台風に飛ばされた授業
8月は蒸し暑い日が続いた。大量に耳に入って来るセミの泣き声が受験生たちの頭を悩ませていた。
「暑いですねー」
「暑いねー」
「今年の夏は今までで一番暑くなるみたいですよ」」
「まじかー」
塾で自習しているとそんな会話がよく聞こえた。そんな会話を聞いていると、
「嫌な夏だなー」と、つい思ってしまう。
実際、夏が好きではなかった私。
好きではなかったのはジメジメした暑さだけではない。元々肌がかなり弱い私にとっては夏の日差しは大敵だった。
だから毎日、日焼け止めを塗って塾に通わなければならなかった。と言ってもこの年は受験生であり、毎日室内に籠もって勉強をするだけなので例年と比べれば涼しく過ごせていた気がする。唯一、嫌だったのは塾の行き帰りだった。
日本の夏といえば台風。この時期にも台風の情報が後を絶たなかった。この年の情報源はテレビやラジオだけではない。塾の自習室や授業中に聞こえる生徒と先生の会話も情報源に含まれていた。
「台風十三号が今日来るらしいよー」
「まじでー」
八月九日。いつもの様に塾の自習室で自習をしているとそんな会話を耳にした。
「電車止まるかもね」
電車が止まる。そっか、じゃあ電車止まっちゃえばいいのに。家に帰れなくなるから。
そう思っていた。
大人だったら皆嫌がるであろう台風。
私はむしろ台風が好きだった。台風のせいで学校に行けなくなるとか、逆に家に帰れなくなるとか、、そんなハプニングが大好きだった。今でもそうだ。私は変人の塊だ。だから、台風が日本を直撃してほしいと願わずにはいられなかった。
自習室で多くの受験生が勉強に取り組む中、私も必死で勉強していると、自習室から聞き慣れた声がした。
「お兄さん、調子はどうですか?」
間違いない。Z先生の声だった。
どうやらZ先生は自分の生徒の様子を見に来ているらしい。
「やる気ねえ」
だるそうな少年の声がした。
「今どこやってるの?」
「中三の因数分解」
どうやら少年は私と同じ高校受験の子らしい。
親近感が沸いた。
「まあ、頑張って下さい」
そう言ってまた足音が遠下がっていくのを感じた。
Z先生、絶対私に気がついてないよね。笑える。
そう思いながらも、心のどこかでZ先生が来てくれるのではないかと期待する自分がいた。
しばらくして例の女子高生とZ先生の楽しそうな話し声が聞こえてきた。
きっと廊下ですれ違った所なのだろう。
「あ、ぶつぶつのっぽだ」
「うるさい、モモンガ」
そう言い合ってる声がして、私の胸が締め付けられた。Z先生が女子高生と話す声は本当に楽しそうだった。明らかに私と話している時と態度が違うもん。
きっと好きなんだろうな、Z先生は。
耐え切れなくなってイヤホンをポケットから取り出す。そして使い古しのウォークマンにイヤホンの先を挿して音楽を流した。それでも聞こえて来る2人の会話。音量を徐々に上げていった。
不思議なことにそうすると気が落ち着くのだ。
だから、2人のことなんて気にせずに勉強に集中することが出来た。
どれだけ時間が経ったのだろう。音楽に聴き入りながら数学の問題を解いていると自分の椅子に振動を感じた。明らかに自分が揺らしている椅子の振動ではない。
地震?
イヤホンを耳につけたまま、私は後ろを振り返った。
椅子を揺らている主を見た瞬間、心臓がドクンとなった。
後ろにいたのは、マスクをつけたZ先生だった。
「先生!?」
私はすぐさまイヤホンをはずした。Z先生は真顔のまま、しかも私の椅子の背を離さずに、真っ直ぐ私の目を見ていた。
「先生、なんでマスクなんですか?」
マスクをしているZ先生のことが気になった。
「ん?別に特に理由はないけど」
「そうなんですねー」
「うん」
「なんでここに居るんですか?」
「え?ちょっと様子を見に来ただけ。大丈夫かなって」
「気にしてくれてるんですか?」
「うん」
「優しいですね」
そう言って私は笑った。
「あ、ありがとう」
Z先生も嬉しそうに笑ってくれた。
「台風で授業なくなるかも」
「え!?まじですか!?」
「うん。今塾長と話し合いしてる」
この日、Z先生との授業を予定していた私は残念に思った。
「そうですか」
Z先生はしばらく黙って私の様子を上から見つめていた。どこの範囲をやっているのか確認してる様だった。
「ま、ってことで頑張ってねー」
そう言って私が返事をし終わらないうちに自習室から去ってしまった。
Z先生は台風みたいだよなー。急に来て急に去っていく。
全く動きの法則がつかめないよ。
またしばらく自習をしていると、今度は見たことがある先生が次々に自習している生徒の所を回って話をしているのがわかった。ウォークマンの音量を下げていたので彼らの会話はバリバリ聞こえた。
「今日なんですけど、台風が接近している影響で塾があと30分で閉めちゃいます」
Z先生の言っていた通りになった。
あと30分で塾が閉まっちゃうんだ。
なんで台風、来るんだよ。
大好きだった台風をこの時、生まれて初めて恨んだ。
そしてその先生は、私の所にも回ってきた。
「聞こえる?ちょっといいかな?」
先生が私のそばにしゃがみ込みながら話しかけて来る。
その先生を顔を見て、すぐにその人が廊下でZ先生と私が言い合いをしていた時に話しかけてきた人だとわかった。
「はい、聞こえてますよ」
「自習中ごめんね」
「いえいえ」
「実は今日、台風の影響であと30分くらいで塾を閉めることになりました」
わかってました。さっきから先生の話、聞こえているんでという言葉を心の中にしまった。
「そうなんですね」
「はい。で、今日もし授業があったら誰先生の授業か教えてくれるかな?」
「Z先生です。7時からの」
その先生は手元にあった紙を見る。どうやら何かを探しているようだ。
「えーーーっと・・・Z先生ね。よし、あった」
そう言って鉛筆で何かを囲った。恐らく、授業のシフトの紙だろう。
「わかりました。じゃあ、今日の授業は別の日の振替になるけど大丈夫かな?」
「はい。全然大丈夫です」
「よし、おっけー。ありがとう」
そう言ってその先生はまた、私の隣にいた生徒に声をかけていった。
あの先生も大変そうだな。
そう思いながら、あと30分、必死で勉強を続けた。
そして塾が閉まる時間。塾が閉まる前の最後の授業が終わり、沢山の人が帰宅していっていることがわかった。自習をしていた人たちも
「もう帰ろうぜ」
「台風来るんだってな」
「ねえ〇〇、一緒にかえろー」
などの会話をしながら席を立ち去っているのがわかった。
1人ではあったが私も「そろそろ帰らなくちゃ」と机の上に出してあった勉強道具をしまい始めていた。
ちらっと廊下の方を向いたところ、たまたまZ先生が自習室の入り口に立って私の視線をふさいでいるのがわかった。
Z先生は私に気がついたのかはわからない。
Z先生が満面の笑みで自習室に残っていた生徒たちを両手で手招きをし、
「早く帰ろう!先生たちが帰れなくなっちゃう!早く早く!」
といって生徒たちを笑わせていたことを今でも覚えている。
そしてZ先生に促された私たち残りの生徒たちも受付を通り、塾を後にした。
きっとこの後、Z先生を含む塾に残っていた先生たちも無事に帰ることができたのだろう。
台風の風が強まり、雨に打たれながら私は帰路に辿り着いた。
しかし、こんな皮肉なことが世の中にはあるのだろうか。
家に着いた瞬間に空は徐々に晴れ上がり、眩しく街を照らし出したのである。
一緒に家にいた母はベランダに出て、
「これで一安心ね」
と喜んでいたが、Z先生の授業をその日受けることが出来なかった私は素直に晴れたことを喜べるはずがなかった。
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