第3話 木蓮

  洗いたての青空が広がる。

 木々を抜ける風は、比較的暖かで、病み上がりの初音にも心地よかった。

 白浪の港は、潮の国の城下から少し離れた沿岸部だ。

 初音は、雷蔵の案内で山道を辿った。港のある白浪への交通は、佐奈川さながわが利用されているため、陸路を使うものは少ない。そのせいか、他に人影はなかった。

「海を見たことは、あるか?」

 峠に差し掛かったところで、雷蔵が初音に話しかけた。

「ないです」

 潮の国は、文字通りの沿岸国家ではあるが、城はかなり内陸部の盆地にある。

 周りを低山とはいえ、山に囲まれているため、城下にいる限り、海は見えない。お転婆娘の初音とはいえ、城下から出たことはなかった。

「そうか」

 雷蔵は微笑んで、初音を手招きした。

「わぁぁぁっ」

 突然、視野が開ける。

 入り組んだ海岸線、広い佐奈川の河口、そして広がる青い海。

 ほんの少し、風に潮の香りが混じっている。

 白浪の港は、佐奈川の河口にあり、川と海の境界線に広がっている。

 町は川の東側の緩やかな緩斜面にあり、川の西側は、ごつごつとした黒い岩山になっていた。

 そして、その向こうに青い海が広がって、どこまでも続いている。

「あれが、海!」

 初音は、目を見開いた。

 話には聞いていたから、それほど驚かないと思っていたけど、想像以上に広い。

「本当に、広くて、綺麗」

 青い水平線は、はるか遠い。こんな時だというのに、心が躍った。

「俺は、ここの景色が好きでね」

 雷蔵は目を細めた。

「あの岩山のほうが、星見の岬ですね」

 初音は岩山を指さした。

 ごつごつとしていて、岩が硬く、木が生えないことで有名な岬だ。もっとも木が生えぬのは、海に突き出た岬の部分だけで、内陸部は鬱蒼とした森になっている。

「そうだ。不思議な光景だろう。ここにくると、この国は、本当に綺麗だなあって思える」

 初音は、雷蔵を見上げた。どこか苦しそうに見える。

 綺麗じゃないものを見てきた、そんなふうにも思えた。

「そうですね」

 初音が頷いてみせると、雷蔵は、少し恥ずかし気に首を振った。

「すまぬ。今はそれどころではないのに」

「いえーー私も、一瞬、いろんなことを忘れておりましたから」

 笑いかけた初音と目が合うと、雷蔵は慌てたように顔をそむけた。

「さて。白浪までまだ遠い。少し休憩したら行くとしよう。だが、無理をせず、疲れたら言えよ」

「はい」

 初音は渡された水筒を口にする。

 海はまだ遠く、波の音はまだ聞こえない。鳥のさえずりがしている。

 峠を下る道は、山の木々が彩りを添えていた。



 白浪の港は、交易の拠点なだけに、かなり大きな町である。

 入り組んだ海岸の奥まったところにある港と、佐奈川の河口を中心として、町ができており、やや小高い所に、白浪の港を管理するための役所と役人たちの家がある。

 交通の要所でもあるため、役所といっても、ちょっとした砦の役割ももっている。

 町に入ると、昼を回っていた。

 初音は、雷蔵と共に街道沿いの『木蓮』という名の呉服屋に入った。

 どうやら、雷蔵の知り合いの家らしい。

 かなり懇意にしているのだろう。ほんの少し店のものと話をしただけで、奥の座敷へと案内された。

 すぐに杉浦の家の様子を見に行くつもりでいた初音は驚いたが、よく考えたら、初音は杉浦の家を知らない。ここは、雷蔵に任せることにした。

「初音どのは、病み上がり。ここで少し休むといい」

「はい」

用意された部屋は、奥まった離れだった。日当たりが良く、温かい。

それほど広くはないが、床の間には花がいけてあった。

 座布団は、分厚く、上等なものだ。

「雷蔵さま」

店主であろうか。

襖がすらりと開き、年配の男性が膝をついて頭を下げた。

「多兵衛、世話をかけるな」

「とりあえず、簡単なお食事をご用意させておりますが、何かご入用のものはございますか?」

「そうだな。まずは、彼女に着替えを」

「かしこまりました」

多兵衛と呼ばれた男は、頷いた。

「左門から連絡は入らぬか?」

「へえ。あれ以来、ぱったりと」

「そうか」

雷蔵は、顔をしかめた。

「最後に、どんな話をしたか覚えているか?」

 多兵衛は、首を傾げた。

「熱心に地図を眺めておいででしたねえ。廻船屋のところに話を聞きに行っていたようですが」

「廻船屋?」

「ああ、握り飯ができたようです」

 多兵衛は、廊下を渡ってくる音の方角を見て立ち上がり、襖から離れた。

「お疲れになったでしょう。まずは、腹ごしらえをなさったほうがよろしいかと」

「そうだな」

 雷蔵は話を打ち切る。

 使用人たちが運んできた膳の上には、握り飯が二つと、湯飲みに入ったお茶、たくあんがのっていた。

「やあ、うまそうだ」

 雷蔵は嬉しそうに笑い、初音にも食べるように促す。

「ありがとうございます」

 頷いて。

 初音は、握り飯を見つめながら、考える。

 今のやりとりから見て、左門は、この店に滞在したことがあるのだろう。

 思えば。

 左門は家に帰らぬ日も多かった。母が生きていたころは、そんなこともなかった気がするけれど、最近は、三日くらい家を空けることは、よくあることだった。

 そして、そのことで初音に何かを語ることもなかったし、初音も聞こうとはしなかった。

 話してくれたかどうかは別として。

 少しくらい、話を聞いていれば、今回のことの手がかりになったかもしれない。

 父の左門と仲が悪かったわけではないが、初音はあまりにも父の仕事について知らないことに気づく。

「どうした?」

「え?」

 考えに沈んでいた初音を、心配そうに雷蔵がみつめている。

「いえ。あまりに父のことを知らなかったのだなと思って」

「仕事内容は、たとえ家族でも、明かさない。生真面目な左門なら、不思議はない」

 言いながら、雷蔵は握り飯を口にした。

「それより、疲れてはいないか? 食欲はあるのか? 熱は下がったとはいえ、本来ならまだ休んでいなければいけない状態のはずだ」

「……疲れてはいますが、お腹はすいております」

 初音は苦笑した。

「私の食欲は、無敵ですよ」

 うら若き乙女が自慢することではないのかもしれないが、事実だ。

 ぷっと、雷蔵が噴き出し、声をたてて笑った。

「そこまで笑わなくても、いいじゃないですか」

 思わず、初音は口を尖らす。

 もちろん、笑われることを言った自覚はあるのだけど。

「すまん。ああ、でも、健康的でいいぞ」

 頭を下げながらも、目が笑っている。

「どうせ、女らしくないやつだとおもっていらっしゃるのでしょう?」

 かぷり、と、初音は握り飯を食べ始めた。

「……女らしくない?」

 雷蔵が不思議そうに首を傾げる。

「いいのです。女だてらに剣術を習いはじめたころから、言われ慣れておりますから」

 初音は握り飯を平らげ、温かいお茶を飲んだ。

 空腹が満たされると、それだけで幸せな気分になった。

「剣に天賦の才があると、左門が言っておった」

「本当ですか?」

 雷蔵の言葉に、初音は目を見開いた。

「ああ。それゆえに、やめさせることができなくなったとも、言っておった」

「父が、そんなことを?」

 天賦の才があるかどうかは別として、左門が初音の剣術への傾倒を複雑な思いで見守っていたのは事実だろう。

「男に生まれておれば、父もいらぬ心配をせずに済んだでしょうね」

 初音は自分の手に視線を落とす。

 四谷の家の娘ということで、周りは大目に見てくれていたところはあるが、それでも奇異な目で見られることの方が多かった。

「いくら許嫁が決まっているとはいえ、いつ破談になるやもしれぬと、気をもんでいたかもしれません」

「許嫁?」

 雷蔵の目が見開いた。意外な言葉に驚いているらしい……初音は肩をすくめた。

「正確には養子縁組です。四谷の家には男子がおりませんから。私の夫・・・というより、四谷の跡取りとして、です。もっとも、家が取り潰されてしまっては、それどころではありませんが」

「左門は必ず見つけ出し、疑いは晴らす。気弱な話は口に出してはいかん」

 雷蔵に諭され、初音は苦く笑う。

 その通りだと思う。もっとも、父が見つかって、無罪となっても、相手が初音を拒否する可能性は決して低くはない。だが、会ったこともない婚約者に気に入ってもらうための努力をしている余裕など、今はない。

「まずは、少しでも体力を取り戻せ。初音どのの剣、頼りにしている」

 どこまで本気なのかわからないが、雷蔵の微笑みは優しい。

 自分のことを多少は認めてくれている、と思うと、胸がふんわりとした。

「残念だが、そなたを守ってやると言えるほど、俺は、強くない……悪いな」

 雷蔵は、小さく呟き、立ち上がる。

「少し出てくる」

「私もーー」

 初音は腰を浮かしかけた。

「初音どのは、ここにいろ。心配せずとも、明日からは忙しくなるゆえ、薬湯を飲んで横になっていろ」

 雷蔵は、胸元から竹筒をとりだし、初音に手渡す。

「……これ、苦いんですよね」

「しかし、よく効く」

 くすりと雷蔵が笑う。

「もう治りましたけど……」

「お子様だなあ」

 決めつけられて、初音は大きくため息をついた。

「飲みますよ……子供じゃありませんから」

 初音は竹筒のふたをとって、渋い顔をした。

「子供じゃないと言っているうちは、子供だ。きちんと飲むんだぞ」

 去り際の雷蔵の言葉に、初音は大きくため息をついた。

ーー確かに、子供なのかもしれない。

 海を見てははしゃぎ、薬を飲めと言われて文句を言う。

 父の行方を案じている大人の女の行動ではないかもしれない。

ーー大人の女って、どう行動すればいいのかしら?

 初音は刀の柄をそっと撫でる。

ーーわからない。

 もっとも、普通の娘だったら、おとなしく役人に連行されていただろう。ここに居ること自体、初音が普通じゃないということなのだ。雷蔵が初音を子ども扱いするのは、ある意味で当たり前かもしれない。

 初音は薬湯を口にして、苦さに顔を歪める。

 苦いのは、味だけではないーーそんな気がした。 



 

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