第15話 王宮庭園の巫女
ここひと月のあいだに分かったことがある。
ターシャさんは意外と、鬼である。
「おはよっ。じゃあ今日はこのコンテナからよろしく」
「は、はい」
「ミルカの防御魔術はやっぱり強いよ。それにやっぱりたくさんのコンテナに展開できるのが大きいよね。こないだの十三区の神性獣落下の時もスムーズに避難できたって言うし、この調子で頑張って!」
「ありがとうございます」
あたしの防御魔術が役立つのは喜ばしい。誇らしい。ばあちゃんの孫として恥ずかしくない振る舞いができているとは思う。
けれど実際問題あたしの魔術はひどく非効率的で、三時間かけてようやくコンテナ一つに術式を付与できるのだ。つまり一日フルでやっても三つが限度。
加えて、一度魔術を展開したコンテナにはメンテナンスが必要だ。二週間にいっぺんは見て回る必要がある。結果として予想以上の時間を対神性対策班の本拠地で過ごすことになった。
幸いにして瑠依さんはしばらく書類仕事などに追われている為、出張にはしばらく出ないことになっていた。その間だけの限定期間だが、あたしも一応神性生物対策班の末席の末席の末席、くらいには座れることになったのである。
対策班は大きなシンメトリーの建物で、最初大学と間違えたくらい歴史ある建物だ。何でもかつてはアルハンゲリスクの議会が開かれていたところなんだとか。
でも中身は結構近代的だ。入館のたびに手荷物チェック・身体検査がされるし、渡されるIDカードのランクによって出入りできる部屋が変わってくる。あたしはターシャさんに同行して貰わないとほとんどの部屋に入れなかった。
「それ終わったらお昼ね。今日の社食のメニューはキノコスープにカツレツだから、がんばろーね!」
「はいっ」
キノコスープ、作り置きしてきたのと被ったな。瑠依さんやネムが完食してくれていたらいいけれど、残ってたら夕飯に食べなきゃいけないよなあ、昼と夜とメニューが同じになっちゃうなあなどと考えながら、コンテナの前に立つ。
今日は本で見たあの文様をやってみよう。いつまでも蓮花文様では芸がない。
「さあ、仕事を始めるわよ!」
ターシャさんのエネルギッシュな声が弾けた。
*
「うーん……」
一抱えほどもある本を食堂のテーブルに広げ、図案を覗き込む。
間違ってはいないはずなのだ。線の間隔も濃度も配置のバランスも、昨日確認したものから相違ない。なのに、術式がうまく作動しない。展開しようとするとばたばたっと内側に折れ込んでしまって、防御魔術の体裁を成さなくなる。
「鷹の意匠だからかなあ。鳥はだめかな、守りには適さないのかも……。っていうかそもそも動物の意匠って攻撃に使われるものだし、植物の方が馴染むかな」
パンを細かく千切りながら考える。どうすればいい。蓮花文様は確かにあたしの持つ意匠の中では一番強いけれど、時間がかかりすぎるのだ。
ふた月アルハンゲリスクに滞在してみて思ったけれど、神性獣の落下は意外と多い。しかも落下してくるのは神性獣だけに留まらない。神性獣をどうにか倒して緊急避難警報を解除した瞬間、オブシディアンの武器だの武具だのが落下してきたこともある。
こんなときにあたしが即時に、少なくともそう時間をかけずに防御魔術を展開できれば、人への被害はぐっと減る。建物の損壊だって最小限に抑えられるかもしれない。
本当に瞬間的にならば防壁のようなものを展開できる。でも効果としては平手打ち程度のもので、せいぜい落下物の軌道を少し逸らせるくらいだ。現実的な解決策ではない。
あたし以外の術士も勿論防御魔術を展開できるけれど、それはあたしほどの強度を持たない。別にあたしの方が優れているとかそういうわけではなく、ただあたしがこういう環境に慣れているというだけの話だ。
ゆえに、あたしの防御魔術はとにかく時間の短縮を求められていた。
確かにそこは自分でも課題だとは感じている、けれどだからといって、オッケー了解短くします、というようにはいかないのだ。魔術を展開するクセだとか、魔力の注入の仕方だとか、思考回路とか、とにかく色々なものを組み替えなければならないので。
「……うーん、だめだ。ご飯に集中しよう」
考えながら食べても、本にスープの染みを作るのがせいぜいである。あたしはナイフを取って、バターたっぷりのカツレツに挑んだ。
昼食を終えてから、仕事場として与えられた二番倉庫へ戻る。食堂から二番倉庫に戻るにはエレベーターを使い、訓練用フロアを抜けなければならない。忙しいターシャさんがわざわざあたしを迎えに来てくれなくてもいいように、ここだけはあたしでも入れることになっていた。勿論訓練ブースには入れないし、立ち止まっているだけでも不審者扱いされるだろうけれど。
エレベーターで訓練用フロアに下り、IDカードで訓練用ブースを抜けようとする。
「……あれ」
何度試しても拒絶されてしまう。赤いランプが着くばかりで扉は一向に開かない。
仕方がない、食堂に戻って誰かに開けてもらおう。そう思ってエレベーターに戻ったのだけれど、何度押しても動く様子がない。階数のボタンが反応していない。
「あれ?」
何度も試したが、扉は開かないしエレベーターは動かない。
「……つまり、どこへも行けない、ってこと?」
コンクリートの無機質な壁を睨みながら言っても、答えは返ってこない。
仕方がない。誰かエレベーターの異変に気づくまで本でも読んでいようと、近くの長椅子に腰かけた。
「はっはーん? 君は随分のんき者と見た。オルトラタイムってやつかな?」
「……は?」
どこかからくぐもった声が聞こえてくる。その声はからかうように、
「エレベーターも使えない、訓練フロアへも行けないんじゃあ、にっちもさっちも捗るまい。君は今閉じ込められているんだ。だぁれも来なかったら、ずぅっとここにいるはめになるんだよ?」
「だ、誰?」
「ははん、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ! ということでそこの掃除用具入れのドアを開けてごらん、しるぶぷれ?」
手の込んだ悪戯だろうか。けれど確かにドアがある。今まで気づかなかったけれど、エレベーターのすぐ脇に、細長いベージュ色のドアが。壁の色に紛れていて、分かりづらかったようだ。
恐る恐る扉を開けてみると、果たしてそこには。
「ハローハロー、ミルカ・ハッキネン! お困りのようだね?」
ゴミ箱をデスク代わりに、凄まじい勢いでパソコンをタイピングしている一人の女性がいた。右目にだけオラクル――片眼鏡をつけている。
長い金髪はくるくると軽やかにウェーブを描き、小さな卵型の顔をほとんど覆い隠してしまっている。前髪が邪魔なのだろう、そこだけ真っ赤なピンで留めているさまは小鹿にも似て愛らしい。
くるくる動くロイヤルブルーの瞳と、つんと尖った赤い唇がとてもかわいらしくて、こんな掃除用具入れにはあまりにも似つかわしくない晴れやかさを全身から放っていた。
もっと身なりに気を使えばとても綺麗になると思う。田舎娘に言われたくないだろうけど。
「あの、あなたは」
「私はシーラ。国立王宮庭園で働いている者だ、宜しく頼むよハッキネン」
「宜しくお願いします……。あの、どうしてあたしの名前を?」
「そりゃあ君、常盤瑠依に出来損ないのネームレスと一緒にいる少女だ。有名にならんはずがなかろう。加えて君の防御魔術は、神性獣から建物一戸を守り切ったという実績がある。個人的にはあんな執拗な文様は好みじゃないがね!」
シーラが滔々と語りながら体を揺らす。そのたびに、片眼鏡と彼女のジャケットを繋いでいる金色の細い鎖が、さらさらと美しく揺れて音を立てた。
「しかも君は田舎の出だ。大卒どころか高卒の資格も満足に持たず、十三の門閥いずれにも属さない。何たる流浪の民、何たるマイノリティ。歯牙にもかけられぬ身分でありながら、ここに出入りすることを妬む者のなんと多いことよ!」
芝居がかった物言いが多いので分かりにくいのだが、彼女があたしを悪く思っていないことは何となく理解できた。悪く思っていないというか、あたしに対する好奇心が圧倒的に勝っているというか。
「シーラはここで何をしてるの?」
「仕事だ。ハードワークこそアルハンゲリスク市民の当然なる義務だからね」
「どうして掃除用具入れで?」
シーラは黙って手招きする。恐る恐る近づくと、彼女がそっと扉を閉めた。
密室。暑くもなく寒くもなく、掃除用具特有の嫌なにおいもない。
何をしようというんだろう。尋ねようと口を開きかけたが、シーラの悪戯っぽい笑みがそれを制止する。彼女はにまにま笑って、傍の排気口を指差していた。
『……で、あの田舎女はまだ立ち往生か?』
『誰も開けられないようになってるもん。いい気味だよね。大体どこかの門徒でもないヤツが、神聖なこの建物に入ってくるなって感じじゃない?』
『言えてる』
訓練用フロアは訓練用の個室がいくつか並んでいるのだが、その中での会話のようだ。つまりは盗み聞き。
「あんまり良い趣味じゃないね」
「そう言ってくれるなよミルカ。何しろ君が閉じ込められそうというのもここで聞きつけたんだから」
「え?」
「誰とは言うまいがね、君のカードキーだけを弾くよう入室管理システムを弄り、エレベーターを止めてしまった犯人は不用心にも訓練室で悪事を企んでいたようだ。個人的にはお前たちの情緒はキンダーガーデンで止まってしまっているのかと尋ねたくなるほど幼稚な発想だと思うがね!」
「閉じ込める……? それくらいなら大した悪事じゃないんじゃない」
「おやおや聖人君子の真似事かな? あんまり面白くはないな」
「面白がらせようと思った覚えはない」
「つれないねえ。まあいい、先般聞こえた通りの話だ。君は酷く妬まれているし、恨まれている。なぜだか分かる?」
妬まれ、恨まれる要素がどこにあるのか分からずぽかんとしてしまう。するとシーラはけらけら笑いながら、
「やっぱり君はのんき者だ。君のおばあさまは、君を疎ましく思う者たちへの対処法は教えなかったと見える」
「疎ましく思うのは、やっぱりあたしが高校も出てなくて、門徒じゃないからなのかな」
「それもあるだろう。人間はどうしたって自分と毛色の違う生き物を警戒する。ここの連中は大体が申し分のない経歴を持っているからね。しかし君はのんき者の田舎娘だが無能ではない。何しろあれほどの文様を展開してのけるのだから!」
「……」
「そもそも君が無能ならばあの常盤瑠依が引き取ったりなどしないだろうし、忠犬のネームレスが許すまい」
「あの、ネームレスって?」
「あれ、ご存知でない? 君がネムと呼んでいる少年のことさ。あれこれ言っちゃいけなかったやつかな。まあいいや、ともかく君はここで目立ってしまっている。大いにね」
「はあ」
「うーん打てども響かぬこの反応。君の逆鱗がよく分からん、君の望みがまるで見えん」
「望みなんて、そんなの決まってる」
ばあちゃんを殺した犯人を見つけたい。
そう呟けばシーラは一瞬呆気にとられてから、悪戯っぽく笑った。
「いいねえその顔、急に引き締まって来たよ」
そのにやにや笑いを見ていると、初対面の人にかっこつけてしまった気恥ずかしさがむくむくとこみあげてきた。
「まあ、あとは魔術の展開速度を早くしたいかな」
「ほほう、だからそんなに分厚い本を持ち歩いているんだね。見せてごらん、それなら私が少しばかり手伝えるかもしれない。明るい場所へ行こう」
シーラはパソコンを閉じると立ち上がった。そのまま二人で掃除用具部屋を出る。
「でも、誰がこんなことをしたんだろ」
「神性殺しもどきのひよっこどもだろう。君の特権待遇がねたましいのさ。自分たちはまだ前線に立てないのに、こんな田舎の小娘が防御魔術なんて大役をこなしてる! しかもそれがどんな価値を持つかも知らないで、当然みたいな顔をして! ……という思考回路なわけ、理解できる?」
「どうにか」
「よろしい。では理解したなら速やかにそのことは忘れてしまいなさい。誰かの足を引っ張らずにはいられない未熟者にかかずらっている暇はないのだ、私たちにはね」
どれ、と言ってシーラは本をひったくると、眉をひそめた。
「なんだこの古本は。出版年が二十年も前じゃないか、こんなものを教科書に使うものじゃないよ。著者のチョイスはまあ悪くはないが」
「ばあちゃんとこれでずっと勉強していたから」
「ははん! なるほど君はここの図書館に入れないのだな。仮にも”ガーデナー”に片足突っ込んでいたというのに何たるザマだ。ターシャのヤツめ、手を抜いたな」
小作りな、童話に出てくるお姫様みたいに品のいい口元から、男みたいに乱暴な言葉が飛び出てくるのが不思議だった。
「とりあえず本を変えなさい。ターシャに言ってここの図書館への入館許可を貰えるように計らっておこう。なに、また他人からやっかまれるだろうが気にしないことだね」
「いいの?」
前にちらりとターシャが話していた。神性殺しも出入りする図書館は、最高度のセキュリティが組み込まれてあるんだとか。ターシャでさえもアクセスできる書架は限られてると聞いた。それくらい学術的に意味のある蔵書があるのだとも。
「当たり前だろう。古いものが全て低レベルとは言うまいが、意匠学及び文様分析については圧倒的に研究が進んでいる。君のおばあさま――シドゥリ・ハッキネンは、そりゃあ優れた”ガーデナー”だったが、術士としての腕はそれほどでもなかった」
「ばあちゃんを知ってるの!?」
「当然だ、オルトラの”ガーデナー”だろう。要所だった。人間で言うならば肺に近い。彼女を――シドゥリを欠いたのは痛手だ……」
独り言のように言うと、シーラはあたしの顔を覗きこんだ。
「最近、夢を見るんだ。誰かが。何ものかが。まるで音もなく卵を狙う蛇のように、私たちを狙っている……。そんな夢をね」
「え……」
「正夢に、なるだろうか。私の見る夢は胡蝶となりて現実に羽ばたくか?」
その顔は今までの浮かれた言葉とは全く違う、切実なものだった。あたしは思わず片眼鏡越の彼女の瞳を見つめ返す。
けれどシーラはにこっと笑って
「……なんてね! いずれにせよ鍵になるのは常盤瑠依だ。君がおばあさまを殺した犯人を追おうとするならば、きっと彼の元にいるのが一番良いんだろう。彼は良薬にして劇薬、良くも悪くも色んなものを惹きつける体質だからね!」
シーラの立て板に水な喋り方で流されがちだけれど、この人はとても色んなことを知っているということは分かった。だから今まで疑問に思っていたことをぶつけてみる。
「瑠依さんのこと、詳しいの?」
「あれは見境なく口説いてくるからねえ……。それに神性簒奪者だ」
「それ、それなんだ。あたしどうして瑠依さんがあんなに嫌われてるのか全然分からないの。確かに神性簒奪者だけど、あれほど嫌われる道理が分からない」
「それはだな、非常にセンシティブな問題なんだがゆえに一言で言ってしまおう! 答えは簡単、彼が前の大使を殺してしまったからだ」
「殺して……?」
「そう。――五年前の、十二月だ。酷く寒い夜だった。そんな夜にパンドラの箱を開けてしまった彼が最後に手にしたものはなんだろうね」
「……希望?」
シーラは首を振る。
「残念ながらそっちの意味じゃない。彼が、私たちが手にしてしまったのは”予兆”だ。全てを揺るがす大地の
歌うように言ってシーラは立ち上がる。エレベーターが稼働する低い振動音が聞こえてきた。
「誰かがエレベーターを復旧させたようだね。あそこの扉も開くだろう。仕事に戻りなさい、ミルカ」
「え、あの、でも」
「私に会いたければ国立王宮庭園に来るように。ではまたいずれ!」
エレベーターの扉が開いて、数人の職員が降りてくる。シーラはするりとカーゴの中に入り込むと、にっこり笑って行ってしまった。
「……瑠依さんが、大使を」
あたしは本当に何にも知らないのだ。皆があたしをオルトラの田舎娘と揶揄するのも、一部では正しい。一部どころかほとんど正しい。あたしは本当に物を知らない。
それだけじゃない。お世話になっている人が人を殺したことがあると言われても、それが嘘であると言い返すだけの度胸も自信もないのだ。
急に自分がどうしようもない人間になったような気がして、鼻の奥がつんとなる。新しい文様に挑戦するなんて夢のまた夢だ。
仕事に戻れるだろうか。せめて、手を動かし続けていないと、恥ずかしさと罪悪感でどうにかなってしまいそうで、あたしはのろのろとターシャさんの元へ戻った。
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