第九話・窮地
カシリアは目の前で起きている信じられない状況に、思わず息を飲んでしまった。目の前の女性に気づかれてしまうことを怖れたのだ。
何度も何度も自分の目を、自分の耳を疑ったが、紛れもなく目の前で人知れず泣いている女性は、リリスその人だった。
かすかに震えているか弱い姿、何かにすがるような瞳、痛みと苦しみに悶えるような眉。どう考えても”リリス”という完璧な芸術品とは相容れることができない。
あるいは、この眼前の哀れみを誘う女性こそ、完全無欠の芸術品の中に存在している本当のリリスなのか?
カシリアにとって、眼前の”リリス”という貴族の女性を、しっかりと見たのは初めてのことだった。
この学院で数年になるが、同じクラスになったことのない二人の接点はほぼ無いといってよい。上流社交界慣例の茶会を除いては、この学園唯一交流の機会は、張り出された試験結果の前で互いに挨拶を交わす程度かもしれなかった。
しかしいつでも、どんなときでも、リリスは常にその最も完璧な一面を見せていた。
”さすが公爵様のご令嬢”と、意図することなく人々を感嘆させる。
長い間、すべての人にとってリリスは、完璧であることが当然となっていた。
それはカシリアも例外ではなかった。
眼前の女性を見ているうちに、カシリアはなんとも言えない気持ちになった。なぜ今までこの事に気が付かなかったのか?それは実に単純明快な道理ではないか。リリスはどんなに完璧であったとしても、決して”芸術品”ではなく、自分と同じ感情を持った”人”だったのだ。痛みを知り、傷つきもし、時には怒りもする。ただそれを表現できなかっただけなのだ。たとえどんなに苦手なものであっても、誰よりも良い結果を出していた彼女は、一体どれほどの努力をしていたのか?
しかし、一体何がこれほど気丈な彼女をここまでに打ちのめしたのだ?
すべての疑問に対する答えはないが、しかし目の前の情景はカシリアの心中に深く深く刻み込まれた。
・・・・・・・・・・・・
どれほどの時間がたったのだろう。私はようやく泣き止むことができた。床にははっきりと涙の跡が残り、ケーキも原型を留めないほどになってしまっていた。大事な昼食だったのに。
立ち上がって教室に戻ろうとしたまさにその時、背後から男の人が誰かを探す声が聞こえてきた。
「殿下、こちらにいらっしゃいますか?」ナミスが叫んでいる。
バラ園は実際とても広く、しかも大きな木が視界を遮っているので、静かに殿下をお探しすると時間がかかりすぎる。殿下はまだお昼を召し上がってないのに、午後の授業まで時間もない。早く殿下をお探しせねば。
!!!!!!!!!!あれは殿下の側近ナミス?なぜここに向かってきているの!?しかもどうも殿下を探している様子!?驚いて慌ててケーキをスカートのポケットにしまい、涙の跡を袖で拭い、制服についたゴミを払い、完璧な”リリス”としての身なりを整えた。
!!!!!!!!!ナミスか!?カシリアはその声を聞いて驚き、リリスとナミスに見つからないよう、急いで柵に隠れた。
リリスは素早く自分を整えた後、立ち上がって地面の涙の跡をスカートで隠し、自然で善意に満ちた笑顔を作り出し、ナミスを呼んだ。
「ナミスさん、こんにちは」
「え・・・リリス様?」意外な女性が目の前に現れたので、一瞬言葉を失った。
「あ・・・リリス様がこんなところにいるなんて意外ですね。ところで殿下をお見かけになりませんでしたか?」
「殿下?見てないわ・・・。殿」
なぜリリス様がここに?ナミスは聞いてみたかったが、それができなかった。なぜなら自分がなぜここにいるのかを説明できないことに気がついたからだ。
「そ、そうですか・・・」
殿下がいない?殿下はリリス様を探して話をつけると言っていたのではなかったか?ナミスはますます訳がわからなくなってきた。
・・・・・・・・・・・・・・・気まずい時間がしばらく続いた。
「それはそうと、もう午後の授業まであまり時間がありません。教室に戻ろうと思いますが、リリス様は?」ナミスはなんとか話題を見つけた。
「そ、そうですね、私もそろそろ戻ろうと思います。」リリスは微笑みながら答えたが、(先に戻ってください、私はもう少しケーキを食べていきたい)などとは言うことはできなかったし、そもそもケーキはすでに握りつぶしてしまっていた。
「それは奇遇ですね、私めがお送りいたしましょう。」
「ありがとう。」
二人は笑顔を保ったまま一緒に教室の方に向かっていったが、その実、非常に気まずいものだった。
ナミスとはそれほど付き合いはなく、殿下の側近ということくらいしか知らない、何を話せば良いのだろう?とリリスは悩んだ。しかも目の前にいるナミスはずっと私を観察して何かを見つけ出そうとしているらしい。しかもナミスは友好的な笑顔と善意の目でそれを隠そうとしており、その異常さをリリスの強い感性が感じ取っていた。
これは普通の男性が女性を観察する目つきではない。しかも死に戻る前には経験しなかったことだ。バラ園、殿下、ナミス、情報を集め、この状況を整理してみた。
つまり、ナミスと殿下は私が辞退しようとした話を聞いて観察に来た?
もしそうなら、これはとても情けないことになる!殿下と公平な競争をしている途中で、突然何の脈絡もなく辞退を申し出たとき、殿下がどう思うのかを全く考えていなかった。
「フン・・・お前には失望させられたぞリリス、こんなヤツが公爵殿のご令嬢とはな!」
カシリア殿下の怒っている情景が目に浮かんだ。
・・・。でも、これはこれで良いかもしない。どのみち初めから私と殿下には全く縁がなかったんだし、殿下との接触を避けようと決めたのでしょう。
ナミスが私からどんな手がかりを見つけようとしているのか知りたかったが、適当な言葉が見つからず、ただ微笑みで対応するしかなかった。
「・・・その、リリス様、左手の上に何かついているようですが?」ナミスがためらいがちに言った。
しまった!!!!!別の事を考えていて、貴族としての所作は習慣で身についていたが、手の上についたクリームのことをすっかり忘れていた!!
慌てて手を後ろに隠したが、遅かったようだ。
どうしよう!?どう言って誤魔化そう!!バラ園に来たのはケーキを食べるためだったなんて言えない、しかも手にクリームまでつけて?なんて恥ずかしい!こんなことをする貴族がどこにいるっていうの!
「・・・・・・こ・・・これは・・・」百戦錬磨のリリスも相当に慌てた。
「それは?」ナミスが問い詰めてきた。
「え・・・あ・・・そのう・・・つまり・・・」しどろもどろになった。もうだめ!十数年に渡る完璧なリリスに今日ついに傷がついてしまった。
この絶体絶命の窮地に、後ろの方からカシリア殿下の声が聞こえてきた。
「ナミス。」
「あ、殿下。」ナミスは殿下のもとへ向かった。
「こ、こんにちは、カシリア殿下」左手を隠しながら、スカートを持ち、貴族の礼をした。この不自然な姿勢に気づかれなれないことを願っていた・・・
「リリス、奇遇だな」殿下はごく自然に挨拶をした。
「すまないな、ナミスに用があるのだ、先に行かせてもらう。それでは。」言い終わるやいなやナミスと先を歩き始めた。
「私は構いません。お気をつけなさいませ」私は歩みを止め、平静を装って殿下に別れを告げた。
お、驚いた!殿下が後ろにいるなんて!いつの間に?隠した左手を見られたかしら?立て続けにこんな予想外のことが起きて何も考えることができない。でもナミスの質問から逃れられたのは不幸中の幸いだった。本当にどう言えば良いのかわからなかったから。
「へへ、お聞きになりましたか?今日リリス様がバラ園に来たのはこっそりケーキを食べるためだったんですよ。手にクリームまでつけて。」
「まさか。リリスにはそんな変な趣味があったのか、ははは」
こんなことを話している地獄絵図が用意に想像できた。貴族社会の伝達速度を考えれば、一瞬のうちに学校中に広まっているだろう。
少しずつ社交界から見を引こうと考えてはいたが、こんな終わり方はあまりにも恥ずかしい。まさに公開処刑・・・。
「はぁ・・・。」深く息を吐いて、ようやく冷静になってきた。
どうであろうと、ただ平和に過ごせればそれでいいんだけど・・・
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