第10話 鷺

 潮の国の花街は、町の中を通っていく奈波ななみ川沿いにある。奈波川は佐奈川の支流で、城下を出るあたりで、佐奈川に流れ込む。

 この時期はさすがに少なくなるが、夏の夜は船遊びとしゃれこむ者も多い。

 辺りには、宿屋なども多く、人の出入りの激しい場所だ。

 日が落ちたというのに、人通りが激しく、店から漏れる光で通りは比較的明るい。

 初音と雷蔵は、すげがさをかぶり、茂助の後ろについていく。

 賑やかな通りは、紛れて歩くのには都合が良かった。

「こちらです」

 茂助が案内したのは、立派な構えをした『鷺』という名の店であった。

 芸を売り、酒と料理を提供する。

 さらには、料金次第で春も売る。

 客層は比較的裕福な層が多いため、露骨な客引きはしていない。

 暖簾をくぐると、落ち着いた感じの広い玄関で、板張りの廊下が伸びていた。

 茂助が、入口の男と話をしている。

 初音は、物珍しさにきょろきょろとあたりを見回す。

 行灯には、美しい絵が描かれている。香を焚いているのだろう。どこか、夢心地な香りが漂って、奥からは音曲の音が聞こえてくる。

 もちろん、ここがどのような場所かは、初音も知っているが、思っていたより落ち着いた雰囲気の店である。

 ほどなくして、三人は座敷に案内された。

 入り口からそれほど離れていない、小さな座敷だ。

 灯された行灯の他は何もなく、がらんとしている。

「座ろう」

 雷蔵に促され、初音は、すげがさをとって、腰を下ろす。

「父は本当にここに?」

 首を傾げる初音に、茂助は目で制する。

 廊下を渡ってくる足音がして、襖がすらりと開くと、でっぷりとした男が丁寧に頭を下げ、入ってきた。

「お待たせいたしました。店主の清兵衛せいべえにございます」

 にこにこと営業の笑みを浮かべつつ、ちろりと初音の顔を見る。

「へぇ。承りました。ご心配なく。うちでは舟遊びもできますので、ごゆるりと逢瀬をお楽しみいただけましょう」

「え?」

 何を言っているのかと、問おうとした初音は、雷蔵に口を手でふさがれた。

「……助かる」

 短く、それでいて、ハッキリとした声で雷蔵は答える。

 その時になって、初音は、廊下を通っていく人の気配を感じた。

 つけられてはいないと思うけれど、これは用心なのだろう。

「それではこちらへ」

 三人は清兵衛に案内されながら、長い渡り廊下を渡っていく。どうやら、廊下でつながっている『離れ』があるらしい。

 離れの建物は、完全に川に面している。清兵衛の言ったとおり、船も持っていて、船遊びもできるようだ。船は密室ということもあり、密談や秘密の逢瀬に使われることも多い。

 初音たちは、どうやら秘密の逢瀬を楽しみに来た客ということらしい。

 何の打ち合わせもしていないが、廊下に出るなり、雷蔵が初音の腰を引き寄せて歩き始めた。

 確かに、男装の初音と雷蔵の組み合わせは、男二人に見えようが、男女の取り合わせに見えようが、秘密の関係めいて見えるだろう。

 しかし、人を欺くための演技とはいえ、雷蔵との近すぎる距離に初音の身体はこわばった。まるで、本当に許されぬ相手との逢瀬に来たような気分になり、胸が早鐘を打つ。

 頭を痺れさせるような、甘い香の香りのせいもあるのかもしれない。

「こちらへ」

 離れに渡ると、一番奥の部屋へと案内された。

 先ほどの部屋と同じくらいの広さではあるが、随分と意匠の凝った部屋だ。上客用の部屋なのだろう。部屋には、大きな花瓶に花が活けてあり、二間つづきになっている。

 布団が敷かれている隣部屋がちらりと見えて、初音は思わず顔が熱くなった。

 この部屋の障子の向こうは、船着き場に出られるようになっているらしく、静かな中に水音が聞こえてくる。

 全員が部屋に入ると、清兵衛は、障子を僅かに開き、障子の向こうの誰かに何事かを告げた。

 すると、船の櫓をこぐ音が、静かに離れていく。

「ごゆっくりどうぞ」

 外に向かって声を掛けると、清兵衛は静かに隣の布団の敷かれた部屋に入り、そっと押し入れの戸を開く。

 茂助は入ってきた通路に耳を当て、様子をうかがい、清兵衛に目で合図した。

 清兵衛は、静かに、中に入っている布団をどける。

 そこにはめ込み式の板があった。

 音をたてぬように、その板を外すと、そこに階段が現れる。

 清兵衛は、行灯の脇に置かれていた手燭に火をともし、ゆっくりと階段を下り始めた。

 階段は急で、かなりの高さがあった。清兵衛に雷蔵が続き、初音が後を追う。茂助は、そっと板を閉めなおしてから、その後ろに続いた。

 階段を下りると、通路になっており、座敷牢があった。こういうものがあるのが普通なのか、ここが特別なのか、初音には判断がつかない。二つの座敷牢の奥は、物置部屋になっていた。

「私だ」

 清兵衛が声を掛けると、行き止まりと思っていた壁が、ゆっくりと動いた。

 薄暗い灯りが灯った小さな部屋から、女性が顔を出す。腕を布で釣っている。ケガをしているようだ。

 清兵衛が耳打ちすると、女性は慌てて身を退いて、部屋の中に初音たちを導いた。

 かなり狭い部屋だ。布団が敷かれていて、人が眠っている。

 神棚が備え付けられていて、その燭台にも灯が灯されており、炎がゆらゆらと揺れていた。

「父上?」

 初音は眠っている人物の顔を覗き込んだ。

 かなり汗をかいていて、記憶よりやつれている。よく見れば、全身、怪我をしているようだ。

「医者の話では、命はとりとめたとのことですが、まだ意識が戻りません」

 女性が、うつむいたまま告げる。

「……どうして」

 何からたずねたらいいのか、それすらもわからず、初音は言葉を失う。

「まずは、お座りください」

 清兵衛に促され、初音は父の布団の傍らに座る。その隣に、雷蔵が座り、茂助は入ってきた入り口の前に腰を下ろした。

「我ら、四谷さまに恩義あるものとして、ひそかに四谷さまにお仕えして参りました。我らが忠誠をつくすのは、潮の国にあらず。ただ、四谷さま個人に対してのものにございます」

 四谷左門がまだ修行中であったころ、清兵衛たちの里が、野盗に襲われた折、左門はたった一人で野盗たちと戦い、里を救ったのだという。聞けば、茂助もおりん、仁太の夫婦も里の出身だそうだ。

 もっとも、お互いに連絡を取り合うことは極力さけているらしい。

 特に今回は、連絡を取ることによって、左門の居所が敵に悟られることを恐れ、控えていた、と清兵衛は語った。

「お嬢さまに置かれましては、さぞやご苦労をなさり、またご心痛のことと思います。我らは、たとえこの国のすべてが敵となりましても、お味方いたしますことをお誓いいたします」

「……ありがとう」

 頷きながら、初音は、本当にこの国の全てが敵になってしまうのかもしれない、との危惧を感じる。

「もっとも、塩見雷蔵さまの前で申し上げることではありませんでしたな」

 初音の隣の雷蔵の顔をちらりと見ながら、清兵衛がややバツが悪そうな顔をする。

「気にするな」

 雷蔵は、清兵衛に話を続けるように促した。

「四谷さまはまだ意識が戻らず、しかして、お屋敷には役人の手が回り、いかようにするべきか、迷っておりました」

 連絡を取ろうにも、初音は屋敷から逃走をしていたし、茂助もあちこちを飛び回っていたのだから、取りようがなかったのだろう。

「私は、こちらで遊郭を営みながら知りえた情報を、四谷さまにお伝えして参りました」

 この『鷺』を訪れるのは、かなり裕福な武家や商家の人間が多い。

 酒席での愚痴、女郎とかわす睦言の中には、かなりの機密事項が混じっている。

「横目の塩見さまは当然ご存知でしょうが、ここのところ、潮の国のご家中はかなり不穏なものとなっております」

 領主の塩田玄治が倒れたのが、五年前。病は癒え、健康を取り戻したものの、かなり人格に変化をきたしたらしい。

 ご典医をはじめ、多くの家臣が役目を解かれ、重鎮で昔から残っている者は少ない。

 剣術指南役の四谷左門が、役目を変わらずに済んだのは、単に、剣術指南役が政治そのものにあまり関与しない役割だったからにすぎない。

 代わりに、病を癒した僧である、計都はもちろん、推挙した水橋家はどんどんと取り立てられた。

「そのことで、ご政務が少しずつ滞り始め、まだ目立つほどではありませんが、治安も悪くなって参りました」

「……耳が痛いな」

 雷蔵が肩をすくめる。

「四谷さまは、領主の塩田さまがお忍びで、水橋さまと少数のご家来衆だけで、狩りに行かれていることを知り、そのことについて、調べるように我らに命じられました」

「それで?」

 清兵衛はちらりと、女性の方に目をやった。

「こちらの朱美あけみは、四谷さまの命を受け、家老衆のお一人、水橋さまの使用人として潜入をさせておりました」

 女性は丁寧に頭を下げる。

 ということは、この女性が水橋家から何かを盗んだという人物なのだろうか。

「まず、水橋さまのご息女、えんというかたは、不思議な方にございます」

 朱美が、口を開いた。

「夕に起き、明け方に寝る。そのような生活を常に送っておられました」

 昼夜逆転の生活の理由は、よくわからない。水橋の妻も、ややその傾向があったが、艶の場合は徹底していた。昼間は部屋から一歩も出ることはなく、使用人がその部屋に入ることも禁止だった。

 日に当たらぬ生活をしていることもあり、肌は抜けるように白く唇だけがやけに赤く見えて、美しいが幽鬼めいていたらしい。

「領主の塩田さまは、ひんぱんに水橋家に通ってみえました。夕に来て、明け方に帰られる。警護のご家来衆も水橋の座敷にお泊りになる、といった感じでした」

 もちろん、それだけであれば、昼夜逆転した生活を送る女性の元に、男性が通ってくる、それだけの話であって、取り立てて珍しいことは何もない。

「不思議なのは、塩田さまがお見えになったあと、お見送りになる艶さまはいつも、手に傷を負われていたのです」

「傷?」

 朱美は自分の左腕の手首を指さした。

「この辺りに、刀のような鋭い傷があるのです。翌日の夕方には消えてしまうようで、最初は見間違いのように思っていたのですけれど」

 朝の傷が、夕方に消えること自体があり得ないことだ。そのことに気が付いてから、朱美は何度も確認した。

「ひっそりと調べましたところ、その……むつみあう時、いつも領主の塩田さまがお持ちになった刃で、艶さまの皮膚を切り裂き、その血を塩田さまが舐めていたようなのです」

「血を?」

 初音はゾクリとしたものを感じた。

「変わった性癖だな」

 雷蔵が肩をすくめる。

「もちろんだからどうだ、ということではないかもしれませんが、傷の消えるのがあまりに早いことなどが気になり……そのことを四谷さまにお話しいたしました」

 朱美は、大きく息を吸った。

「それで、四谷さまの指示で、懐刀をすり替えることになったんです」

 塩田が使う刃は、いつも同じ懐刀であったことから、似たような刀を用意した。

 塩田は艶の部屋に入ると、刀掛けに刀を置く。

 大小のほかに、懐刀も同じ場所に置いていた。

 二人は、部屋に入るとまず、食事をとるので、朱美は、食事の膳を下げるおりに、懐刀をすり替えたのだ。

「あの日、四谷さまと打ち合わせ済みで、四谷さまは水橋家の裏口に潜んでおいでになりました。私は、事をなしたあと、すぐに裏口に回ったのですが……」

 朱美はうつむいた。

「思いのほか、発覚が早く、私と四谷さまは取り囲まれました。私はこの程度で済みましたが、四谷さまは私を庇って、深手を負われました」

 朱美は肩を震わせた。

「私と四谷さまは、なんとか追っ手をまき、この店にたどり着くことができたのですが、四谷さまは相当にご無理をなさって……」

 初音は父の傍らによって、額に浮かんだ汗をぬぐう。

 さすがの父も、女性を守りながら、複数の敵と戦うのは難儀であったであろう。

 それでも、傷を負いながらも逃げきったのは、さすがである。

「そして、これが、そのお刀でございます」

 朱美は神棚に頭を下げ、上にのせられていた盆を初音の前に置いた。

 盆の上には、白鞘に入った、懐刀がのっている。

 雷蔵は手をのばし、刀を手に取り、その刃を抜いた。

 見事な波紋を持つ刃だ。刀の地金は、鈍色にびいろより、さらに黒に近い。

 まるで、行灯の細い光を吸いこむかのように、静かに光る。

「これは……」

 雷蔵が驚きの声を上げた。

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