わたしが買ったぶたの貯金箱
燈 歩
1.
生温く湿り気を帯びた空気が、私たちの周りにまとわりついていた。数人の客と、妙に甲高い声。事務的な笑顔と、季節のお知らせが目に痛い。
私はもうこの場所から消えてしまいたくなった。さっきまでは怒っていたけれど、この止まった空気の中で待たされていると、嫌でも冷静になってくる。勢いでここまで来たものの、自分たちのやっていることを眺めていたら、ひどく滑稽に思える。
コツコツ貯めた小銭貯金。特に目標もなく、ただなんとなく始めた貯金を、関係の解消と共に清算しに来たのだ。
ズボラに投げ込んでいたものだけど、それなりの月日が詰まっている。他愛もない、別に思い出す必要もないほど、ありふれた日常風景。そのシンボルである貯金箱を、今日、割る。
あれは付き合って3ヶ月くらいの時だった。
「どこか行きたいね」
「じゃあ2人でお金貯める?」
本当にどこかに行きたかったからじゃない。2人で過ごす時間に意味をつけたかったんだと思う。吹いたら飛んでしまうような、ささやかな毎日に少しでも重さをつけたかった。
そうしてお気に入りのアイスを買ったお釣りや、ケンカした後の仲直りなど、小さな理由をいくつもつけては入れた。
彼は几帳面な人だった。男の人にしては珍しく、自分でシャツのアイロンがけをするし、食事の時に食べる順番が決まっていたり、デートコースを考えたりするのが得意だった。
私はアイロンが必要なシャツは買わないし、その時々で好きなように食べるし、デートコースやプレゼントも行き当たりばったりで自分の勘を信じるタイプだった。
だから、好きになったんだと思う。
彼のきちんとしてる感じが、自分にはないから。そういうところが大人で素敵だなと思っていたし、自分がいつまでも子供でいられるような気がしたから。
「君は自由でいいね」
彼はよく、私にそう言っていた。彼にはなくて、私が持っていると彼が勝手に思っているものだ。私だって、全然自由じゃない。仕事に縛られたり、人間関係に悩まされたり、彼のことだって頭を抱えたりして、1から10まで自分の思い通りにできることなんてないのに。
ある意味、似た者同士だったんだろう。自分にないものを相手に求めて、手に入れた気になっていた。
「163番でお持ちのお客様…」
窓口の、お姉さんと呼ぶには難しいくらいの女性が早口で呼んでいる。私たちの番号だ。でも私は、立ち上がるつもりなんてこれっぽっちもない。硬くて平べったい青い椅子に深く座って、足を投げ出していた。
きちんと椅子に腰かけていた彼は、スッと立ち上がり窓口へ向かっていった。その背中は何度も見ていたはずなのに、知らない人の背中みたいに、何の感情も沸いて来なかった。
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