第20話 星暗寺 二
初音と雷蔵は、さっと、お互いが逆の位置に離れて、一撃を避ける。
檮杌は、着地しながら、体をひねり、雷蔵に向かって右前足を繰り出した。鋭い爪が雷蔵の身体をかすめた。
「雷蔵さまっ!」
「平気だ」
雷蔵は、檮杌と正面でにらみ合いながら、じりじりと後退する。刀を抜く暇もないほど、お互いが間合いを図っている。
「何故、闇の眷属であるお前が、堂々とここにいる?」
「我の庭に入り込んだのは、そちらの方だ」
檮杌はにやりと嗤う。その目は、完全にひとを見下した色をしている。
「なんなら、この寺の僧を呼び寄せてみるが良い。勝手に侵入しているのがどちらか、彼奴等に決めてもらうが良いさ」
「なるほど」
雷蔵は柄に手を当てた。
「堕ちたのは、叔父だけではないということか」
再び檮杌が雷蔵に跳びかかった。それを脇に避けながら、雷蔵は白刃を滑らせた。
「ほほぅ。面白い」
ふわり。
檮杌の体毛が宙に舞う。わずかに皮膚が裂けていた。ぺろり、と檮杌は、傷をなめる。
「少しは楽しめそうだ」
檮杌は大きく吠えた。静寂の中、その声は響き渡る。寺の敷地だけでなく、山々にも聞こえそうなほどの咆哮だ。
初音は思わず辺りを見回す。
目の前の建物からも、通路の向こうからも、人が来るような気配はない。
今の声なら、境内の方にも聞こえたはずだ。
つまり、ここの僧たちは、寺の中で獣が鳴いても、気にも留めないということだ。それとも、山に潜む野獣が、常に入り込むような状況なのだろうか。
今、僧たちに発見されたくはないが、全く現れる気配がないというのは不自然だ。
「誰も来ない?」
「既に、結界は無いも同じということか」
雷蔵の言葉は苦い。
ここの僧たちは、このような事態に慣れきっているということだ。
たぶん、山に近いから、野生動物が多いとか、そういう次元ではない。檮杌をはじめ、さまざまな闇の眷属が、日常的に出没しているのだろう。
そして、それを封じることも倒すこともせず、放置している。
いや、むしろ、番犬代わりに、寺への侵入者の撃退をさせているのかもしれない。
「そうとも。門は開いておる。かつてないほどにな」
楽しそうに、檮杌が口の端をあげる。
「我らが王をお迎えするときが近づいている。だが、お前らは心配せずとも良い。何しろ、今ここで死ぬのだからな」
檮杌は二人をあざ笑うかのように、前足で土をかく。
ーー我らが王。
光念の言っていたように、闇の王が復活するということだろうか?
檮杌の身体は、その巨体にも関わらず、実にしなやかだ。少しも重さを感じさせない動き。隙がない。
「あいにく、まだ死ぬ予定はない!」
雷蔵が刀を振り上げた。檮杌の意識が雷蔵に向いた瞬間を狙い、初音は足を踏み出した。
初音の握る白刃が一閃する。
鮮血が飛んだ。
「グアッ」
檮杌の右の上腕から血が流れる。
大きな傷ではあるが、致命傷には程遠い。
「よくも、傷をつけてくれたな」
檮杌の目に怒りが浮かび、初音に向けて、反対の前足を振り下ろした。鋭い爪が初音の頬をかすめた。赤い温かいものが初音の頬を流れていく。
檮杌の顔に、残忍な喜びの笑みが浮かんだ。
「生意気な」
檮杌が土埃をたて、初音に向かって突進してきた。初音は、身体をひねってさける。
「初音どの」
紙一重で正面からの攻撃はかわしたものの、二撃目は避けられなかった。顔を振った檮杌の長い牙に横腹を殴打されて、初音の身体は吹っ飛ばされた。
受け身をとることもできず、初音は大地に転がった。息が出来ぬほど激しい痛みだ。身動きができない。
初音の目に、再び突進しようとする檮杌の姿が映る。
ーーダメだっ
動かなければ、殺される。しかし、体が動かない。刀は手にしているが、力も入らない。
「お前の相手は、俺だっ」
初音の前に影が走りこむ。雷蔵だ。
初音に止めを刺そうとした檮杌は、雷蔵に不意をつかれた形になった。
雷蔵の刀が、檮杌の頸動脈を真っすぐに切った。
「ぐうわぁぁああああ」
檮杌の声が、絶叫に変わった。血を吹きながら、暴れながら境内の方へと走り出す。
「初音どの!」
走り去る檮杌を追わず、雷蔵は初音に駆け寄った。雷蔵の顔が青い。動けぬ初音を案じているのだろう。
「……大丈夫、です。少し、痛みが強かっただけ」
少し咳こみながら、初音はのろのろと身を起こす。笑んでみせたつもりだが、うまく笑えなかった。
「休んだ方がいい」
雷蔵の手を借りて、初音は立ち上がる。
檮杌の絶叫が再び響いた。境内の方が騒がしい。どうやら、手負いの檮杌が現れたことで、騒然となっているようだ。
「人が来るかもしれん。とりあえず中に入ろう」
二人は、目の前の厨の中に入った。
外に比べて、少し暗いが、窓は開け放たれており、外の光は十分に入ってきている。
大きな鍋がかまどに置かれているが、火は入っていない。かなりの大人数が働ける大きさではあるが、人一人いなかった。広い三和土の奥の板張りの場所には、まだ使われていない食器が置かれている。
騒然とした声や足音が聞こえてくる。境内の方の騒ぎはまだ終わっていないようだ。
番犬がわりにしていたにせよ、そうでなかったにせよ、騒ぎにならない方がおかしい。いずれにせよ、寺の人間は、檮杌に傷を負わせた人間が侵入したことに気づいたはずだ。
雷蔵は戸口で刀の柄に手を当てたまま、潜む。
初音は三和土に座り込み、大きく呼吸をして痛みを逃がす。雷蔵に背を向け、汲み置かれていた手桶の水に手ぬぐいを浸し、脇腹に当てた。
かなりひどい打撲だが、骨や内臓に異常はなさそうだ。冷やしたことで、痛みは消えないものの、我慢できないほどではなくなった。身体は問題なく動きそうである。
初音は手ぬぐいを外し、着衣を整えた。
改めて、雷蔵に向けて視線を送ると、動くなと手で制止される。壁の向こうだろうか。足音が近い。
「……檮杌は死んだのか」
「はい」
男性の声だ。人数は、二人だろう。格子窓に人影が見えて、初音は身を低くした。
「何者かが侵入しております。いかがしましょう?」
「放っておけ」
声の主は、興味なさそうに答えた。
「あと一人ですべて完成する。全てが解放されれば、人の子が何をしようと、無駄なこと」
ーーあと一人?
何の話をしているのだろう。
「とりあえず、遺骸は穴に放り込め。彼奴等が来たときに、騒がれると面倒だ」
「騒ぎましょうか?」
「家臣の奴らは、ここで何が行われているか、知らぬ。正気のままアレをみたら、逃げだそう。まあ、今日という日に至っては、それでもかまわんのだが」
二人の足音は境内の方へと遠ざかって行く。
再び、静寂が訪れた。
「……動けるか?」
雷蔵が初音に声を掛けた。
「はい」
初音は頷いて、立ち上がった。
「先ほどの男……一人は計都だった」
雷蔵は、戸口で外の様子を見ながら呟く。
計都といえば、玄治の病を癒したという僧だ。星暗寺を任されているのだから、ここに居てもおかしくはない。ただ、今の話は何だったのだろう。
遺骸というのは、おそらく先ほどの檮杌だ。これから、訪れるであろう人間たちに見られぬように、始末する、というのは理解できる。
正気のまま見ては逃げるというのは、正気でない時もあるのかもしれない。水森家の家臣たちが、狩りについての記憶がないというのと関係していそうだ。
「侵入した我らをお目こぼししてもらえそうなのはありがたいが、あと一人とかいうのは、なんか嫌な響きだな」
「私もあまり、良いことが起こるようには思えませんでした」
あと一人で何が完成するのだろうか。寺の侵入者を放置しても構わぬほど、大きな出来事を控えているに違いない。
「境内へ行こう」
「はい」
雷蔵は再び戸を開いた。
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