周王奇譚

武州人也

宣王

 周の宣王四十三年のことである。

 周都鎬京こうけいにおいて、一人の男が今まさに斬刑に処されようとしていた。男は市場に備えられた刑場に引き立てられ、縄打たれている。


 剣を携えた刑吏が、憐れなものを見る眼差しで男を見つめている。刑吏だけではない。集まった観衆も、何処か悲しげな目を向けている。

 これから処刑されるこの男は、声を震わせて言い放った。

「私は今我が君によって誅されようとしている。だが私に罪などはない。もし死者に知覚というものがないならそれまでだ。しかし、もし死者にも知覚があるのなら、三年の内にこの恨みは必ず晴らそう」

 怒色と哀色が、ない交ぜになったような声であった。この言葉が、彼の遺言となった。刑が執行された。冷たい刃が、彼の首に振り下ろされたのである。

 公衆の面前で斬り捨てられた彼の遺体は、市中に晒された。古代中国には棄市と呼ばれる刑罰がある。観衆の前で首を斬り、遺体を市中において晒し者にするという刑だ。


 処刑された男の名を杜伯とはくという。周王室に仕える大夫たいふである。しかし、宣王の四十三年に、この男は突如誅殺された。

 刑吏や観衆が彼を憐れんだのも無理はなかった。何故ならこの誅殺は突然のもので、この杜伯の言う通り、彼に咎となるものは全くなかったのであるから。


 宣王の先代は、厲王れいおうという王であった。「厲」は君主の死後に贈られる諡号しごうとしては最悪のものであるが、この王は「厲」を贈られるに相応しい暴虐な天子であった。国の人々はこの王をそしったため、王は自らを批判する者を処刑した。諸侯は周王室に入朝しなくなり、民衆は物を言わなくなった代わりに互いに目配せをして意図を伝え合うようになった。中国における最古の表現規制とそれに対する抵抗と言えよう。

 とうとう、厲王の暴政に耐えかねた民衆は王を襲撃し、王はてい(現在の山西省霍州市)という土地に逃れた。王が逃亡してしまったので、国政は周公と召公の二大臣が共同して行うこととなった。

 厲王が逃亡してから次代の宣王が即位するまでの期間を「共和」という。現代における「共和制」「共和国」などの共和はラテン語の「res publica」の漢語訳としてこの共和という言葉を当てたことに由来する。


 そうした動乱を経て、二大臣は王太子のせいを即位させた。これが宣王である。

 厲王が逃亡を図った時、太子静は大臣の一人である召公の屋敷に匿われた。やがて太子が召公の屋敷に逃げ込んだことが知れ渡り、屋敷はたちまち包囲された。万事休すである。この時召公は「君主に仕える者は身の危険に晒されても主を恨まず、恨んでも怒るものではない。まして王に仕える身であるならなおさらだ」といって、自分の息子を身代わりとして包囲する国人に差し出し、その間に太子静を脱出させた。そのような経緯を持った王であった。

 治世初期の宣王は周公および召公の二大臣の助けを得て、古き時代の文王、武王、成王、康王の遺風に則った政治を行った。

 ――今度の周王は、あの暴戻恣雎ぼうれいしきの厲王とは違う。

 諸侯は自然と、周王室に再び入朝するようになった。周の権威は、ここに回復したのである。

 だが、この宣王は、決して聖賢などではなかった。次第に王は驕慢の性を表し始めたのである。

 中国では古来より、天子自らが耕作をして民に模範を示す「籍田せきでんの礼」という儀礼がある。宣王はこの籍田の礼を行わなかった。諸侯はこのことを諫めたものの、王は諫言に耳を傾けなかった。

 また、王は外征を好み、服喪を終えるや否や積極的に軍を発した。大夫の秦仲しんちゅうに命じて西戎せいじゅうを討ち、その後も南蛮や北狄の部族を攻撃し続けた。因みにこの秦仲なる大夫は後に中華を統一する秦の君主である。彼は宣王に命じられて西戎と戦ったものの、最後はその戦いの中で討たれて没した。彼の一番上の子が君主の位を継いだのであるが、これが秦の荘公そうこうである。荘公とその弟たちも周王に七千の兵を与えられて西戎討伐を命じられ、これを打ち破った。その功績によって彼らは領土を賜り大夫の地位を与えられたのであった。

 宣王は四方に武威を示すことで、失われた王室の威光を取り戻そうとしたのかも知れない。しかしこの王はそのことで自らの首を絞めていると気づかなかったらしい。四方を慰撫することを忘れたこの王は、結局厲王と大差ない暴君であったといえる。

 四方の部族たちは周王室と宣王を深く恨んだ。度重なる戦争によって多くの仲間たちを失ったのだ。当然であろう。特に西戎と呼ばれた西方の部族たちは復讐の機会を常に伺い、来たるべき戦いに備えていた。


 宣王の三十九年、千畝せんぽという土地で周王室の軍ときょうという部族の軍が大激突した。周軍はこの戦いに敗北し、多くの兵を失う結果となってしまった。宣王はこれを受けて、

「民を数え、太原たいげんより兵を募れ」

 と命じた。家臣はこのことを諫めたが、やはり王は聞く耳を持たない。結局、兵の募集は行われたのであった。


 およそ兵事というものは国家を疲弊させるものである。宣王の足元は少しずつ、しかし確実に崩れ始めていた。

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