人はそれを、愛と呼ぶ

笠緖

天正十三年、細川家の大坂屋敷にて

 ダンッ! と、畳の上に、拳が勢いよく下ろされる。

 たまはちら、とそちらへと一瞬視線をやるが、何の感情も浮かべる事なく再び手の中に持った針へと長い睫毛の先を向けた。チク、チク、チク、と、三針ほど進んだところで、わざとらしい舌打ちが部屋へ響く。


「知っていると思うが、俺は無視をされる事が大嫌いだ」


 男性にしては少し高めの声音が、じめっとした空気を孕みながら玉へと投げつけられた。彼女は、形の良い唇からこれまたわざとらしいため息を一つ零すと、布へと通していた針を一度、スーッ、と抜く。

 手を膝の上へと置き、ちら、と視線を真正面へと持ち上げれば、眉間に皺――どころか、鼻筋にまで皺を寄せた二十歳をいくつか過ぎた若い男の姿。額と鼻に大きな傷跡があるものの、黙っていれば当世一とも噂される程の美男と名高い彼の名は、長岡与一郎忠興ながおかよいちろうただおきという。

 玉の、夫――その人である。


「えぇ。存じておりましてよ。だから、わざと無視しているんですの。いい加減、お気づきになられたら?」

「気づいているからこそ、言ってるんだ!!」


 再び、彼の拳が畳の上に響く。

 人の話に、彼は天下一気が短いという。彼と連れ添って十年にも満たないが、人となりは十分過ぎるほど知っている。その噂は、正しい。天下広しと言えど、彼よりも気が短い人間なんてきっと存在しない。はっきりと、それは正しいと断言出来る。

 とにかく、彼は感情の沸点が低いのだ。

 あっという間に感情の湯が沸き上がる。けれど、玉も他人をどうこう言える程、気が長い方ではないので、こうして互いに沸騰しきった感情をぶつけ合う事になるのだが。


「大体、お前も武家の出自なら、側室のひとりやふたり、騒ぐ程の事か!」

「ひとりや……、ふたり……? あら。あたくし、お前さまのお側女そばめは、於藤おふじただひとりかと思っていましたけれど、違うんです?」

「藤だけと、知っていてそれを言うか! 本当に可愛げがないッ!!」


 再び、チッと吐き捨てられた舌打ちに、玉の眉根が不機嫌な感情をくっきりと皺にして現れた。


(何よ……、ひとりだけなら許されるとでも思っているわけ!?)


 このご時世、名のある武将ならば正室ひとりのみならず側室を持つことは良くある話だ。武家は常に戦と隣り合わせの生活であり、いつ、何時、死ぬる事になるかなど、わかったものではない。

 明日の保証など、どこにもないのが武家である。

 家の為に沢山の子が必要であり、その為に正室のみならず、「借り物」である側室の胎も使って道具・・を生み出す。何も、おかしな話ではない。


(だから……あたくしが怒ってるのは、そこじゃない……)


 勿論、女として夫が他の女と情を交わしたと知れば、心穏やかではいられないのは事実だ。けれど、玉が嫌だった事はそれよりも――。


(それを、あたくしに隠していたって事よ……!!)


 玉は、紅の刷かれた唇をぎゅ、と結ぶ。

 三年前――後の世のいうところの「本能寺の変」が起き、父は主君に仇をなした。

 その時、本来ならば謀叛人の娘は離縁されてしかるべきだっただろうに、夫・忠興はその咎が及ばないように、玉を三戸野みどのへ幽閉した。当時は、父の謀叛、そしてその後実家の滅亡など、様々な悲劇が襲ってきたが、それでも忠興は玉を見捨てる事はなかった。

 二年の歳月は流れたものの、玉は再び彼の妻として戻ってこられたのだ。

 ――けれど。


(側室を持った事は、まだいい……。そうじゃなくて、それをあたくしに隠して……、子が生まれるまで、隠していた事が問題なのよ……!)


 武家において、側室の管理は正室の仕事である。

 側室を持ちたいのならば、何故、相談してくれなかったのか。

 否。

 幽閉中に関係を持ったから、という事が言い訳になるのならば、何故ここに自身が戻ってきた後も、隠し通していたのか。


(それは、あたくしを軽んじているに等しい行いよ……っ)


 あの謀叛より前は、大切にされていると思っていたし、実際ただひとりの妻として大切にされていた。けれど、あれから三年。離れて暮らした歳月は、彼の心も遠くに追いやってしまったのだろうか。

 謀叛人の娘ゆえに、そう軽んじられるのだろうか。


「……あたくしに可愛げがないなんて事、お前さまはとっくにご存知かと思っていましたわ。そんな可愛くない古女房の許に、何しにいらしたのかしら?」

「そういう物言いが、可愛くないと言ってるんだ」

「お生憎さまに御座いますわね。生まれついての性分ですの」

「……本っ当、可愛げないな……」


 いい加減聞き飽きた舌打ちが、もう一度響く。

 かつては言葉を交わせば交わす程、同じ時間を過ごせば過ごす程に、一層距離が近づくような気がしていたのに、今ではただただ煮え湯を互いに飲ませ続けるに等しい時間ばかりが積み重なっていく。

 互いに真冬の如き視線をしばらくぶつけ合っていたが、それをふい、と先に逸らしたのは忠興だった。普段よりも早い幕引きに、玉は軽く睫毛を上下させる。

 彼は懐から何かを取り出すと、ス、と畳の上を滑らせるように彼女へとそれを送った。くるくると回転しながら流れてきたそれは、玉の膝に当たりようやく止まる。


「……え、これ……」


 視線を落としてそれを見遣れば、扇型の小さな厚紙。金箔が貼られたそれは、キラキラと小さな光をいくつも弾いており、その上に歌が綴られていた。


 ――みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに

           みだれそめにし われならなくに


(そう、言えば……)


 結婚した当初、彼が自ら百人一首の歌留多かるたを手作りし、贈ってくれた事があった。そう暇なわけでもない彼が、一枚一枚手作りしたものなので、結局いまだ玉の手元には全ての歌は揃ってはいないのだが。


(と言うか、あたくしもすっかり忘れていたと言いましょうか……)


 謀叛からの幽閉の慌ただしさですっかりその存在を忘れてしまっていたが、確かに、これは彼が昔贈ってくれたものに間違いない。


「玉」

「……何です」

「黙っていた事は、詫びる」


 すまなかった。

 視線を外したままにそう呟いた忠興の声に、玉はハッとおもてを上げた。けれど、既に彼の姿は障子戸の向こうへと消えており、遠ざかる足音ばかりが空気を揺らしていた。


(……何よ)


 まさか、これを新たに作り届けに来たとでも言うのだろうか。

 手に取ったそれは、どこまでも幸せが広がっていると信じていた頃に贈られた歌留多と全く同じで――。


「この歌……於藤との事への言い訳にしか見えなくてよ。お前さま」


 沸き立った感情がほどよく冷えた後に、思わず零れ落ちたその言の葉は、懐かしいあの頃と同じ声音だった。

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