第9話

「お疲れ様です。誰かお待ちですか?」

「ん? ああ、柊。お疲れ様。いや、誰も待っている予定はないよ」

「? ならどうして先に出た先輩がまだロビーに?」



 定時過ぎ、柊は更衣室で帰宅の準備を終え会社のロビーを通り玄関を抜けようとしたところ、待合席に見知った上司の姿を見つけ、声をかけた。

 しかし、鳴海からの返事は予想と異なるもので改めて首を傾げることになる。



「いやほら外。土砂降りだろ」

「はい。今朝は曇り空でしたけど、予報で降水確率100%って言ってましたから」

「うん。それは知ってたんだけど、傘忘れた」

「え。予報見た上で忘れたんですか」

「…車には積んだんだけど、なぁ」



 少し困ったように眉が下がったまま、雨模様の淀んだ空を無気力そうな顔で見上げる鳴海。

 柊は少しぽーっとしたような調子でその横顔を眺めると、はっと我に帰り、を慌てたように提案してみせる。



「あ! なら私の傘に入って帰るのはどうですか? 私も先輩に送っていただけるなら、駅からの徒歩で雨に降られなくて済みますし。WIN-WINってやつですよ!」

「む、それはありがたいけど。いいの?」

「はい! もうバッチコイです! ──それじゃ、行きましょー!」



 柊に先導されるがまま、その後ろを着いていく鳴海。

 玄関先にある傘立てに真っ直ぐ向かっていく。

 ──が、柊の様子が次第におかしくなっていく。

 ひとしきり傘立てを見渡し、振り返った柊の目は泳ぎまくっていた。



「あの…、傘。パクられたみたい、です…」

「……マジか」

「マジです」


 

 そんな話をしてから、死んだ魚のような目をしながら玄関先の屋根があるところまで外に出た二人は、揃って雨雲を見上げ途方に暮れる。

 どうしてこうも上手くいかないのかと脳内で頭を抱える柊と、自分一人雨に濡れて車を玄関先まで回せば柊は濡れないなと、方針を自分の中で固めていく鳴海という差はあるものの。

 端から見れば、無言で立ち尽くす二人という図だ。

 共通の知り合いが居合わせれば、普通に声をかけたくなるもの。

 だから、そこを通りかかった桐原・比嘉コンビが二人に話しかけるのは仕方のないことだった。



「──ちょっと、二人して何してるのよ」

「鳴海さんと柊何かの仕事っすか?」

「桐原と比嘉か。お疲れ様」

「桐原先輩、お疲れ様です! 比嘉君もお疲れー!」



 挨拶を返し、今までの経緯を説明する。

 桐原は傘を忘れたくだりで頭を抱え、柊の傘がパクられた話を聞くと憤慨した。

 比嘉に関しては、元々の糸目を更に細め、呆れたような半笑いを続けていた。



「いや、先輩も柊も抜けてるとこあるんすねー。仕事では割としっかり者のイメージでしたから意外っす」

「柊さんは別として、幸は通常運転ね。もう少し仕事のような注意力を日常生活にも発揮しなさいよ」

「えー。仕事中みたいに気を張り続けたらいつか死ぬ…」

「鳴海先輩が死ぬのは困ります!」

「本気にするなよ、柊…」



 比嘉の印象を、桐原が補足し、更に鳴海へ注意を飛ばす。

 だるそうに軽口を返したが、柊は前のめり気味にその冗談へ真面目な返答をする。

 控えめに返す鳴海の言葉が伝わるのはいつの日になるのだろう。

 多分、一生治らない性格のような気がする。



「幸、アナタ情けないわ…。幸が走って行って柊さんのために車回せば済む話じゃない」

「今それを考えてたとこ。それじゃ柊、少し待ってて」

「あ、ダメです先輩! そんなことしたら鳴海先輩がびしょ濡れになっちゃうじゃないですか!」



 桐原に呆れた声を投げかけられ、全く同じ案を考えていた鳴海はその場を後にしようとしたが、裾を掴まれ必死に引き止める柊に阻まれた。

 鳴海としては優しい奴だとしか思わなかったが、桐原からしてみれば分かり易い子だなと呆れてしまう。


 桐原と鳴海が幼なじみとバレた後、何度か恋愛相談のような物を受けている身としてはアシストしてあげたいという思いがあるのだが。

 と、考えたところでこの後の予定を思い出し、何とかなるかもしれないと行動を起こす。



「比嘉君、アナタの傘貸してくれる?」

「え、はいっす。どうぞ」

「ありがと。──はい、柊さん。これで帰りなさい」

「あ、え? ありがとうございます? って、良いんですか?」

「いいの。これから私達、食事に行くのよ。この子、初ボーナスでお世話になってるお礼をしたいって聞かなくてね。目的地は同じだから、傘は一本あれば十分よ」

「桐原さんには世話かけっぱなしなんで! でもそれなら桐原さんの傘貸せば良かったんじゃ──」

「あら、私の傘で相合い傘するのは嫌?」

「柊! 俺の傘ならいくらでも持ってってくれ! 桐原さん、傘お持ちするっす」



 言っておくけど、語尾に~っすは敬語じゃないわよ。

 等と苦言を忘れずに入れながら、颯爽と相合い傘で立ち去る二人。

 その二人の背中を呆然と眺め、手に持つ傘に視線を落とす。



「…お言葉に甘えて、帰るか」

「……はい」

「? どうしたの? 顔が赤くなってない?」

「な、なってません。大丈夫ですっ」



 柊の横を通り過ぎる桐原が一言耳打ちしていった内容のせいで顔に熱が籠もるのを自覚する。

 頑張ってね、なんて。



(意識しちゃうじゃないですか、桐原先輩。どうしてくれるんですか。うう…)



 傘の中は、二人きりだ。小さな空間に身を寄せ合うことをイメージしただけで、パニック寸前。

 ここからが、正念場だと気合いを入れ直す柊だった。



「? …帰らないの?」

「か、帰ります! 鳴海先輩、傘です!」

「あ、ああ。見ればわかるよ? じゃあ、行こうか」

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