号で呼ばれてたから、まあ、名前がついただけでも進歩だろ」
名無しという名前は名前がついたことになるんだろうか。きっと瑠依さんもおんなじことを考えて、だからネムという名前を彼につけたんだ。
「“もどき”は、神性生物対策班の中でも、警備員とか研究員になるのが普通なんだが、俺は中途半端に槍の扱いが上手くて、候補生の中でも無意味に目立ってたからな。なかなか次の仕事に行く踏ん切りがつかなくて、何度も槍を握ろうとしては、拒絶されてた」
だからシーラが彼の存在を知っていたのかもしれない。槍術の達者な、神性殺しになれなかった男の子。
「で、たまたま神性簒奪者として一緒に仕事した師匠を助けたら、俺の腕を高く評価してくれて。師匠となら、俺の槍の腕も腐らねえだろ? ってな経緯で、師匠んとこで働いてる」
「そうなんだ。……どうして師匠って呼んでるの?」
「師匠は俺に色んなことを教えてくれたから。人を観察して懐に入り込む方法とか、女の口説き方とか、銀行口座の開き方とか、契約書の読み方とか。……俺、師匠んとこで働くまで、スーパーでどう野菜を買っていいかも知らなかったんだぜ」
槍を扱い、神性獣を殺すことしか知らなかったネームレスに、日常を生きていく術を与えた。ネムという名を贈った。ならば確かに瑠依さんは師匠なんだろう。
ほんとうはこんなことを思うべきではない。
けれどあたしは確かに思ってしまった。
「いいなあ」
「どこが」
ネムが苦笑する。出来損ないのネームレス、蔑みこそすれ羨む道理はないだろう。彼はそう言うけれど、出来損ないですらないあたしから見れば、彼の腹の据わり方が羨ましかった。ネムという新しい名で、新しい役割をきちんと生きている彼の、まっすぐな視線が痛かった。
「あたしは”ガーデナー”にもなれなかった。高校も出れなくて、どこかの門徒にもなれなくて。術士だって胸を張って言えるほど、魔術に長けてるわけじゃないし……」
「でもお前の防御魔術は、神性獣をも凌いだ」
「三時間もかければ、きっと誰だってできるよ」
「アルハンゲリスクには、例え時間をかけたとしても、あんな大規模な防御魔術を展開できる人間はいなかった。お前以外には」
ややあって、名前が欲しいのか、とネムは問うた。
「”ガーデナー”とか、神性殺しとか、どこかの門徒だとか、そういう肩書きが欲しいのか?」
「……分かんない」
自分が何になれるのか、何になりたいのか、全く分からない。ばあちゃんが生きていた時は、”ガーデナー”になるのがほぼ確定していて、これからどうすればいいか悩んだことなんてなかったのに。
「ばあちゃんを殺した犯人が見つかってから、ゆっくり考えようと思ってたんだけど。どうもうまくいかないの。一つのことに集中しようと思っても、色んなことがボコボコ浮かんできて……」
「まあ、神性生物対策班にいると、聞きたくもない情報がたくさん入ってくるからな。師匠が前の大使を殺した、とかさ」
弾かれたように顔を上げれば、にやりと笑うネムの視線とかち合う。
「お前、それでずっと悩んでただろ」
「う、うん、なんで分かるの」
「分かりやすいんだよなあ、お前。でっかい目でじいっと師匠見てんだもんよ、師匠も途中で苦笑してたよ。聞いてくれればいいのにーって」
「だ、だって」
ネムが笑い飛ばしてくれたので、なんとなく気持ちが楽になった。
「殺した、ってことにされてるだけだ。そもそも本当に殺してたなら、今頃師匠は刑務所にいる」
「そうだよ、ね……。そうだよね、良かった」
「ところが事態はお前が思うほど良くはない。師匠のせいで、前の大使がオブシディアンによって神性を付与された人間であることが分かってしまったから」
人間にも神性は付与できるのか、などと間抜けなことを思ってしまった。そりゃあそうだ、人間だって生き物なんだから。
「オブシディアンと人間の間にはいくつかの約束事がある。槍を与えるとか、神性獣が落下する際は最低でも三十分前には警告するだとか。まあ勿論全部は守られちゃいないんだが、その中の一つに、人間に神性を付与するな、っつうものがある。これはオブシディアンも結構きちんと守っているルールだった」
不老不死の人間を増やしても、オブシディアンには意味がないんだろう。
「だけど、その大使の人には神性が付与されていて、瑠依さんがその神性を……はく奪してしまったってこと?」
「そう。その大使は師匠に極力触れないようにしていたらしいんだが、ちょっとしたアクシデントで触ってしまった。そうしたら神性が剥げてしまった」
大使とは人とオブシディアンを繋ぐ存在だが、人間サイドに立って物を言うべき存在である。その人間に神性が付与されていたとなると――それは果たして人類の代表たり得るのだろうか?
その人が今までどれほど良い大使だったとしても、神性を有していた時点で全ての印象は反転する。
「大使には神性が付与されていた――。その大使がどんな立ち位置だったにしろ、それを明るみにしてしまったのが瑠依さん、てことだね」
「そう。大使としての仕事上仕方なく神性を付与してもらったのか、自ら望んで付与されたのか、それは今となっては分からない。運悪く居合わせた首相が、けしからんと言ってその人を殺してしまったから」
まさか首相が殺したということにもできず、瑠依さんが全ての罪を被った形になったのだろう。瑠依さんのことだ、理不尽な扱いも受け入れてしまったんじゃないだろうか。
だから皆瑠依さんを嫌う。嫌うというより、敬遠している。何となく瑠依さんを取り巻く環境が把握できた。
「……あー。もしかして、瑠依さんと今の”白銀の大使”は、その事件より前に付き合ってた?」
「おっ、どうして分かった?」
「神性簒奪者の恋人――ってことは、少なくとも大使就任時には神性を付与されていないということがほぼ確定するでしょう。例え彼女がどんな厳格な信仰を持っていたとしても、手を繋ぐくらいはするはずだもんね。それにオブシディアン側からしてみれば、何かあった時の人質にもなる。彼女を大使にすれば、神性簒奪者の瑠依さんは好き勝手な真似ができなくなるから」
人間に神性が付与されているのかどうか、見た目からでは分からない。判別する方法はただ一つ。
瑠依さんがその人に触れること。つまり瑠依さんにしかそれは分からないのだ。
「珍しい、ハッキネンにしちゃ良い読みだ。そう、師匠は面倒を起こしかねない爆弾として、ほぼ全ての奴らから嫌われている。一部の過激派は殺せとまで言ったそうだ。十三の門閥たちは、師匠という『爆弾』を少しでもコントロール可能なものとする為に、その恋人を大使にした。五年前の話らしいぞ」
「……」
首相に代表される政治家たち、神性殺しに代表される神性生物対策班たち。そして十三の門閥。彼らが瑠依さんを嫌うのは分かった。
彼が真実をつまびらかにしてしまうから。神性というヴェールを容赦なく剥ぎ取り、全てを白日の下に晒してしまうから。
大使を殺したという濡れ衣を着せられているのもそのせいだろう。
だがオブシディアンはどうだろう。図書館の焼け跡で会ったあのオブシディアンの言を借りれば、瑠依さんは彼らにとってさしたる脅威ではないはず。であれば、瑠依さんを嫌う理由が分からない。
アルハンゲリスクの人間と仲良くしたかったのに、瑠依さんがそれに水を差したから? 大使と上手く行っていたのに、それを瑠依さんが台無しにしていたから?
やっぱり鍵になるのはオブシディアンだ。
そもそも、そもそもである。なぜ彼らはアルハンゲリスクの上にミネルヴァを作った? どうして不老不死の戦闘狂なのに、あたしたちに構うのだろう?
あたしだったら自分の足元にある街なんて気にしない。だって彼らは不死たる自分たちを害する術がないのだから、下にいくら神性獣が落ちたって構うものか。必要があればアルハンゲリスクなど焼き尽くしてしまえばいい。
瑠依さんが邪魔? それなら瑠依さんを先に片付ければ万事オッケーだ。魔術を使えないたった一人の男の人くらい、オブシディアンにとっては虫けら同然だろう。
「……あんまりよく分かってないけど、何だか入り組んでそうなことは分かった」
「俺も同じだ。そしてどんな展開になるにせよ、師匠が鍵になってくる」
「うん。この世でたった一人の神性簒奪者」
「分かるな。だからお前が必要なんだ」
あたしは頷く。頷いてから、その首がぐらりと傾ぐのを覚える。
「……できるかなぁ~」
「できるかな、じゃねえんだよ。やるんだ。やりきるんだ」
「うん、そう、そうだよね……」
根性論は好きではないが、この際ネムの言う通りに考えるしかないのだろう。うだうだと悩みこんでしまうのはあたしの悪い癖だ。
「ネム。教えてくれて、ありがとう」
「気にすんな。いずれ言わねえとって思ってたから」
ふいと窓の向こうに視線を差し向けたネムの頬に、くるくると自由な毛先が垂れかかっている。そうするとやけに幼く見えて、少しだけ驚いた。
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