DORO-DORO

 先程まで晴れていた空を、ぶ厚い渦状の暗雲が覆い、頭上で雷鳴が轟くのと同時に生温く湿った風が吹き荒れ始めた。

 昨日見たビルの筈なのだが、同じものとは思えない程の禍々まがまがしさを帯びている。


 雑貨屋の噂を口にしていた人間が、今は誰も何も覚えてないという《不思議》や、それ以前に、もしかしたら全て夢だったのかも知れないという自分への《疑心》などを、この光景が《恐怖》へと昇華させていく。


 足がすくみ、ビルを見上げたまま一歩も動けないでいると、突然、足の裏と地面との間に違和感を覚える。


 ドロリ


「きゃっ!」


 驚いて足元を見ると、ドロドロと柔らかくなったアスファルトが意思を持ったように蠢き、律子の足首を飲み込んでいた。足を抜こうと、藻掻もがけば藻掻くほどに身体が地面に飲まれていく。


「ひぃっ!!」


 手の届く物に掴まり、必死に抗おうとするが糠に釘といった様子で、ゆっくりと、淡々と沈み続ける。


「助けて!誰か!!助けて!!」


 『プゥ!ブー!ブリブリ!!』


 大きな声を出すのと同時に、特大のおならが連発されたが、それを恥じる余裕は今の律子には無く、大声で助けを求め続ける。


 しかし、先程までいたはずの通行人の姿はどこにも見当たらない。


「なんでよ…!?さっきまで…」


 身体が沈むにつれ、四肢の動きは、まるでコールタールの海で踠いているかのように重く鈍っていく。胸まで沈んだ頃には、圧で肺が押され声も出なくなり、口をパクパクとさせながら、律子は完全に飲み込まれていった。


 ドプン…




 一寸の光も射さない完全なる闇の中を律子は落ちていく。上も下も分からないが、ただ落ちているという感覚だけは明確に感じ取れた。もがくことも、息をすることもできない、いつまで続くかも分からない、暗く重い海の中をひたすらに、ゆっくりと落ちていく。


「んんー!…んん…」




 息も続かず意識を失いかけたその時、身体中に纏わりついていたコールタールのような感触から一気に解放され、肺に空気が流れ込んだ。


「ぶはぁっ!!」


 暗闇から吐き出された律子の身体は、一瞬の自由落下の後、背中から地面に叩きつけられ、再び呼吸が止まる。


 ドンッ!!!


「かはっ…! …ひゅー!…ひゅー!」


 胸に手を当て、苦しみ悶える。


「はぁっ…はぁっ…はぁっ…」


 次第に呼吸を取り戻した律子は、仰向けのまま首を持ち上げ、焦点の合わない目を細めながら辺りを恐る恐る見渡す。どうやら、細長い、廊下のような空間に横たわっているようだ。


「どこ、ここ…?」


 自分が落ちてきたであろう天井に目をやると、一部分が黒く、うねうねと蠢いていた。


「うう…夢なら醒めてよ…」


 ドロドロに濡れた重い身体を持ち上げ、なんとか立ち上がると、再び、律子を既視感デジャヴが襲う。


 薄暗く長い廊下の両側にはシャッターで閉じられた店舗が続き、そのどんつきには白熱灯に照らされた手彫りの看板が見えた。


 「ON A LAND」


「…こんなんしなくてもエレベーターで降りれるわ!!」


 目に大粒の涙を溜めながら、律子は暗い廊下に叫んだ。


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