第1話
10月の、とある金曜日――
「今日も、もう4時ですか。今日も一日何事もなく、平和に終わりそうですね」
と、僕は読んでいた新聞を置いて、探偵事務所の時計を見ながら言った。
この新聞も、午前中にも一通り読んでしまったので、もう読むところがない。
探偵や警察が暇なのは、とてもいいことだ(今日、警察が暇なのかどうかは知らないけど)。
昨日の東京は一日中雨だったけど、今日はいい天気だな。二階の窓から見下ろす外の光景も、平和な日常が流れているようだ。
うん?
一匹の野良猫が、ものすごいスピードで何かを追いかけている。ネズミでも、いたのだろうか?
どうやら平和じゃないところも、あるようだな。
探偵事務所にネズミが入ってこないように、気を付けないとな。
申し遅れたけど、僕の名前は
この探偵事務所で、探偵として――いや、探偵助手として働いている。この探偵事務所の、唯一の従業員だ。
「悪かったわね、明宏君。今日も、何も仕事が入らなくて。なんだったら、別の仕事を探してもいいのよ。よかったら、私が紹介するわよ。希望の職種はある?」
と、言ったのは――
明日香さんは年齢不詳(聞いても、何故か教えてくれない)だが、見た目は20代の後半くらいかな?
身長は、『たぶん168センチくらい』と、言っているけど、どこからどう見ても169センチの僕よりも、数センチ高いのだ。
何年も、身長測定をしていないのだろうか?
年齢のこともだけど、どうして本当のことを教えてくれないのだろうか?
僕がこの探偵事務所で働くようになったきっかけは、今から二年前に僕が偶然巻き込まれた事件で、明日香さんに助けられたことがきっかけだ。
その事件後、何故か明日香さんから『私の、助手にならない?』と誘われたのである。
僕は、明日香さんに惚れていたこともあって、間髪を容れず『なります!!』と、即答していた。
なんとか明日香さんと付き合いたいと思っているのだけど、残念ながら明日香さんには、その気はないみたいだ。
「あ、明日香さん……。決して、そういう意味では――」
確かに、探偵助手には向いていないのかもしれないけど、せっかく好きな女性と一緒に働けているのに、辞めたいなんて絶対に思わない。
「冗談よ。心配しなくても、ちゃんとお給料も払うわよ」
ちなみに、この探偵事務所は、不動産業の明日香さんのお父さんが所有しているビルで、格安の家賃で借りているそうだ。
お父さんには『家賃なんか、いらない』と言われたらしいけど、『社会人として、それは駄目だ』と断って、少額だけど支払っているそうだ。
家賃が格安じゃなかったら、僕の給料は出るんだろうか?
このビルは築20年くらいの三階建てで、一階は駐車場になっていて、今、僕たちがいる二階が探偵事務所、そして三階には明日香さんの住む部屋がある。
僕は明日香さんの部屋には一度も入ったことがないけど、いつかは入りたいと思っている(決して侵入したいとか、変な意味ではなく、いつか明日香さんの恋人になって、堂々と入りたいのだ)。
「なになに? 明宏さん、何の話?」
そのとき探偵事務所のドアが開いて、一人の長身の女性が入ってきた。
「やあ、
探偵事務所にやって来たのは、残念ながら依頼人ではなく、明日香さんの妹の明日菜ちゃんだった。
明日菜ちゃんは身長174センチ(僕よりも、5センチも高い。うらやましい)で、数年前からモデルとして活動している。
年齢は、21歳(たぶん、明日香さんとは、結構離れているだろう)だ。
芸名は、カタカナで『アスナ』という。最近はテレビのバラエティー番組などでも、大人気である。
ドラマにも出たことがあるけど、その演技力は――いや、この話は止めておこう。誰だって、苦手なことの一つや二つはあるものだ(僕は、一つや二つどころではないけど)。
明日菜ちゃんは、明日香さんのことをとても尊敬していて、探偵事務所にも時々やって来るのだ。
そんな明日菜ちゃんのことを、明日香さんも応援している(あんまり口には出さないけど)。
「ちょっと、出かける途中に寄ったの。それよりも、さっき二人で何を話していたの? 何か、事件の話?」
と、明日菜ちゃんは、僕と明日香さんの話の内容が気になるようだ。明日菜ちゃんも、事件の話は好きみたいだからな。今までも、明日菜ちゃんが関わった事件もあったし。
「いや、別にそんなに大した話じゃないよ」
と、僕は笑った。
「そうよ。明宏君に、別の仕事を紹介してあげようかって言っていただけよ」
と、明日香さんは、真面目な顔で言った。
「えっ、明宏さんを?」
「明日菜ちゃん、それは明日香さんの冗談だから」
と、僕は慌てて言った。
「そ、そうだ、明日菜ちゃんコーヒーでも飲む?」
「明宏さん、私、すぐに出かけるから――」
という、明日菜ちゃんの返事を聞かないうちに、僕はコーヒーを入れにいった。
「お姉ちゃん、明宏さんに別の仕事なんて紹介できないでしょう?」
「どうしてよ? 私だって、お父さんほどじゃないけど、人脈はそれなりにあるのよ」
明日香さんと明日菜ちゃんが何か話しているみたいだけど、よく聞こえないな。
「そういう意味じゃなくて、お姉ちゃんが明宏さんと離ればなれになんて、寂しくてなれないでしょう?」
「ど、どういう意味よ明日菜。ど、どうして私が明宏君がいなくなると、寂しいのよ――」
「私が言わなくても、お姉ちゃん自身が一番よく分かっているでしょ」
「そ、そうね……。雑用係は、やっぱり一人くらい必要よね」
「もうっ、素直じゃないわね。いったい、誰に似たのかしら?」
「明日菜ちゃん、コーヒーお待たせ」
僕はコーヒーカップを、明日菜ちゃんの前に置いた。
「明宏さん、ありがとう」
「明日菜ちゃん、素直じゃないって何の話?」
と、僕は聞いた。
「ああ、それは――」
と、明日菜ちゃんが言いかけたところに「明宏君が、素直に言うことを聞かないっていう話よ!」
と、明日香さんが割って入った。
「えっ? えっ? す、すみません! ここで、働かせてください!」
僕は、必死に懇願した。まさか、明日香さんは本気で僕を辞めさせたがっているのか?
『冗談よ』というのが、冗談だったのか?
「そうだ、お姉ちゃんも明宏さんも暇だったら、今から私と一緒に来てくれない?」
と、明日菜ちゃんが言った。
「今から一緒にって、どこに行くのよ?」
と、明日香さんが言った。
「私これから、高校時代のお友達の家に行くんだけど、よかったら二人も一緒に来てよ」
「どうして私たちが、明日菜のお友達の家に? 私はともかく、どうして明宏君まで一緒に行くのよ?」
「実は、私に相談をしたいことがあるみたいなんだけど、探偵のお姉ちゃんがいてくれたら、もっと何かいいアドバイスでもできるんじゃないかなって思って。まあ、明宏さんはオマケっていうことで。その方が、お姉ちゃんも嬉しいでしょう?」
「なんで、私が嬉しいのよ……」
確かに、嬉しいのは明日香さんの方じゃなくて僕の方だ。
明日菜ちゃんは、何か勘違いしているのだろう。
「お仕事じゃないから、報酬は出せないけど。帰りに、ラーメンくらい奢るわよ」
えっ? 夕食、奢り? ラッキー。
少しでも食費が節約できるのは、本当に助かる。
「僕は、行ってもいいですけど」
と、僕は嬉しそうに言った。
「いいわよ、ラーメン代くらい私が払うわよ。いくら明日菜の方が稼いでいるからって、妹に払わせるわけにいかないでしょう」
「さすがお姉ちゃん。やっぱり、持つべきは優しい姉ね。ねっ、明宏さん」
「えっ? そ、そうだね」
あぁ……、年下の女の子に奢られてラッキーなんて思った数秒前の自分が、恥ずかしいやら情けないやら……。
「それじゃあ、お姉ちゃんも明宏さんも行くっていうことで決まりね。それじゃあ、お姉ちゃんの車で行こう」
「明宏君、残業代は出ないけど、運転よろしくね」
「はい、分かりました」
まあ、夜まで明日香さんと一緒にいられて、夕食も奢ってもらえる(もう、開き直って、堂々と奢ってもらおう)から。
僕たちは、探偵事務所の一階の駐車場に下りてきた。
この駐車場には、車が3台分駐車できるようになっている。その内の1台分は、明日香さんの白い軽自動車が停まっている。
僕が運転席に乗ると、明日菜ちゃんが助手席に、明日香さんが後部座席に座った。
本当は、明日香さんに隣に座ってほしいところだけど、この軽自動車にはカーナビがないので、明日菜ちゃんに助手席から指示をしてもらうことにした(明日菜ちゃんの指示は、少し不安だけど)。
ちなみに、明日香さんも明日菜ちゃんも車の運転免許は持っている。
明日香さんの運転は、とても荒いと僕の中では有名な話だ。
初めて明日香さんの運転する車に乗ったときは、制限速度ギリギリで進路変更を繰り返す運転に、思わず絶叫しそうになった。
よく今まで無事故無違反を続けていると、ある意味、感心してしまう。
今は、そこまで荒くはないけど、基本的に普段は安全運転でおなじみの、僕が運転をしている。
明日菜ちゃんの方は、明日香さんとは違った意味で怖い。
数回ほど乗せてもらったことがあるけど、他の車に衝突しそうになったり、側溝に落ちそうになったりで怖かった。
明日菜ちゃんは、自分の運転技術をよく分かっていないみたいだけど、最近はほとんど運転はしていないみたいだ。
仕事のときは、だいたいマネージャーさんが運転をしている。おそらく明日菜ちゃんの所属事務所からも、運転は控えるように言われているだろう。
「それじゃあ、出発しますね。明日菜ちゃん、まずはどっちに曲がるの?」
と、僕は聞いた。
「えっとね……。たぶん、右かな?」
と、明日菜ちゃんは曖昧な感じで言った。
「右だね」
たぶんとは、なんだ? と、思ったけど、口には出さなかった。
「あっ、やっぱり左だったかも」
「えっ? どっち?」
「うん。思い出した。明宏さん、左だよ左」
「分かった、左だね」
僕はエンジンをかけると、左へ車を発進させた――
「あれ? やっぱり――」
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