第6話 中島
秋の日は、落ちるのが早い。
雷蔵と初音が佐奈川の河口沿いを歩いていると、水面が徐々に朱に染まり始めた。
対岸に見える黒い岩肌は、夕日を背にして、いっそう黒く見える。
「星見岬は、その昔、この地に訪れた者が、山中で迷い、やっと星を見ることができたという意味でつけられたそうだが、実際、あそこまで行って星を見る者はいないだろうな」
ぽつり、と雷蔵が呟く。
星見岬につながる道は山道で、かなり険しい。
海から上陸することは、ほぼ不可能な、切り立った崖。
河口の東側の穏やかな地形に比べて、人を拒む地形となっている。
そして、その岬の周囲は、ごつごつとした岩が突き出ていて、潮が渦を巻いているという。
「黄泉の岩戸とは、物騒ですよね」
「ああ、あの話か」
雷蔵が苦笑した。
「白浪の古い言い伝えもあるらしい。遠い昔に閉じられたはずの、黄泉の入り口があるとかないとか。事故の多い場所だからな」
危険の多い場所ゆえ、伝説が語り継がれているのかもしれない。
「しらみつぶしに捜しに行こうと思っても、船を確保するのが難しそうだ」
船の扱いに長けた人間でなければ近づけぬ場所であるが、金を積んでも行きたがる人間は少なそうである。
「とりあえず、中島に行こうと思う」
雷蔵が星見岬をみつめたまま、言った。
「星見岬に船が隠してあったとしても、左門がそこに潜んでいるとは思えない。中島には、一つ心当たりがないわけでもない」
初音に、否はない。
「初音どのは、ここに……残ることは、なさそうだな」
「はい」
頷いた初音を見る雷蔵の顔は、夕日の影になってよく見えないが、どうやら笑ったようだった。
「娘姿は、今日で見納めだな」
小さな声で、雷蔵が呟く。
「明日からは、また、剣士に戻ってもらう……少し、残念だが」
雷蔵の手が伸びて、初音の髪に触れた。
初音の身体がぴくりと震える。
すると、雷蔵の手がすっと引っ込められ、初音に背を向けた。
「帰ろう。今夜はゆっくり休むとしよう。朝は早いぞ」
「はい」
自分の中にある何かに気づかれてしまったのかもしれないと、初音は思わず下を向く。
ーーこの姿がいけないのだ。
いつもの自分に戻れば、甘い幻想は消えるに違いないと、初音は自分に言い聞かせる。
雷蔵の背中が、遠くなっていく気がした。
出立は、日の出前となった。
よく晴れた空はやや薄暗く、辺りには霧が出ていた。
初音は、若衆のように髪を結い、男物の小袖と袴をまとった。もともと着ていた白の小袖では、あまりにも目立つからだ。
雷蔵は、相変わらず、無精ひげのままだ。昨日の話から見て、ひょっとしたら、この無精ひげは、変装なのかもしれない、と初音は思う。雷蔵も謹慎中であり、あまり目立つのは得策ではない。
潮の加減もあって、廻船屋の朝は早く、深い霧の中でも人で賑わっている。
「おや、雷蔵さま」
半平がにこやかに出迎えた。
「中島に行きたい。二人、乗せてもらえないかな?」
「中島ですか?」
半平は驚いたようだった。
昨日の話から見ても、中島で荷物をわざわざ下すこともないだろうし、まして、中島に用事があるような人間はほとんどいないのだろう。
「片道だけでよろしいので?」
中島からの定期便はない。再び船に乗ろうと思っても、難しい。
半平の問いは、そこで待っているべきなのか、それとも迎えがいるのかどうかを聞いているのだ。
「ああ。送ってくれたら、それでいい」
「なるほど」
半平は帳面を繰りながら、考え始めた。船頭や船のやりくりなどがあるのだろう。
「では、
「構わん。よろしく頼む」
「では、こちらに」
雷蔵から代金を受け取ると、半平は丁寧に頭を下げ、ついてくるように言った。
日の出が近づくにつれ、霧がさらに深まっていく。
半平が案内してくれた先にいたのは、ひょろりとした老人だった。半平は老人に仕事の内容を話すと、目の前の小さな舟に乗るように言った。
川を行きかう船の中でも、小さな舟である。
伴三は、長い櫓を握った。帆は張らないようだ。
「では、良い旅を」
「ああ、無理言って悪いな」
深々と頭を下げて見送る半平に、雷蔵は声を掛け、舟に乗り込んだ。
初音も、不安定な足元に気を配りながら、ゆっくりと乗り込み、座った。
「伴三と申します。中島でよろしかったですね?」
伴三はもやいの綱をほどくと、舟を漕ぎ始めた。
川は穏やかで、舟はゆっくりと上流へと遡っていく。
川岸の風景は霧に包まれていて、舟のへさきにはのびる水面が見えるだけだ。
「すごい霧ですね」
初音は伴三に話しかけた。
「そうですねえ。これだけ霧が出るということは、日中はかなり晴れてくるかと」
巧みに舟を漕ぎながら、伴三が答える。
「中島のどこへ行くのか知りませんが、霧の深いうちに動かれると、道に迷うかもしれませんよ」
「そうだな」
本当にどこに何があるのかわからないほどの霧だ。
「あのあたりは、獣道が多くて、もともと迷いやすいですから。くれぐれもお気を付けになった方がよろしいかと」
「詳しいな」
「へぇ。若いころは、薬草をとりに山に入りましたんで。ご領主さまの狩場が近いから、あまり奥に入ったことはないんですがね」
ギィギィという櫓をこぐ音が響く。
しだいにあたりが明るくなりつつあるが、霧はまだ濃く、周囲の色彩は失われたままだ。
「これだけ霧が濃いと、どこに何があるかわからんな」
「そうですねえ。ただ、風もないんで、舟自体は速度が出ませんし、次がどうなっているか分かっておりますから操船は、それほど難しいものではありません」
伴三は、言いながら櫓を操る。
巧みに、舟の位置を動かして、川を遡っているのが、素人にもわかる。
これだけ視界が悪いと、「見えてから」反応してはダメなのだろう。速度はそれほど出ていないが、腕は確かといった半平の言葉に嘘はなさそうだ。
「こういう霧の日は、普段運航しないんですか?」
「仕事によりますね」
初音の問いに、伴三はにかっと笑った。
「霧は日が髙くなれば晴れてくることが多いですから、そこまで待つこともありますよ。ただ、旦那方のように中島までならたいした距離でもないし、積み荷も多いわけじゃない。まあ、こんな状態のときは、あっしのようなおいぼれが役に立つという感じですな」
伴三は誇らしげだ。
「一つ聞きたいのだが、廻船屋以外の人間が、この川を舟で移動していたら、目立つかね?」
「どうでしょうねえ。港なら絶対に気づきましょうが、川はそれなりに広いですからねえ。ただ、まあ、他の船とすれ違ったり、視野に入ったりすれば、気づきますでしょうなあ」
伴三は首を傾げた。
「何せ、漁師の顔も見知った人間ばかりですからね。知らない人間はすぐ噂になります」
「そういうものか」
雷蔵の言葉に、伴三は頷いた。
「もっとも、今日みたいに霧が深かったりすれば、舟の数は減りますし、相手の顔は見えませんから、意外と誰も気づかない可能性も高いかと」
「なるほど」
雷蔵は手を顎にあて、無精ひげをなでた。
「夜に運航という船は多いのか?」
「めったにありませんねえ。何しろ危険ですから。お上の御用船とかならあるでしょうけど」
「御用船、か」
積み荷によっては、港奉行所が民間の廻船屋を使わずに運ぶことがある。
奉行所は、専門の船頭がいるのだ。
「もっとも、お上の御用船は、かがり火を焚いて、派手に行きますからね。目立たないとか目立つとかの問題ではありません」
「まあ、そうだな」
雷蔵は苦笑した。
「実際、かがり火を焚いても夜は危険です。影が濃いですし。よほどの急ぎでもない限り、あえて夜にというのはあっしの知る限り、数えるほどしかありません」
伴三は櫓を動かして、舟のへさきを岸よりに寄せ始めた。
「そんな仕事があったら、荷主の意向がどうあっても、内緒にはなかなかできるものでもないですからねえ。その場で、わからなくても、廻船屋が請け負ったのであれば、すぐ広まります」
横のつながりが強い、と半平も言っていたが、雇い主だけの問題だけではなくて、船頭たちもそうなのであろう。
「あっしらに気づかれず、目立たずにとなりますと、
「だろうな」
舟のへさきがどんどん岸に寄り始め、うっすらと川岸に作られた桟橋がみえてきた。
「もっとも、あっしたちは、朝早いんで、仕事の
「そうか。なるほどな」
伴三の言うとおりだ。
川そのもので見つからなくても、城下に入る時に張り番はいて、廻船屋の届けのない船が城下の港に入ることは難しいのだ。
「中島ですよ」
伴三が船を桟橋に寄せ、もやいの綱を手早く繋いだ。
「誰も居ませんね」
霧の桟橋の周りは、小屋が一つあるものの、人の気配はない。辺りが霧に包まれているせいもあるだろうが、なぜこのような場所に、桟橋があるのだろう、という感じである。
「世話になった」
雷蔵と初音は、伴三に礼を言うと、舟から降りた。
伴三は、少し休んでから、白浪へ戻るらしい。
降り積もった落ち葉が道を覆い隠している。枝にまだ残っている葉についた水滴が、ようやく上った朝日に照らされて、きらきらと光っている。
「これからどこへ?」
「一人、会いたい男がいる」
初音の問いに、雷蔵は答えた。
朝霧がゆっくりと消え、青空が広がり始めていた。
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