第3話 鬼武零闇という存在

 液晶画面に映るのは『特課』のデータベース。同業者である暗殺者の情報なら、ここを見るのが最も手っ取り早い。ターゲットの名前をクリックし、情報に目を通す。

 枕木聡哉。高校一年生。民間の暗殺集団『ヒュアデス』に所属。『ヒュアデス』は菜摘乃が所属している『プレアデス』から、思想の違いを理由に分離した集団。そういうことなら、奴が師匠を名乗るのも納得できるような。『プレアデス』は師匠に憧れる暗殺者たちが、彼を支援するために設立した暗殺集団。裏社会では、それほどまでに師匠の影響力は強かったのだ。

 防犯カメラに撮られたらしき画像に目を向ける。ストレートの短い茶髪。細身の体格。高校一年生の平均より少し高い身長。師匠を模倣しているつもりなのか、フード付きの半袖ロングコートに身を包んでいる。手元には拳銃……リボルバー式のものだろうか。

 行動パターンを精査する。彼に父はおらず、母の仕事は水商売。母が仕事に出たところを見計らい、組織から言い渡された業務を全う。翌朝は何事もなかったかのように高校に行く……という日々を繰り返しているようだ。次の業務についての情報なら、『ヒュアデス』の情報網をハッキングすればどうとでもなる。『特課』構成員に叩き込まれた技能は、直接的な暗殺術だけではない。

 使用武器はリボルバー式の拳銃。暗殺者として挙げた功績も決して多くない。握りしめた拳が震え、手のひらに爪が食い込む。そんな彼が、どうして鬼武零闇を、師匠の名前を名乗る? 侮辱にもほどがある。血管が音を立てて切れそうになるのを抑えながら、私はディスプレイを睨む。

 ……師匠を貶める者は、何人たりとも許しはしない。



「こんにちは、優梨先輩。これからお昼ごはんですか?」

 かけられた声に振り返ると、金髪ボブカットの小柄な少女の姿。いつもと変わらない明るい瞳に、私は一つ頷く。

「……そうだが。ゆみも一緒に食べるか?」

「はい! 今日のランチは和風パスタらしいですよ! さ、行きましょう!」

 向日葵の花が咲くような笑顔を浮かべ、ゆみは私の手を引く。無邪気な姿に目を細めつつ、『特課』という特殊な環境でも自然な笑顔を見せるゆみが、少し羨ましいと思った。


 『特課』は五十人ほどの少数精鋭集団。必然的に各施設もコンパクトで済む。それでも、狭い食堂に五十人もの人間が集うと、距離感は当然のように近くなる。食後のアイスコーヒーを飲んでいると、ゆみは俯いたまま、不意に呟いた。

「……大師匠って、かっこいい人でしたよね」

「ああ」

 私を介し、師匠とゆみの間にも面識はある。ゆみが『新月寮』を卒業し、私に弟子入りしたのが二年前。……師匠が命を落としたのが、半年前。記憶が蘇り、思わず目を伏せる。感傷を振り払うように、私は唇を開いた。レモン色の思い出をそっと取り出すように、言葉を紡ぐ。

「師匠は誰より優れた暗殺者だ。一つ一つの動きに無駄がなく、鋭く、激しく、人の命を奪うことが、天命であるかのようで。ゆみも感じただろう? 師匠の只ならぬオーラを。そう、まるで……」

 目を閉じ、師匠の姿を思い出す。風になびく銀色の髪。三白眼気味の赤い瞳。どこか病的さを感じさせる白肌。両目の下に彫られた、稲妻を思わせる黒い刺青。特徴的な黒いフード付きロングコート。新月の夜、街のネオンだけに照らされたその姿は。どこか歪で、ゆえに人を惹きつける笑みは。

「――黒い翼の、天使のようだった」

「……不思議な魅力がある人ですよね。優梨先輩が憧れるのも、わかります」

 目を開くと、ゆみは俯いたまま微笑んでいた。しかし、不意にその表情を陰らせる。沈痛な表情で、口を開く。

「でも……大師匠は、もう」

「そう、だな……」

 目を伏せると、氷が浮いたアイスコーヒーのコップが視界に映った。霜が降りた心で、淡々と思い出す。

 ――相打ちになったと、聞かされた。

 当時『プレアデス』に所属していた、雫石しずくいし修太しゅうたという青年の証言によって。あの日、彼は指令により、ある暗殺集団を始末しに行った。同行者は雫石、ならびに『プレアデス』の現リーダーたる和泉いずみ冬真とうま。彼らは集団の暗殺をしおおせたが、刺し違えて師匠は死亡。和泉も重傷を負い、証言できる者は雫石以外にいなかった。その後、雫石は行方不明になり、真相は闇の中である。

 ゆみは不意に顔を上げた。ターコイズ色の瞳がかすかに震えている。私の瞳をどこか懇願するように見上げ、彼女はさざ波のような声で問う。

「……優梨先輩は、復讐をしたいって思いますか?」

「いや?」

 即答すると、ゆみは目を丸くした。その表情に困惑の色がよぎる。私はコーヒーを一口飲むと、淡々と言葉を紡ぐ。

「『仕事に私情は挟むな』。暗殺者の基本だ。何よりこれは、師匠の教えでもある」

「だからって……」

 そっと首を横に振り、ゆみの言葉を遮る。コップの中の氷がパキリと音を立てた。膝の上で握りしめた拳が、耐えきれずに細かく震えだす。

「勿論、私だって悔しいさ。悲しいさ。だけど、そんな感情に振り回されていては、暗殺者なんて務まらない。それに……わかっているだろう? 人はいつか死ぬんだ。遅いか早いかの違いしかない。他人の命は平気で奪うくせに、大切な人の死は嘆くなんて……エゴイスティックにも程がある」

 ゆみは何も言えず、ただ俯いている。わかっているんだ。自分が吐いた言葉が、あまりに辛辣なものだなんて。だけどこれが真実。何より……。

「――師匠が言ったんだ。『だから、俺が死んだとしても、嘆くな』と。『嘆く前に、お前にはやるべきことがある』と。私たちの使命は、この国に仇なす者を排除し、薄氷の上の平和を守ることだ。悲しんでいる暇があったら、すべきことを果たすさ」

 丁寧に紡いだ糸のような言葉を、一つずつ唇に乗せる。

「――それが、師匠の遺志だから」


 不意にゆみが顔を上げた。表情を綻ばせ、そっと息を吐く。

「……すごいです、優梨先輩」

 笑顔を浮かべたまま、彼女は徐に俯いた。前髪の影が顔を隠す。

「ゆみだったら……無理です。復讐に走って、戻ってこないかもしれません」

「ゆみ……」

「憧れの人が、死んでしまったら……耐えられそうにないですよ……」

 震える雨粒のような声で語っていた彼女だが、突然顔を上げた。笑顔の色が徐々に変わっていく。それはまるで、カランコエの赤い花が咲き乱れるような。

「だから、優梨先輩のことは、ゆみが絶対に死なせません」

 どこか熱に浮かされたような言葉。しかしその瞳の奥には、鈍色の鎖のような輝きが宿っているように見えた。

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