サモナーの弟子

落花生

第1話出会いの日

 

 その日から、日常は一変した。


その日は、雷が鳴っていた。

 職場の飲み会があったが、あまりにも天気が悪いので早くに解散となった。俺は助かったと思っていた。職場の飲み会は、あまり好きではない。

外で飲むことも苦手だし、仕事の仲間と距離を保ちつつも楽しく話をするというのも苦手だ。素面だったら普通にこなせるのだが、酒が入って気が大きくなるといつもできていることがちゃんとできているかどうかが不安になる。これは、俺が大学生の頃に飲み会でやった盛大な失敗に由来するのだが――まぁ、歓迎コンパでの飲みすぎの失敗などありふれた思い出だろう。

そういうこともあって、俺は職場の飲み会を苦手としていた。だが、なんとなく苦手というだけで職場の催し物を断るわけにもいかない。だから、二次会や三次会が流れることになって俺はほっとしていたのだ。

俺は、激しい雨の中を傘を差しながら急いでいた。

電車に乗って、家に帰るためにだ。駅が近くなるほどに、客引きの声が大きくなっていくような気がした。普段は使わない駅だったので判断が付かなかったが、もしかしたら普段よりも激しい客引きだったのかもしれない。あるいは、雨が激しかったから自然に客引きの声が大きくなっていったのか。

 だが、その声は一瞬にして消えた。

 大きな落雷の音と共に、停電が起こったのだ。

 俺も思わず足を止めて、後ろを振り返った。ほとんどの人間が、俺と同じような行動をとっていたと思う。そして、ほとんどの人間が俺と同じものを見ただろう。

 明かりを失った街の姿。

今まで歩いてきた道の明かりは消えていて、暗闇がひたすらに広がっていた。スマホで明かりを確保しようとする人間もいたが、圧倒的な暗闇のなかではそれは微々たる光源でしかなかった。街の光景がすっかり変わっていた。まるで、電気が流通していない遠い過去にタイムスリップしてしまったかのような感覚だった。

 おそらくは、その場にいた全員が似たような感覚におちいっただろう。

 すべての電気は消えて、過去に繁栄した闇が街を覆っている。さっきまで見慣れた繁華街の光景があったはずなのに、今そこにあるのは闇だけであった。まるで、そこには人間の居場所などないようだった。

 あの時、誰もが言葉を失っていた。

 そして、その場に聞いたこともないような鳴き声が響いた。

 ――ぐぎゃぎゃぎゃ!!

 聞いたことがない声だった。しいて言えば、大きな鳥のような鳴き声であった。その声は、あらゆるものに恐怖を植え付けた。その声を聞いた人間たちは、ほとんどの者が建物のなかに逃げていった。なにか、恐ろしいことが起ころうとしている。本能的に、そういうことが分かっていたのだ。

俺たちは地震や津波、疫病。あらゆる恐怖を体験した世代でもあった。そのせいなのか、恐怖の匂いというものには、敏感だった。俺たちは、その鳴き声にもかつて感じた恐怖を感じたのである。

俺も周囲の人間と同じように店に逃げようとしたが、運悪く目撃してしまった。

 その声の主を。

 空から舞い降りたのは、首長竜のような巨体だった。だが、その巨体には翼が生えていて――既存のどんな生物にだって似ていない。しいて言えば空想上の竜に似ているのかもしれない。だが、そんなことはありえない。

 夜の繁華街に巨大な竜が現れるだなんて、そんなこと現実にはありえない。

 けれども、竜は現実にいる。

 幻のはずがない。

 これが幻であれば、竜が翼を羽ばたかせる風圧も自分の身で感じるはずがない。強い風圧は、目の前の竜の存在を証明しているようであった。

 俺は傘を手放して、膝を折った。

「夢……だよな。今日は、飲みすぎたんだよな?」

 竜は、冷たいガラス玉のような目で俺を見た。

 爬虫類のような瞳は、俺を獲物として見定めているようであった。

 竜が、巨大な口を開く。

 するどい牙が口の中に並んでいて、俺は身震いすることしかできなかった。本当ならば、逃げるべきだ。悲鳴だって、上げるべきだった。だが、俺は見たことのない巨大な生物になすすべもなかった。

「下がっていろ!」

 男の声が響いた。

 俺を竜の視線から遮ったのは、ひどく大柄な男であった。体にぴったりとフィットとした作りがよく分からない革細工の服を着ている。しかも、手には大剣が握られており――どうみても何かのキャラクターのコスプレだった。

「魔力を!!」

 男が、叫ぶ。

「分かってる!」

 答えたのは、女性のようであった。

 こちらはスーツ姿のごくごく普通の女性である。ショートカットが凛々しいが、断じて繁華街でコスプレをしている男性が知り合いにいるタイプではないように思われた。

 女性は、男の肩に手を当てた。

 「ふぅ……」と女性は、息を吐く。

 そして、彼女の掌が輝いた。

 それは、電気のような強い光ではなかった。蛍のような、もっと淡い煌めきだった。その淡い煌めきは、俺が見たことがないような模様を描き出す。円の中に複雑な模様が浮かび上がるって、それはまるで魔法陣のように思えた。

「行くぞ……」

 男は低く唸り、女性から離れる。

 竜に向かって走り、男は大剣を振り下ろした。

「うぉぉぉぉ!!」

 竜の叫び声と遜色ない雄たけびを上げて、男は竜の首を切断した。

 いまだに街は真っ暗で、知らない場所にいるようだった。

 俺は立ち上がって、理解できない光景から逃げ出した。竜からも大柄な剣士の男からも、逃げ出したかったのだ。這う這うの体で、俺は裏道へと逃げ込んだ。

狭い裏道に逃げれば、巨大な竜は入ってこられないような気がしたのだ。案の定、竜は俺を追っては来なかった。剣士の男が足止めしてくれているせいなのかもしれないが、俺はほっとしていた。

 そんな俺の足元に、クナイが突き刺さる。

 影を縫うように投げられたそれに、俺は驚いて尻もちをついた。

 視線を上にあげると、幼い少女がいた。黒い衣類を身にまとった少女は、無言で俺に刃物を向けている。

「なんだよ……おい、なんだよ」

 俺は、茫然とするしかなかった。

 竜が現れたと思ったら、俺自身に刃物を向けてくる女の子。

 もはや、何が起こっているのかもわからなかった。

「恨みはないけれども」

 少女と俺の距離が、一気に縮まる。

 同時に、刃物と俺との距離も縮まる。

 俺は、息を飲んだ。

 死が間近に迫っていたのだ。

 それでいて、俺は逃げることもなにもできなかった。現実離れした光景の連続が、俺の足を地面に縫い付けたのである。

「えっ……」

 だが、突然少女は足を止めた。

 俺の眼前に、巨大な魔法陣が浮かび上がったせいであった。スーツの女性の手に浮かび上がったものよりも大きくて、人ひとりならば飲み込んでしまいそうな巨大さであった。

「この人もやっぱり魔力提供者!」

 少女の叫びと共に、魔法陣のなかから誰かが出てくる。最初は手だけであった。白くて小さな手が魔法陣から延びて、俺は思わずその手を掴んだ。その手が、混乱する場所において唯一の穏やかさに思えたのだ。

 俺が掴んだ手から先の肉体が現れる。

 それは、十三歳前後の少年だった。人形のように整っている顔立ちに、作り物のように細い手足。頼りない印象しか感じない姿だったが、その姿に俺は逆に安心した。彼の姿は複雑な刺繍の入ったローブ姿だったが、それ以外は普通と変わったところは特にないように思われたからだ。

「おい、大丈夫か」 

 俺は、自分の腕の中に落ちてきた少年を抱きとめた。

 少年は、気を失っているようだった。

「おいって」

 俺は、前を見る。

 いまだに刃物を持った少女は眼前にいた。

「目覚めないうちに、殺すわ。だって……魔力が必要だから」

 少女は、刃を振りかぶった。

 俺は、咄嗟に少年をかばう。

 彼がどんな理由があって魔法陣の中から現れたのかは分からない。けれども、子供は守らないといけないと思ったのだ。かつては、俺が守られたから。

 だから、今度は俺が守らないといけないと思ったのだ。

 ただ、それだけだった。

「――僕は、世界を作り出す」

 声が聞こえた。

 それは、俺が抱き留めた少年の声だった。

「――その世界は栄え、生命は命を謳歌する」

 彼は、歌うように言葉を唱える。

「――その生命の一瞬をここに!」

 少年は、虚空に手を伸ばす。

 そして、その掌には魔法陣が浮かび上がる。彼自身が現れたときやスーツの女性の掌に現れたものと同じ模様の魔法陣であった。そこから現れたのは、馬であった。しかも、羽が生えた馬である。ペガサスと呼ばれるような生物の出現に、俺は眼をみはった。

 ペガサスは、刃物を持った少女に体当たりをする。

 少女は、跳ね飛ばされた。

 交通事故のような光景であった。

 思ったより馬が巨大で、力強かったからだろう。

「あなたは、何者?」

 少女は、馬を呼び出した少年に尋ねる。

「僕は……僕には名前がありません」

 その声は、凛としたものだった。

 だが、そんな一本の芯が通ったような印象は、途端に消え去った。彼はどこか怯えたような顔で、周囲を見渡す。不安げな顔で、少年は尋ねる。

「ここは、どこ、ですか?」

 まるで、この世界を知らないかのような少年の言葉。


 その日から、俺たちの日常は変わってしまった。

 懐かしくも愛しい、あの日々は、永遠に消え去ったのだ。

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