第13話 ミネルヴァ

 瑠依さんは焼け跡を九つのブロックに分けた。

 瓦礫をかき分け、灰を手でさらい、燃え残っている本を探す作業はあたしとネムが行った。その中で燃え残っている本があれば、外見と中身の写真を撮り、タイトルを記録してから、瑠依さんに触らせる。


「触るよ、ネム」

「はい」


 瑠依さんが灰を被った本に触れると、彼の指先がほんのりと黒みを帯びた。灰で汚れたのとは違う、夜闇に指を浸したような色だ。それは瞬く間に消え失せ、瑠依さんの指先は元のような象牙色に戻った。

 すると、ネムが持っていた本がさらさらと灰になって崩れ落ちてゆく。燃えるというよりは朽ち果てるといった様子。その灰も陽光にきらめいて消えていってしまったので、そこに本があったという痕跡はなくなってしまった。夢を見ているみたいだ。最初から本なんてなかったんじゃないか。


 今のが、神性を簒奪するということか。


「すごい」

「すごいかな?」

「はい。吸い取った神性はどこへ行っちゃうんですか?」

「どこだろうね? 考えたことないや」


 あたしの神性簒奪に対するイメージは掃除機のようなものだった。吸い取った神性は纏めて捨てなければならないのでは、と考えていただけに、瑠依さんの返事は意外だった。


「体調とかにも影響はないんですか……?」

「ないない。ほら、時間も限られてるんだし、てきぱきやってこう。軍手が汚れたら取り換えてね」


 瑠依さんは瞬く間に仕事を終わらせてしまった。最後のブロックに取り掛かった頃には、灰だの墨だので皆すっかり汚れてしまっていたけれど、目はだんだん慣れてきて、すぐに本を掘り出すことができた。

 その中でもひときわ大きな本――恐らくは写本だろう、分厚い革で装丁された古い本を見つけ、触れた瞬間だった。


 眼前に本の群れが林立している。神性を帯びて炎への耐性を得た革張りの本たちがずらりと空中に居並び、こちらを睥睨している。

 本の幽霊。瑠依さんが神性を奪い、この世から灰も残さず消えた本たちの。

 薄い膜を一枚隔てた向こう側の存在のように思う。本を凝視していると自分の輪郭がぐうっと濃くなって、代わりにあたしを取り巻く世界がぼやけてくる。周りの声がうまく聞こえなくなって、ただ羊皮紙を繰るさらさらという音ばかりが耳をくすぐっている。

 あたしは本のさえずりに引き込まれるようにして右足を踏み出した。


 踏みしめたのは焼け跡ではなかった。


「うわ……!」


 耳元で風が吼え狂っている。足元には千切れた雲が散らばり、頭上にはさかさまになった都市があたしを押し潰すように浮かんでいた。


 不思議と白昼夢を見ている自覚があった。都市は静かにあたしの方に近づいてくる。いや、近づいて行っているのはあたしの方か。区別がつかない。


 天空に浮かぶさかさまの都市は、忠実なアルハンゲリスクの写し絵だった。どういう理屈か知らないけれど、運河の細かな支流まで再現している。もっともその水は流れることなく、水銀みたいにてらてらと光っているだけだったが。

 けれどよく目を凝らせば、その水銀のような色の奥には、別の空間があるように思える。樹木の影がちらちらと映ずるのだが、何があるかまでは伺い知れない。

 建物の年代まで再現しているのだろうか、古びた時計塔の横を通り過ぎると、外壁から煉瓦のかけらがぽろぽろと剥がれ落ちた。

 適切に歳を重ねてきた都市。アルハンゲリスクの外見そのものだが、強烈な違和感があった。

 入れ物は確かに模倣できている、けれどそこに入っているものがまるで違う。パンを焼くかまどがあっても、パンを焼く人や食べる人がいなければ意味なんてない。


「ここは……ミネルヴァだ」


 鏡合わせの都市。オブシディアンの住まう場所。


 アルハンゲリスクで言うならば、目抜き通りに当たる広い通りを、滑るようにして金色の光が過ぎ去ってゆく。よく目を凝らせば人らしき輪郭が見えた。

 あれがオブシディアンだろうか。

 金色の光は一瞬足を止めると、そのままふわりとこちらへ近づいてきた。


「まぶしい……」


 瞼を閉じていても、びかびかと容赦ない光が突き刺さってくるようだ。迷惑。


「お前、……ああ、幻か。ここへ迷い込むのは止した方がいい」


 少年のようにみずみずしい声だった。光が弱まったような気がして、そっと目を開けてみる。

 好奇心も露わにこちらを見ているのは、金色の瞳を持つ青年だった。黒いコートのようなものを纏い、腰回りにはシンプルなエナメルのベルトを着けている。帯刀する刀には、金と赤で織られたタッセルに、複雑な組文様の飾りが着いていて、優雅に揺れていた。


 プラチナブロンドの頭には、尖った王冠のようなものが載せられてある。よく見ればそれは髪と一体化しているようだったので、どちらかと言えば角に近いものなのかもしれない。雄だけが持っている器官だろうかと思ったけれど、生殖しないのだから関係ないか。

 真っ白なかんばせはいっそ恐怖を覚えるほど整っていて、隙が無い。美しいという言葉だけでは収まりきらない気迫と、生命力と、揮発しそうな狂気に満ちていた。


 これがオブシディアン。


 死なず老いずのバケモノ。戦闘狂。


 人間に害を及ぼさないというけれど、ほんとうだろうか? この人の前ではあたしなんて虫みたいなもので、潰しても潰さなくても問題ない存在なんじゃないだろうか。自分の生死がこの人の胸先三寸で決まるのかと思うと、何だかむかむかしてくる。

 文句の一つも言ってやりたいところだが、琥珀めいた瞳がじいっとこちらを見つめているせいで、動けない。魔狼の魔眼とはまた違う、進んでひれ伏したくなるような威圧感を感じる。

 長い金色の髪を結うこともなく遊ばせているその青年は、穴が開くくらいあたしを見つめてから、ほうと興味深そうな声を上げた。


「懐かしいにおいだ。それに、あの常盤瑠依と行動を共にしているとは」

「あの?」

「神性簒奪者。理屈で言うならば我らオブシディアンにとっての天敵である。もっとも彼奴がどこまで我らの神性を害することができるかは分からんがな」

「天敵……。オブシディアンとしては、瑠依さんはいなくなってくれた方がいいってことですか」


 もしかしたら、瑠依さんを疎んじる人の中には、オブシディアンも含まれるのかもしれない。そう思って尋ねてみたが、そのオブシディアンはうっとおしそうに手を振って、


「阿呆が、それではまるで我らが彼奴を恐れているようなものではないか。理論上は天敵だが、我らの神性を彼奴一人で奪い去ることは不可能だ」

「不可能ですか」

「応。そも、我らにとって神性とは人間における血液のようなもの。少々奪われたところで直ちに存在が危ぶまれるほどのものではない。神性獣程度と一緒にするな」


 不機嫌そうな声と共に、オブシディアンの足元からごうっと炎が立ち上る。オブシディアンは怒ると燃える。癇癪かんしゃくが可視化されているようで、なんとなく面白い。

 話を聞く限り、神性獣にとって、神性はいわゆる鎧みたいなものなんだろう。神性獣に限らず、神性を付与され不死性を得たものは。


 けれどオブシディアンは、全身丸ごと神性でできている彼らは、ちょっとくらい神性を取られたってすぐ死んだりはしない。そういうことだろうか。


「我らにとっての敵は命あるものではない。そうではない、そんなものが敵ならば、我らとて……」

「じゃあ何が」


 言いかけて気づいた。白昼夢が終わろうとしている。世界とあたしの体が馴染んで、重力が絡みついてくる。ミネルヴァが視界からどんどん遠ざかって行った。

 落ちる、と思った瞬間、あたしの足は再び焼け跡を踏みしめていた。


「っ」


 肩が跳ねる。寝入る瞬間、夢とうつつの境が分からなくて、体が痙攣けいれんするような感じだった。見ている景色のあまりの落差に、脳がパニックに陥っている。


「どうした?」


 ネムが尋ねる。どうにか息を吸ってみると、山の冷え冷えとした空気が体の中に入って来て、ようやく頭がすっきりしてきた。


「なんか、今、一瞬ミネルヴァに飛んでた」

「はあ?」

「この本に触ったら、本が浮いて……気づいたら……」


 馬鹿げたことを言っている自覚はある。ネムは鼻で笑ったが、瑠依さんは気楽に、


「オブシディアンには会った?」

「はい、会いました! 瑠依さんのことを知っているようでした」

「そりゃあ私は彼らの間では有名人だからね」

「理論上は彼らの天敵なんですよね、瑠依さんは」

「理論上? そう、そうだね。そうなるかな」


 意味深な笑みを浮かべ、瑠依さんはあたしの横に並ぶ。


「ひときわ強い神性を帯びたものに触れると、たまにミネルヴァに引っ張られてしまうんだよね。女の子は特にそうだ。だから神性殺しに女の子は少ないんだよ」

「そういうものですか」

「そういうものだね。神隠しと私は呼んでいるのだけれど……。で、どうだったかな、ミネルヴァは」

「どうだった、って……。どうしてあそこまでアルハンゲリスクとおんなじなのかなとは思いますけど。あんまり長くいたいとは思いませんでした」


 そう正直に言うと、瑠依さんは満足げに頷く。


「よかった。稀にね、ミネルヴァを垣間見て、オブシディアンに心酔しちゃう子がいるんだよ」

「師匠の元カノみてえにな」

「ほんとに元ですか? 元元元元くらいじゃなくて?」

「きみはほんとうに私をなんだと思っているのかな? ネムも、勝手に師匠のプライベートを暴露するのはやめなさい」

「ちなみに元カノ、神性生物対策班の班長で、オブシディアン委員会の委員長を勤めてる人だぜ」


 胸が高鳴った。その人の名前を多分知っている。


「それって、ヴィクトリア・H・アルカディア? オブシディアンと人類を繋ぐ”白銀の大使”(プラチナム・アンバサダー)!?」

「そうそう。師匠、元カノがド田舎でも有名だって知ってどんな気持ちっすか?」

「どうもこうもない。ノーコメントだよ!」


 白銀の大使。懐かしい、彼女は昔オルトラにやって来たことがあるのだ! それも他ならぬばあちゃんに会うためにである。


「確かオブシディアン側から彼女を大使にするようにって指示があったんですよね。ミス・アルカディアがあんまりにもオブシディアンについて詳しいから! あとあと、考古学専攻でアルハンゲリスク史や都市論に関する博士号も持ってるんですよね。あたし、彼女に憧れて勉強してたんですよ」

「珍しい。ハッキネンがよく喋る」

「だって本当に綺麗で凄い人なんだもん、彼女の術式は丁寧で、次元が違っててね、その上物凄い博学で……ああもう本当にすごい人なんだから!」


 すごい人、だからこそ一つの疑問が浮上してくる。でもこんなこと聞いたら失礼だ。何であんな素敵な人と別れちゃったんですか、なんて、そんな、曲りなりにも雇い主に聞くことはできない。


「ミルカ、顔に出てるよ。何で別れたのかって聞きたいんだろう」

「う……はい、その、何でかなってのは聞きたいです。できればどっちがどっちをフったのかも」

「欲張りだねえ。まあ予想はつくだろう、あんな美女私が手放すわけないじゃないか」

「てことは、師匠が、白銀の大使に?」

「フられました、きっぱりと。理由は簡単、私が神性簒奪者で、オブシディアンを脅かす存在だから」

「嫌いになったからじゃないんですね?」


 尋ねると瑠依さんは意外そうに目を丸くした。

 それからふっと懐かしそうに笑う。


「少なくとも、私が彼女を嫌ったことなんかないよ。彼女の方は分からないけれどね」

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