第25話 かなお(残虐描写)

 その日の夜、消灯後。


 三人の防寒はできうる限り万全だった。施設に来てからこの方着ていなかった上着を引っ張り出し、手袋まで嵌めている。そしてバスタオルを体に巻き付けていた。


 真冬の寒さに耐え続けるには心許ないが、山中行軍を敢行する予定は当たり前だがなかったので仕方がない。


 荷物はほとんど持たず、各自スマホと、真尋のノートパソコンくらいだ。パソコンは専用バッグに入れて、ベルトで背中に固定している。


 その程度のものしか、そもそも持っていくようなものがない。逃げ出せた後のことを考えた持ち物だが、GPS機能で追跡される可能性を考えると、スマホはおいそれと起動できない。もちろん、今はモバイルバッテリーで充電をした後に電源を切っている。


 三人は、しばらく浸れなくなるであろう暖房の効いた空気を噛みしめていた。今から寒空の下で、死ぬ気で逃げなくてはいけない。


「ねえ、本当に来るんかな」

「来ると思う」


 和泉のベッドに三人集まり、身を寄せ合って小声で話す。


 茨戸の勧誘が好感触に終わったと説明しても、真尋と治日はなかなか信じてくれなかった。信じられないというより、来てほしくないから信じたくない様子だった。初日の印象を引きずっていれば、それも致し方ない。


 第一印象を覆すのは、存外難しいのだ。


「外に出てからはどうすんの?」

「道路を使うのはまずいけど、遭難しないように道路が見える範囲にいることがまず鉄則ね。あとは、ひたすら逃げる。見晴らしが良いところがあれば、そこに向かう」

「原始的ー」

「しょうがないでしょ、頼れるものが少ないんだから」


 実際には「少ない」どころではないのだが。


「正直言って、出たあとは行き当たりばったりだよ」


 逃げ切ったあとのことは言わない。表に出られない生活送らなければならないし、それを手に入れること自体困難なのは、想像に難くない。


 それでもここにいるよりはマシだ。

 

 無事に卒業できたとしても、元通りの生活に戻れるはずがない。あってはならない事実を知ってしまった以上、その情報を漏らさないように監視され続ける生活になるだろう。ネットにこの施設のことを書き込んだ人物は、おそらく消されている。


 心の健全化を「卒業」と謳っている以上、情報漏洩以外にも何らかの制約がつくはず。少なくとも不健全な行為をすればペナルティがあるだろう。そんな退屈な生活は我慢ならない。


「そろそろ来てもよさそうだけど……」


 詳しい時間は分からないが、消灯してからかなり経っている。


「もう三人で頑張らない? 自信ないけど」

「僕も自信ないよ。認めたくないけど、鍵がないならあの筋肉女の手を借りるしかないよ。いや、借りるのは足か」

「もし本当に来なかったら、もっと乱暴な手段に頼らなきゃいけなくなるからね」

「大人しくモルモット生活してた方が良かった、なんてことはない……?」

「こんなイカれた施設で、そんなことあるわけないだろ」

「だよねー」


 談話しながらも、茨戸の足音が聞こえないか廊下に注意を向けた。


 何も聞こえない。


 消灯後は室内と廊下には足元灯が点いているので、小窓からもぼんやりと明かりが入ってきている。誰かが小窓から覗き込んでいれば、ひと目で気づけるのだが。


 来ない。


 かなおたちが寝静まっていないのだろうか。脱走しようとしていることを悟られないように寝静まってから準備をしなければならないため、手間が掛かるということは理解している。とはいえ、時間が掛かりすぎている。


 真尋たちが言うように来ないのだろうか。はたまた、何か問題が発生したのだろうか。計画が一歩、また一歩と成功から遠ざかっているような気がした。


 ――と、そのとき、まるで獣の鳴き声のような悲鳴が廊下に轟いた。


「ああああああああああああああッ――!」


 人の言葉にすらならない、剥き出しの本能が喉奥から押し出す音。


 和泉たちは弾かれるようにベッドから離れ、ドアを開けた。


 廊下を覗くと、野次馬たちが次々にドアから顔を覗かせていく様子が、足元灯に薄く照らしだされていた。


 悲鳴の出どころは二つ隣の部屋、つまり茨戸やかなおがいる部屋だ。そこから二人の少女が転がるように這い出てきた。絶えず言葉にならない音を喉から絞り出し、薄く開けられた他の部屋のドアをこじ開けて転がり込む。


「閉めて! 閉めて!」


 二人が身を寄せた部屋から、怒鳴り声が飛ぶ。和泉には何故か、その言葉が命乞いのように聞こえた。


 嫌な予感がする。


 今出てきた二人は、茨戸とかなおではない。薄暗くてはっきり見えずとも、それだけは分かった。


 悲鳴が置き去りにした部屋の中から、微かに泣き声が聞こえてくる。


 かなおの声だ。


 かなおが泣いているということは、茨戸が何かしでかしたのだろうか。よりによってこんなタイミングで。脱走計画がいかに重大なものなのか、理解していないはずはない。


 いや、そうではない。そんな問題ではない。おかしい。茨戸の気配がまったく感じられないのだ。


 開け放たれたドアに目が縫い付けられる。


「助けて、和泉さーん……」


 泣きながら和泉に助けを求めた。


 ドアノブを握る手に力が入る。いつでも全力で閉められるように。頼りにされることに、これほど拒絶反応が出るのは初めてだ。


 ぬうっと、かなおの顔が部屋から現れた。明かりに照らされ、頬を伝う涙の筋が怪しく光る。


 それと同時に茨戸の顔も見えた。おかしなことに、かなおの膝ほどの高さに。


「和泉さーん……」


 かなおは、ゆっくりとした足取りで部屋から出てくる。その右手には赤く染まった包丁が握られており、茨戸だったものと一緒に血を滴らせていた。


 生気のない虚ろな二つの目と、どろりとした狂気に濁った二つの目が薄暗い廊下に浮かび上がる。


 それを見た野次馬たちは一斉にドアを閉め、部屋に閉じこもった。和泉たちも例に漏れず籠城の構えを取る。


「まずいよね、これ!」

「非常にまずいね」

「なんで包丁なんか持ってんだよ! 持ち物検査とか……されなかったねそういえば!」


 かなおは、まず間違いなくこの部屋に向かっている。三人は死ぬ気でドアを押さえ、かなおの到着に備えた。


「助けてくださいよー……」


 声はもうすぐ近くだ。


 そして不意に、ドアの小窓から人影が見えた。


「なんでこんな悪い人と話してたんですかー?」


 だが声は少しズレたところから聞こえる。次いでガンッ、という硬質な打撃音が部屋に響いた。包丁の柄でドアを殴ったのだろう。


 何が起きるか不明だったので、茨戸と会うのはかなおには知られないように慎重にしていたのだが、どうやら見られていたようだった。もしかすると、日頃から監視されていたのかもしれない。


「わたし、茨戸さんに殴られてるんです。他の子にも殴られて……。助けてくれますよね、和泉さん……?」


 小窓から茨戸の顔をチラつかせながら、かなおは独り言を続ける。だが弱々しい嘆きは、何度も何度も繰り返される打撃音によってろくに聞こえなかった。


「なんであんなヤバいのに好かれてんの、イズミン!」

「完全に私のミス!」

「あんな刃物持ってるってことは、最初から誰か殺すつもりだったんじゃない?」


 あの包丁は自傷行為をするには大仰すぎる。かなおのリストカットの痕を見ても、カッターやカミソリなどによる浅い傷痕だった。


 護身のためということもあり得るが、『この施設にいる』という事実が別の可能性を生み出す。


「かもしれないけど、スイッチ入ったのは多分、私たちが噂流して皆が不安になったからだと思う。茨戸が言ってたけど、あの子は自分が『被害者』じゃないと気が済まないらしいの」

「そういうレベルの話じゃなくない?」

「うん。だから不安が積もりに積もって拗れたんだと思う」


 柄で殴りつける音は止まらない。あの細身のどこにそんな力があるのか、凄まじく荒々しい打撃音。


 音が轟くたびにドアは激しく震え、このまま壊されるのではないかと錯覚させるほどだ。


「開けてくださいよ、和泉さーん……」


 小窓から茨戸の顔が消えると、ごとりと重いものが落ちる音がした。茨戸を手放したのだろう。


 そして今度は狂ったようにドアノブを回し始めた。

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