HANGOVER

 その日の律子は集中を欠いていた。昨夜の酒のせいだろうか、顔全体が浮腫むくみ、マスクとナースキャップの隙間から覗く両目は、いつもの半分ほどの大きさしか無かった。動きもえらく散漫で、カルテを違う患者のものと間違えたり、薬の入った瓶を落とし割るなど、初歩的な失敗を繰り返す。心ここに在らずといった様子だ。


 それに怒った看護師長の怒声が響く。


大楢おおならさん!」


 ………割れた瓶の破片を片付けるりつこだが、師長の声は届いていないようだ。


「おおお大楢さん!!!大楢律子さん!!」


 首から太い血管と筋を走らせ、先程よりさらに大きな声で怒鳴る。


「あっ…はいっ!!すみません!!」


 急に現実に引き戻され、驚いた律子の返事は、握ると鳴くカエルのおもちゃの様に裏返る。


「ちょっとこちらへお願いできますか!?お話がありますので。田所さん、ここはお願いします。」


 白く長い廊下を、師長のあとに続いてペタペタと歩く。速い…。怒りに肩をワナワナさせた師長の歩く速度は、とても歩いてついていけるようなものではなく、たまに小走りを混ぜながらで、なんとか振り切られずにナースステーションに到着した。


 部屋で一人、事務仕事をしていた若いナースが、なんとなく空気を察し、そそくさと部屋をあとにする。


「あなた、今日はどうしちゃったの?全然集中出来てないし、なによりそのお酒臭さ!体調が悪いとか、そんな理由は通りませんよ!」


「はいっ!本当に申し訳ありません…」


 師長は深く一息をつき、話を続ける。


「あなたには、私も含めて皆期待しているの。私生活で何があったか知らないけど、ここは人の命を預かる場所。今日はしょうがないね、で済まされることはないのよ。こんな事言われなくてもあなたならわかりそうなもんだけど」


「はい…すみません…」


 うつむきながら力無く返事をする。


「この後もそんな調子なら今日は帰ってもらいますし、上にも話さなきゃいけなくなるわよ」


 プゥ〜…


『は?』


 不意をついて出たオナラに自分で驚く律子と、説教中にまさかのオナラを聞かされ驚く師長の声とが重なる。


「もういいわ…なんか気が抜けちゃった…」


「ごめんなさい!!ごめんなさい!!昨夜からお腹の調子が良くなくて…」


「そりゃ酒臭くなるまで飲めばそうなるでしょうよ。お腹も痛いなら、とりあえず今日は帰りなさい。周りには上手く言っておいてあげるから」



 ……………



 ロッカーで私服に着替えながら、律子はうなだれていた。


「はぁ…。やらかしたぁ…」


 下着姿のまま鏡の前に立ち、その浮腫むくんだ顔を自らはたく。うっすらと涙ぐみ、赤くなったその目は、強い反省と後悔の色を帯びていた。


「それにしても、あんなタイミングでオナラ出るかね…」


 残りの着替えを済まし、更衣室から関係者出入口まで伸びる長い廊下を、下を向きながら歩いていると、なにやら院内が騒がしいことに気が付き、顔を上げる。

 前からは、外の喫煙所で一服してたであろう2人の医師が白衣を羽織りながら、律子の横をドタドタと走りすぎていく。


「看護師長が倒れた…」


 深刻な表情で話す医師の会話の中に聞こえた一節に律子の身が強張り、全身の毛が逆立つのを感じた。


 律子は反射的にきびすを返し、私服のまま2人の医師の後を追い掛ける。


「さっきまでなにも無かったのに…」


 現場に到着すると、病室の前には人だかりが出来ていて、その中心には、壊れたおもちゃのように激しく痙攣する看護師長の姿があった。

 

 暴力的なまでの既視感デジャヴが律子を襲う。


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